論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」」(第330回)水のかすかな音(ね)

 大阪の門真の友人から小さい本が届いた。
 『いのちの水』(トム・ハーパー、訳・中村吉基、絵・望月麻生、新教出版社、2017年、以下本書とするね)。
 ちょうど1か月前に岩倉図書館へリクエストを出した本だったので、図書館から連絡が入る前に、友人から届いて、少しびっくりした。
 「キリスト教が舞台ですが、仏教でもイスラム教でも同じ問題を抱えていると思います。もし、もう入手済みで読まれていたら、またどなたかにおまわしください」と手紙が添えられながら。
 ありがたい。ありがとう。
 短いので、すぐに読了。でも、もういちど、さらにもういちどと読み返す。何回読み返せばよいのか。きっと本書を必要としないときまで、読みつづけなければならないだろう。そういう本書だ——。
 本書は寓話。「むかしあるところに、岩だらけの広い荒野があった」と始まる(ページが打ってないので、明記できない)。
 その荒野に巡礼道があり、「岩から水が湧き出ている場所があった」。
 この泉は誰が発見したのか、わからない。
 そうして、これがきわめて大切なのだが、誰のものでもない。水というものは、もともと誰のものでもなく、生きとし生けるものたちのすべてのものである。
 「ただ単にのどの満たされることを体感して驚き、喜んだ」。
 「その水を飲むと体も心もいやされ、希望と勇気がふたたび強められたのだ。人々は生きることに新鮮な意味と豊かさを発見した。それぞれの重荷をふたたび担い、新たな思いで歩きだすことができるようになった」。
 この泉は「生きる水が溢れる場所」と名づけられ。「いのちの水」と呼ばれるようになった。
 時を経て、ひとびとはこの泉に感謝し、記念碑を建てるようになった。
 その碑はしだいに大きくなり、聖堂になり、周囲はなんと高い壁で包囲されてしまう。
 儀式が生まれ、規則が定められる。水を飲めるひとも限定される。
 その限定政策をめぐって、争いが生まれた。戦争は最悪最低最大のいのちへの犯罪。いのちの水をめぐって、戦争がはじまるのである。
 勝ったひとたちは、いっそう大きな記念碑と壁を造り、泉も覆われ見えなくなり、ついに忘れられてしまった。
 「神殿のかたわらを通り過ぎるとき、むかし聞いた隠された泉の物語を思い起こし、言葉にできぬほど強い懐かしさと憧れに捉えられた」。
 泉を管理するひとに「誰もがふたたびその水を飲んで力を得られるよう」と迫るひと(預言者)が現れたけど、殺される。
 「ごくわずかな巡礼者たちの耳に、ときおり奇跡のような音が聞こえていた。(略)はるか深い底から聞こえてくる、流水のかすかなこだまだった。そのとき、決まって人々の眼は涙で覆われるのだった」で本書は終わる。
 いろんな解説や説明は可能。でも、あえて止める。
 このラストの「はるか深い底から聞こえてくる、流れのかすかなこだま」の音を、いまここでも味わいたいと思う。
 どのひとにもある「いのちの水」だ。その音は。
 そんな音がすっかり聞こえなくなっているひともいるし、その音の存在自体を疑っているひともいる。
 もともとみんなにある音。宗教以前の、中村哲さんの湧き水のような音。聞こえてほしい。
 「かすかなこだま」の音がいまここにある。
 その音によって、地上の権勢を相対化させる精神の運動が生み出される。そのささやかな精神の運動を、ただ宗教と呼んだだけ。もともと何もない。相対化できなければ、宗教に存在価値はない。地上の価値を絶対化し、その価値を体現しないひとを差別するようなものは宗教ではない。そんなことを本書は示現している。
(10月18日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
おむすびを食べながら――スワロウ カフェとの共催の例会へ、ようこそ、ようこそ(その2)

 何よりもまずひとりひとりが静かに気づいていくこと。
 それが何よりも大切ではないか。
 すれば、日米安保なんて、「米軍の駐留権と基地貸与を認めただけ」の条約だ、とすぐにわかる。
 この2つだって、スゴイことだけど。
 ならば、「米国が日本を守ってくれている」「だから(お世話になっているから)思いやり予算を米軍に届ける」なんて、妄想とわかる。思いやり予算なんて不要ともなる。スッキリする。
 だから、日本に必要なのは、気づいたときにブレーキを踏むこと、それだけである。
 そのブレーキが壊れてしまっているから、いま問題なんだけど、壊れたものは直し、とにかく気づいて前へ歩むことだ。
 米国とはケンカせずに軍事条約から離れ、友好平和条約を結びなおすイメージを持って、努力することだ。
 ひとりひとりが気づいて、言葉にすることだ。声に出すことだ。
 どうだろうか。ちがうだろうか。
 ブレーキが壊れたままだったら、いずれ必ず破滅してしまうじゃないか。
 10月14日(日)、ようこそ、ようこそ。

   2018年10月例会(スワロウ カフェとの共催)
10月14日(日)の午後1時(おそいランチ)〜4時。
論楽社(左京区岩倉中在地町148:TEL 075-711-0334)。
「宇川の米のおむすびを食べながら——塩田敏夫さん(毎日新聞記者)とスワロウ カフェのひとたちと ともに語ろう」。
参加費無料(ただしスワロウ カフェと論楽社からカンパ布施のお願いがあり)。
要申し込み(私宅なので、人数の確認もしたいので、事前に必ず)。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第329回)性、いのちの根

 絵本の『花ばぁば』(ころから、2018年4月、以下本書とするね)を読んだ。
 何度も何度も本書を繰り返し眺め、味わった。
 書き手+描き手、クォン・ユンドク(権倫徳)さん。
 地味深い文と絵を紡いでいる。
 とにかく絵がいい。紅色も雲色も空色も、灰色がどこかに隠されている。いまここに在るのに、古(いにしえ)へ古へ遡っていくような絵。仏画のようでもある。
 あるいは、土の画のようである。土は過去のすべての動植物の死の総体。土が現在明日のいのちを育む。そんな土のような、地味の深い絵。祈りの絵。
 本書は日本軍「従軍慰安婦」と言われる戦時性奴隷にされた女性を中心に据えている。
 朝日新聞社のミスもあり、現首相たちの勢力が、その女性たちを「商売女たち、金もらって体売ってるんだ」と盛んに蔑んでいる。ヘイト(憎悪)している。
 本書(リクエストして右京中央図書館にあったのを借りた。今度あまりにも良いので書店で求めてみよう)の中央部のページもなぜか切り破られ、テープで補強されている。単純ミスのような破りかたではない。
 こんなことで、ヘイトスピーチをしているひとたちが言う日本国の名誉が守られるのか。心配である。
 黄土色と空(から)っぽの服。これが本書の底力を際立たせ、おもしろいのである。
 旧日本軍の男どもの肉体はあえて描かない。黄土色の軍服やくるくる回るかのように描く紐によって、象徴。
 すべてが空っぽの服のままの日本兵。あえて非在の存在感。
 日本兵。縁あって日本の男として生まれ、臣民教育を学校で受け、軍隊に入れられ、上官による私的制裁(暴行リンチ)と厳しい監視、激しい戦闘の日々。休暇もなく、食料の補給すら、ほとんどない。人権も人格もない。
 開発独裁国(当時)の日本の帝国主義侵略の日常が、空っぽの黄土色の軍服によって浮遊してしまっている。加害性まで浮遊してしまっている。
 いまだに空っぽの軍服のままに浮遊しながら、奇怪な発言を繰り返し、セカンド・レイプ、サード・レイプ。エターナル・レイプを繰り返すのか。
 謝(あやま)るって何か。ひとのために謝るのではない。自分自身のために謝るんだ。自らの内部の何か(正義とか、やさしさとか)に気づいて、それを回復して生きてゆきたいから、「悪かった」「ごめんな」という言葉が出てくるのだ。
 南京大虐殺のとき、2人の日本兵が「どっちが早く100人切ることができるか」と競走があった。それが50人か60人か切った(これだけでもスゴイ)ところで、軍刀の刃がかけた。で、この百人切り競走が終わってしまった。だから、百人切りはウソだった。ゆえに、「南京大虐殺の全体だって、伝聞だらけで、事実かどうかもわからん。ウソだ」という論があった。いまもその妄論を信じているひとがいる。
 「100のうち、1か2かがウソだったら、100のすべてがウソでいいかげんなもん」という論理だ。
 軍性奴隷の女性たちの証言もそうだ。時計もカレンダーも地図も手帳もない場所で発生したことの部分が不正確だからと言って、その全体が、すべてがウソと言えるのか。
 たとえば、1年前、1か月前の夕食のメニューを覚えているひとがいったい何人いるのか。
 軍の公文書は焼却されて、ない。あったとしても決して公開しない。そういう国家権力に対して、オモニたちは素手で立ち向かっている。その権力を、いまだに女性を差別し、朝鮮人中国人を侮蔑しているようなひとたちが支えている。
 オモニの記憶の証言が唯一の証拠なんだ。
 その言葉を全身で聞いていく以外にないではないか。現場に立って全身全霊で聞けば、わかることではないか。
 性はいのちの深い根。あたたかいいのちの源泉。
 その性をぼろぼろにして敵対する民族を抹殺しようとしたのか。辱めを与えて敵の士気を下げようとしたのか。軍人の欲求を満たしただけなのか。
 なんでいのちの根をもっと深めないんだろう。
 戦争があると必ず性暴力が発生する。日本国は全身で立ち向かわないと、また同じことを繰り返すことになる。
 してほしくない。
(10月11日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 07:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
おむすびを食べながら――スワロウ カフェとの共催の例会へ、ようこそ、ようこそ(その1)

 10月14日(日)、10月例会。
 新しい試みをする。初めての試みだ。
 スワロウ カフェとの共同開催。
 「座ろう」にスワロー(燕)を掛けて命名されたグループ。京都の米軍基地のことを考えているスワロウ カフェ。そこと共催の10月例会だ。
 京都の北の丹後半島の宇川(うかわ)という寒村に5年前、急に米軍レーダー基地が誕生。
 米国は日本に「望むだけの規模の基地を、望む場所に、望むだけの期間、自由に置くことができる」特権を有しているのである。ほんとうにどこにだって突然基地建設できるんだ。宇川でも明白。恐ろしいことだ。
 日本が主権国家ではなく、半植民地である。このことが、話題になること、全くない。米軍経費の75パーセントを、そんな日本に余裕ないのに、日本国民の税金で負担させていることも、話題になってない。新聞テレビではいちども登場しない。なぜなのか。
 宇川の生活の中心に農がある。田がある。その田んぼにスワロウ カフェのひとたちは関わってきた。この5月に4回目の田植えをし、この9月に4回目の稲刈りをした。
 その米でおむすび(おにぎり)をつくり、いただこうと思う。
 ようこそ、ようこそ。
 スワロウ カフェのひとたちとの交流で何か化学変化が起きるかもしれない。
 いままでの歩み(「みんなで考え、ひとりで行く」「政治以前の、運動以前の、宗教以前の……ひとりひとりの願いを耕す」)は、変えられないし、ありのままに交流してゆきたいと思う。
 ようこそ、ようこそ。

   2018年10月例会(スワロウ カフェとの共催)
 10月14日(日)の午後1時(おそいランチ)〜4時。
 論楽社(左京区岩倉中在地町148:TEL 075-711-0334)。
 「宇川の米のおむすびを食べながら——塩田敏夫さん(毎日新聞記者)とスワロウ カフェのひとたちと ともに語ろう」。
 参加費無料(ただしスワロウ カフェと論楽社からカンパ布施のお願いがあり)。
 要申し込み(私宅なので、人数の確認もしたいので、事前に必ず)。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 05:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第328回)パン種

 光る言葉。ただ自ら光っている言葉。それが好き。私自身にとっては、それがおいしい。
 それも、短い、小さな言葉。よく噛んで、旨みを味わいたい言葉だ。
 たとえば、そんなメモ書きの断章の25。
 ほんの少し書いてみる。カッコの中は引用者名。敬称略。直(直接味わった言葉)。

 

 1.一億一心にならないで、一億一億心になるように(藤田省三、直)
 2.所有とは窃盗である(プルードン)
 3.教会に来ようと来まいと関係ない、ひとは宗教によって救われるのでない(本田哲郎、直)
 4.親問題を解くこと(鶴見俊輔、直)
 5.耳より上に手をあげない(阿波根昌鴻)
 6.嵐から 雲から 光から
    新たな 透明なエネルギーを得て
    ひとと地球になるべき形を暗示せよ(宮沢賢治)
 7.私には顔がない(森崎和江、直)
 8.すっぽんぽんのいのちを生きる(森崎和江、直)
 9.アフガンを救うのは武器ではなく、水だ(中村哲、直)
 10.その瞬間瞬間を捨て身でかかる(中村哲、直)
 11.ほんものの図書館は天から降ってこない(才津原哲弘、直)
 12.母はいちどだって強い子になれとは言わなかった、ただ、やさしかれ、やさしかれと語りかけた(松下竜一、直)
 13.どのひとも必要があって生まれてくる(金在述、直)
 14.強制連行され、働いて、死んでいった朝鮮人の肺塚を建てる(李貞鎬、直)
 15.動けば、動く(伊奈教勝、直)
 16.あなたがいて、私がいる(伊奈教勝、直)
 17.対決するものの根づよさをようやく知りはじた(島田等、直)
 18.日本の村のつくりだしたものに比べられるような思想的達成は(日本に)まだないのではないか(谷川雁、直)
 19.祈るべき天と思えど天の病む(石牟礼道子)
 20.生きることに飢えかわいていた(近藤宏一、直)
 21.戦後の日本は外交と言い得るものはなかった、あったのは日米関係だけ(木村俊夫、安江良介から聞く)
 22.核兵器に殺されるよりも核兵器に反対して殺されるほうを私は選ぶ(宇都宮徳馬、安江良介から聞く)
 23.9条を改めたら、アジアの国の民衆の怒りと不信は10倍にも強くなる、9条改定は国の問題ではなく国際問題(日高六郎、友人から)
 24.ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら企業を倒す ということだ ぼくらの暮しと政治の考え方がぶつかったら 政府を倒す ということだ(花森安治、友人から)
 25.真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし(田中正造の日記)

 

 以上。

 岐阜の生家には本は仏教書以外なかった。新聞は岐阜日々新聞(当時、現在は岐阜新聞)。小学生のチビのころから私はその「にちにち新聞」(と呼んでいた)をよく眺めていた。気づいたら、読んでいた。言葉も覚えた。
 中学生のころから、コラム(囲み)記事を好んで読むようになっていった。
 いま、そのコラムを書いている。
 短い、(できたら)光る、旨みのあるコラムを書いてみたい。そう思っていまもペンを持つ。
 その骨子となるメモ。断章。光る言葉。
 これらを酵母にしてパンにしたい。
 食べてもらいたい。
(10月4日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 09:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第327回)供養

 透明な秋がやってきている。
 気温が20度を切りはじめる。すると掛け布団が必要になるし、ヒガンバナの開花のスウィッチが入っていく。いまここで盛んにヒガンバナが朱の花を咲かせている。
 9年前の9月にタイへ行った。スカトー森林寺へ瞑想(入門)に行った。その寺の開かれた門の前に広がっていく赤い土と青い空を、思い出す。雨季の夏がまだ残っていたけど、乾季の秋がしずかにやってきている。そんないま。湿気から解放されれる喜びがどの生命体にも訪れる。そんなタイの透明な9月——。
 あの旅の心地よい思いの多くは、豊かとは言えないターマファイワン村の力による。スカトー森林寺を支えている村だ。その文化力の魅力を思う。
 文化力って、フラットな表現すぎる。村のひとびとが持つ、死と生への目線(めせん)の深さの総合力と言いかえよう。どういうことか。
 村びとは托鉢(たくはつ)する僧侶たち(サンガ)に喜捨をする。朝炊いた御飯をまず仏飯(ぶっぱん)としてサンガに布施する。お供えする。
 生きていく幸せの基準・根幹が、ひとに与える喜び。それは揺るがない。
 森林寺に滞在中、(私たちの仏教風土の中にもある)施餓鬼(せがき)の供養があった。
 (仏教で言う)餓鬼道へ行った死者たち。路上で倒れ無縁仏になったひとたち。その死者たちに、心を込め、喜捨する集い。
 どこか祭りのような日。いつもと違い、托鉢はなく、逆に村びとが少し着飾って、森林寺へ参り、みんなで祈り、食する日。
 みんな、信じ切っている——。
 喜捨をすれば、良い報いがある、と。
 より良い報いは私自身だけではなく、いまこここを生きているすべてのひとびとに(施餓鬼の日は特別にすべての死者たちに)、すべての生きとし生けるものに(村にはたくさんのニワトリ、牛が飼われていた)分かち与えられていく、と。
 そう祈りの言葉で、村びとが発語すると、同じ村びとがみんな、低い声で「受けとった」「受けとった」と返すんだ。
 その声。大地の声のよう。地球宇宙の声のようだ。
 これらはすべて日常の所作(しょさ)。
 その所作を2000年やりつづけている。
 もの言わぬいのち(死者、動物・植物・きのこ)と分かちあい(シェアリング)しつづけている。
 (メラネシアなど太平洋の島々では)誰かに喜捨(ふつうには贈与)しないでいると、自らの霊(のようなもの)、魂の力、富が沈滞してしまう。腐ってしまう。そう考えられていて、与えることによって、その力(マナ、パワー)が広がり、社会全体に恵みが満ち、自然の生産力が生成される——と考えられていた。
 もともと富の源泉は、すべて自然の贈りもの。植物が光合成したものをプレゼントしたことに由来している。私有し、独占するものでは決してない。
 生命力の基本を示現してくれたので、ターマファイワン村のひとたちのことが、忘れられない。
 とりいしん平さんに教えられて、長谷川義史さんの絵本『てんごくのおとうちゃん』(講談社、2008年)をやっと読んだ。
 おとうちゃんと死別してしまったぼく。さみしい。つらい。
 しかし、「ぼくは『かわいそうに』とひとにいわれるたびにおもうねん。ぼくより おとうちゃんがかわいそうなんとちゃうやろかって」。
 「このまえぼくはまんびきしそうになりました。でもやめときました。わるいことしてじごくにおとされて おとうちゃんにあえなくなったら あかんから」。
 全文が、おとうちゃんへの手紙文。心を込めた言葉によって、供養。
 死者を思い、つながることによって、生きることが律されている。「いまだけ、金だけ、私だけ」の世界観では生まれえない豊かさがある。
 しかし、「ごくらく」ではなく、「てんごく」。死後の輪廻(りんね)の存在は漠然とあるけど、それは「てんごく」に変化(げ)している。日本の現在(いま)を表出しているんだ。死後の世界が信じ切れなくなってきている。あいまいに推移。
 それでもなお、死んだおとうちゃんはぼくの心で生きており、生の倫理になっている。死んでいったひとたちの祈りによって、生かされていることに、気づく。
(9月27日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
じいさん先生――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その12)

 「おじいさん」と生まれて初めて呼ばれた。
 ホームスクールへ5月から参加している中学2年生から。
 彼女、中2だから、13歳。私とはちょうど年の差50。
 私がコンピューターがないことはすでに伝えている。だから、何かの会話の端々において、その子は「ユーチューバーってわかりますか」「ブロガーって知っていますか」と説明してくれる。
 好きな歌の話に移っていて、そのとき、その子、「おじいさんは演歌好きですか」と質問。
 「いやあ、好きな演歌、ないなあ」と私。
 「えっ!? そうですか? おじいさんはみんな好きかと思ってました」とその子。
 それだけの短い対話。
 自然な会話。
 ホームスクールの大学生からは「おっちゃん」と呼ばれているのは、すでに伝えたね。
 今度は「おじいさん」。
 自然な感じで、よかった。その感じがとってもよかった。
 そうして、思った。
 「これからは“孫”のような子たちが来るんだな」と。
 もっと、もっと“じいちゃん先生”と呼ばれるようにしていこうと。
 ようこそ、ようこそ。
 新しい出会い、待っている。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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