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連載コラム「いまここを生きる」(第304回)裸のいのち

 長島愛生園の宇佐美治さんが4月10日(火)の夕方6時に亡くなった。
 老衰(自然死)の91歳だった。
 何年か前から認知症を患い、ゆっくり、ゆっくりと大地へ帰(還)っていたんだと思っている。
 宇佐美さん、28年間、ありがとうございました。
 お会いできて、よかった。
 ハンセン病者への視線はいまだに厳しい。良くはなっているとはいえ、まだまだ厳しい。ひとびとの侮蔑軽蔑の目線は、具体的に実際に内臓の機能の低下を導くのではないのか。数量化しにくいけど、もしも非ハンセン病者のたとえば1.3倍の消耗度があるとするならば、宇佐美さん、118歳まで生きたことになるんだ、と思っている。
 生ききったんだと思う。
 「ありがとう」と言いに、4月12日(木)に葬儀に愛生園へ行った。
 斉藤貞三郎さん(毎日新聞)の運転の車に乗っけてもらい、行った。陽子さん(妻)、林昌さん(息子)といっしょであった。
 斉藤さんは家族ぐるみで宇佐美さんと付き合った。林昌さんのことを「義理の孫」と呼び、うれしそうに「こづかい、やらないかんな」と宇佐美さん、ほほえんで言っていた。
 その林昌さん、身長178センチの大学生になっているよ、宇佐美さん――。
 愛生園には子どもがいない。たとえ結婚したとしても不妊手術されているので、子どもはゼロ。だから、赤ちゃんだった林昌さんの訪問をどれだけ宇佐美さんたちは喜んだことか。
 振り返ってみよう。
 鳥取の徳永進さん(野の花診療所)によって島田等さんに出会ったのが、最初の最初。28年前のこと。島田さんに会いに長島愛生園へ行った。そこで島田さんの友人の宇佐美さんに出会った。
 宇佐美さん、両目が少し白濁し、前に少し出ていた。左目は視力ゼロ。右目は直前の手の平の指の数を数えられるぐらいの視力。
 その視力で猛勉強をしていた。生きのびるための独学をやっていた。その真剣さには敬意を持つ。
 ところが学歴というものへの拘(こだわ)りが宇佐美さんにはあった。それも強くあった。愛生園にいっしょに行った友人たちに必ず「出身大学は?」と聞くのである。
 これは学歴主義。
 学歴はあっていい。しかし、学歴主義は不要。そのひとのいのちを学歴という色眼鏡だけで見て、「ああ、このひと、この程度の偏差値か」と。そのひと自身を優生主義(思想)で把握してしまうんだ。ひとを優生(優秀ないのち)と劣勢(劣ったいのち)に区別していく思想で、現代企業社会の本道(中心を流れていく道)である。「どうやって区別するんだ?」とツッコミを入れても、誰もわからないはず。答えられないはず。だって、根拠がないもの。そんな優生思想によって、大企業が経営され、ひとびとは分断され、バラバラにされ、そうしてナショナリズムも加味されて長島愛生園も生成されたんだ――。
 宇佐美さん自身にも、きっとその拘りはどうにもならないものだったにちがない。わかっちゃいるけど、やめられないんだ。
 宇佐美さん、裸のような魂のまま、生きぬいた。学歴主義のような奇怪なものもの、矛盾したままにたもっていたしね。金泰九(キム・テグさん、近所に在住していた病友)が女性にもてているのを見て、「ワシ、妬けるんじゃ」とも言っていたし。「好きだ」とは言わず、わざと下向いて「あんたのこと、好きじゃない」と言うようなコミュニケーションをとるような所もあったね。離れがたい親しみがあった。
 いずれにせよ、ハンセン病違憲裁判の瀬戸内原告団長に宇佐美さんがなり、2001年の小泉首相(当時)の控訴断念の談判の場にも宇佐美さんがいた。
 4月12日、宇佐美さんの遺体、なぜか、口が空いたまま。大きく開いたままだった。
 空也の口から「ナムアミダブツ」という仏が出てきたように、宇佐美さんの口から「ワシハハダカ」という仏(ぶつ)が出ていたよ。
 宇佐美さん、ありがとー。
(4月19日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ハンセン病家族訴訟――斉藤貞三郎さんの4月例会へ、ようこそようこそ(その2)

 長島愛生園の宇佐美治さんが4月10日に91歳で亡くなった(連載コラム「いまここを生きる」第303回「裸のいのち」)。
 その宇佐美さんのことを一例に書かせていただく。
 宇佐美さんが大好きで「姉ちゃん、姉ちゃん」と呼んで、慕っていた叔母さんのことだ。
 その叔母の長女(宇佐美さんのいとこ)の結婚が決まり、結納がすんだ後になって、宇佐美さんの存在が知られ、急に破談になった。
 それを苦にして、叔母がなんと自死。古井戸に着物に石三つ入れて、飛び込んだ――。
 なんということ。
 このことがどれだけ宇佐美さんを苦しめたことか。
 28年前に出会った宇佐美さんは頑(かたく)なに家族のことを話さなかった。
 宇佐美さんもつらいけど、家族もつらいんだ。
 その後、宇佐美さん、2009年に奇跡的に家族関係が回復。甥(父の息子)が動く。「家の墓に入ってもよい」と言ってくれた。
 宇佐美さんはどれだけうれしかったことか。
 よかった、よかった。
 けれども、そういうひと(甥御さんのようなキーパーソン)がいないひとが圧倒的。故郷のことはタブーのまま、みんながみんな、死んでいっている。
 ハンセン病の問題は根が深い。
 4月22日(日)、学びあおう。
 ようこそ、ようこそ。

     2018年4月例会
4月22日(日)の午後2時〜4時半。
論楽社(京都市左京区岩倉中在地町148、TEL075-711-0334)
斉藤貞三郎さん(毎日新聞編集局次長)の「ハンセン病家族訴訟――歴史の伝承」。
参加費1000円。要申し込み(論楽社といえども私宅なので事前にTELを)。
交流会5時〜7時。自由カンパ制(自由参加)。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第303回)あたりまえのこと

 思い起こせば、沖縄のことを考えている。「応援加勢に行きたいな」と思っている。まだわからないけど。
 辺野古のことを思う10日間。その簡単な日録である。自分自身のためのメモだ――。

 

   3月27日(火)
 映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男――その名はカメジロー』(2017年、TBS+彩プロ)を京都シネマで見る(再上映ゆえに500円、うれしい)。
 沖縄人民党の瀬長亀次郎さんについてのドキュメンタリー映画。具体的には知らなかったカメジローさんだからこそ、かえって新鮮、おもしろかった。
 沖縄のひとびとがふつうに暮らして、ふつうに生きてある土地を、米軍が暴力(銃とブルドーザー)で収奪する。
 それにカメジローさんたちがあたりまえの抗議する。そのあたりまえさが、米軍を立腹させ、ついに逮捕。
 釈放されるとき、民衆がめちゃんこ集まる。刑務所の前は、立錐の余地の無さ。
 米軍が必死にカメジローさんをほんとうの政治家に育てている。
 暴力よりもあたりまえの言葉(演説、新聞)を。自分たちの土地を自分たちで耕すあたりまえさを。

 

   3月31日(土)
 本屋で見つけられなかった。図書館でリクエストして、やっと、届く。うれしくて、その日のうちに読了。翁長(おなが)雄志(たけし)・現沖縄県知事の『戦う民意』(角川書店、2015年)である。
 土地を奪い、苦を与えておきながら、普天間基地が老朽化し、危険だから、「辺野古が唯一の解決策だから沖縄が基地を負担しろ」「嫌ならば沖縄が代替案を出せ」と日米両政府は迫る。
 「他人の家を盗んでおいて、長年住んで家が古くなったから、『おい、もう一回土地を出して家をつくれ』と言っているようなものです。(略)こういう政策が成り立つこと自体が日本の政治の堕落ではないか、と私は思います」(同書P.32)。
 翁長さんはまっとうなことをわかりやすい言葉で言っている。当事者能力のない日本政府に、属国ではない、品格のある対応能力を求めている。そうして自らは苦を引き受け、逆に苦を生かしていく道を示している。
 戦前に石橋湛山は植民地経営からの離脱を説いた。同じように米国植民地からの自立離脱を翁長さんは説いている。両者とも、軍事費の突出した負担からの解放、独立自立するすがすがしさという果実を得ることができる。理も情もある政治家であり、ヤマトに「もうひとりの翁長」が必要と思った(膵臓の病いが伝えられている、心配だ)。

 

   4月6日(金)
 北上田毅さん(沖縄平和市民連絡会)の話を聞く。
 北上田さんは10年前まで京都にいて、移住したひと。元土木技術者。
 『世界』2018年3月号に「辺野古新基地建設はいずれ頓挫する」を寄稿(岩波ブックレットになる)。
 予定地に、とんでもない活断層があると指摘。
 4月6日には、同じく予定地のケーソン護岸工事そのものが不可能、とも指摘。海底が厚さ40メートルの超軟弱(マヨネーズのような)地盤なんだそうである。
 もちろん米軍の指示支持に基づく日本政府のことだ。活断層の上に弾薬庫をつくるかもしれないし、マヨネーズ地盤の上にもコンクリートを垂れ流すかもしれない。それでもたいへん困難な工事になる。時間もけっこうかかる。止めれば、いいんだ。こんな工事。
 頓挫させよう。あたりまえのことをあたりまえに言おう。チャンスだ。
(4月12日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ハンセン病家族訴訟――斉藤貞三郎さんの4月例会へ、ようこそようこそ(その1)

 ハンセン病療養所の入所者は、改めて言うまでもなく、被害者である。
 ところが、時にふと、入所者が「私は加害者」と呟(つぶや)くことがあった。28年前の当初、私は少しびっくりした。
 その理由を聞いて、すぐ納得したけど。
 と同時に、ハンセン病問題の根の深さに改めて驚くことになる。
 理由は家族。残された家族の問題だ。
 冷酷な差別の嵐に、吹き晒されることになる。一家心中、一家離散もあった。
 入所者本人も人生のすべてを奪われ、耐えた。その父も母も兄弟姉妹も息子娘も、結婚や就職の差別に耐えに耐えたのである。
 ある意味では、家族のほうが差別に満ち満ちている社会内に暮らすゆえに、過酷なこともきっとあったであろう。
 けれども、入所者のことを、絶対的な秘密として抱えて家族が生きたのであろうこと以外、私には全くわからない。
 2016年2月に熊本地裁に59人(のちに509人)の家族が提訴した。
 いま、少しずつ実態が明らかにされつつある。
 私は知らないので、学びたいと思っている。
 4月22日(日)に、友人でかつ長島愛生園に最も多く通っている新聞記者の斉藤貞三郎さんに来ていただき、家族訴訟について、「基本のき」から学びたいと思う。
 「いろいろな理由をつけ、一部の人間を排除し、あとの者だけが幸せに暮らす。その幸せとは何ですか」(伊奈教勝さん)――。

      2018年4月例会
4月22日(日)の午後2時〜4時半。
論楽社(京都市左京区岩倉中在地町148、TEL075-711-0334)
斉藤貞三郎さん(毎日新聞編集局次長)の「ハンセン病家族訴訟――歴史の伝承」。
参加費1000円。要申し込み(論楽社といえども私宅なので事前にTELを)。
交流会5時〜7時。自由カンパ制(自由参加)。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 18:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第302回)桜

 3月の終わりに桜を見に明子と出かけた。
 京都の八幡(やわた)の背割堤(せわりてい)である。初めて行ってみた。
 京阪電車で京都から大阪へ出るとき、いちばん気持ちのよい所がある。
 宇治川の鉄橋を渡り、再び木津川の鉄橋に橋が入るあたり。京都ではもはやなく、まだ大阪でもない。ただ川が流れているだけの所。
 空が広い。それだけで、どれだけ嬉しいことか。
 京都盆地(それも、その中の岩倉盆地)を離れた――と思うだけで、どれだけ嬉しいことか(それなりに少しは緊張して京都で暮らしているんだろうか)。
 岐阜の木曽三川の輪中で生まれ育ったからなんだろうか。
 その地は、宇治川(琵琶湖から流れ出る)、木津川(伊賀から流れ来る)に、桂川(鴨川も合流している)の三川が合流する所である。男山(石清水八幡宮)と天王山に挟まれた、昔は巨椋(おぐら)池(いまは干拓地)などの氾濫原であった所だ。
 その三川を分流しなおして、堤防を1.4キロ新しく築きなおし、そこに桜を250本植えた。その地が、背割堤。そこへ行った。
 京阪の「八幡市」駅で下り、木津川の御幸橋を渡る。歩いて10分。
 空が広い。広い。青い空が伸びやかに広がる。
 桜、満開。桜並木がふんわりと連なっている。うーん、いい気持ち。
 ひとびともけっこう集まっている。所々で弁当を広げている。中国語も聞こえている(3月の月末から2週間、「さくらマルシェ」として、出店や花見船が。桜の新名所なんだ。知らなかったな)。
 木津川が見渡せる石の上で、弁当。明子の手づくりいなり寿司。うまい。日本酒も少し持ってきたので、いただく。これまた、うまい。
 桜って、新しい春(新春)を体で味わうことができる。川原の土手で味わう初春のなのである。
 ひとは、つねに新しい時のいまを実感したくて、生きている(徳永進『三月を見る――死の中の生、生の中の死』論楽社ブックレット)。
 一月は見たか。
 二月は見たか。
 三月は見たか。
 今年の桜は見たか――。
 いのちあるものの小さくて、切実な願いは、そういう生まれ出(い)ずる新しい時を味わうことだ。たとえ病いを得ていようが、得てなかろうが。
 いまは暖衣飽食の時代(食の三分の一はなんとゴミにしているような時代)。
 でも、ずうっと、飢餓と戦う日々だった。桜は、田んぼの恵みへの切なる祈りと不可分(「サ」は穀物の精霊、「クラ」は倉、恵み。つまり「どうか豊作でありますように」「餓死者が出ませんように」である)。
 いまは百姓(百のいのちを育てる大切な仕事)でないひとも、みんな、もともとは大地の子。いまは不耕貪(どん)食で百姓をバカにしているひとも、もとのもとは、みんな大地の子。
 いまも厳しい時代。セシウム、ストロンチウムが飛び交いつづける「沈黙の春」のいまだからこその桜である。そう思う。
 ふと、なぜか、私は「クヌギ酒場」という言葉を思い出す。虫屋(昆虫愛好家)の言葉やけど。
 夏が来ると、クヌギの太い枝の木の皮の割れ目から、樹液が沁み出している所がある。クヌギの樹液は糖分が高く、甘い香りが漂っている。クワガタ、カブトムシ、ハチ、チョウ、ガが集まりつづける。ときには糖分が発酵し、アルコールの香りもすることから、「クヌギ酒場」と呼ばれている
 そうして、「まるでサクラ酒場やん、老若男女のみんな、私たちも、桜に引き付けられているね」と思うのだ。
 開いて散る10日間だけの、カウンターもイスもない、平和な酒場。
 古代人のように平和な実りを切に祈る。
(4月5日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 11:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
わがごと――永井葵さんの3月例会レポート

 3月25日の3月例会の永井葵さん(大学生)の「ひとりひとりの憲法」、よかった。
 気がつくと、その日、休憩なしで、3時間ずうっと語り合った。
 永井さん自身が醸(かも)す「何か」がいい感じを生んでいったんだと思う。
 永井さんは寡黙。大切なことだけを言葉にする。
 「話し合い(略)の際には情報の公開をためらわない誠実さ(略)が必要不可欠である」。
 このことを現在(いま)もなお言わねばならない。
 ということは、現在も「情報の公開」は全くなく、「言わば正に」内実なしの虚言を為政者からワシらは聞かされつづけているからである。
 情けないね。でも、これが日本の現実。
 3月25日参加したひとは、私もふくめて旧世代である。20歳の永井さんにいまなお「次の世代に生まれてくる子どもたちが笑って暮らせる社会を作るようにしなければならない」と言われるということは、旧世代の努力不足であったということ。旧世代にとってはつらいね。つらいけど、もっと希求していこう。
 永井さん、「学校システム」に違和感を感じ、そのことを体に保った。だから、3月25日に発表した憲法草案の原石も、「ひとごと」では決してない。すべてが「わがごと」。
 「わがごと」として紡がれる言葉は。言葉以上の何かを醸し出す。人柄とか態度とか言い表す「何か」である。
 その「何か」は、ひとの心を動かす。
 「あなたの後には何人もの仲間がいますよ」という励ましの言葉が永井さんにかけれらていた。
 「水俣病を自分のこととして考えたとき、真実が見えてくる」(杉本栄子さん)。
 この杉本さん(もうなくなって10年たつね)の言葉が思い出される。
 「わがこと」として捉え直したとき、ほんとうのことが見えはじめるのだ。
 永井さんの憲法草案の原石の提示は、そのことを教えてくれる。
 永井さん、ありがとうございました。ありがと――。塩田敏夫さんも司会していただき、れしかったな。「封建時代だって、酷い殿(君主)を閉じ込め(幽閉)したということ、やったと言うじゃないですか。あきらめないで、やればやれること、いっぱいあるんですよ」とも言っていただいたね。心熱き塩田さん、ありがと――。
 次は4月22日に斉藤貞三郎さんのハンセン病家族訴訟。また、お会いしましょう。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第301回)絵本アート伝染力

 絵本って、おもしろい。
 世界をいかに切りとるか。そのきりとりかたの味わいが、おもしろさを生む。
 その味わいによって、最近友人となった絵本を2冊紹介してみる。


1


 『あるアーティストと悪がきだったぼくのこと』(六耀社、2016年)
 あるアーティストとはファン・ゴッホのこと。けれども、アーティストという何ものかにゴッホはなりたいわけでは決してなかった。アートそのものの中に自らが生きていることを信じていた。アール・ブリュット(生の芸術)そのもののひとだったんだ。
 そのゴッホを悪がきのぼくたちがいじめるのだ(というフィクションをS・ピーコックが書くのが本書)。「世界の真実を語る」なんて呟いているゴッホを「アホか、このクレージーおっさん」とモノまで投げて、いじめた。
 あるとき、ぼくはゴッホの絵そのものに出会う。ひとりで出会う。「きもをぬかれ」、「ひざがふるえくずれだし、両目は大きくむかれます。たおれんばかりにおどろかされた」(この本、ページがない、27枚目のところだ)。そうして、これからが実にいい。「これまでの世界が、いっしゅんにしてぐんぐん大きくなり、どんどんかがやきはじめたのですから」(同ページ)。
 この感じがS・カーソンの絵にも立ち現れる。世界が黄金のようにきらめいていく。
 ゴッホが描き手のカーソンに伝染し、読み手の私にも伝染してくる。楽しさは伝染するんだね。
 (フィクションの本書では)ゴッホがぼくに「どうだい、この絵を持っていきなさい」と言う。でも、当時の世の中の常識が「ぼく」に断らせる。「ぼく」の体は正直にあんなにも「かがやきはじめた」のに。
 アートは楽しい記号。「ぼく」の体がそのアートを味わっていく一瞬が描かれていて、心に残る。

 

2

 

 『ドームがたり』(玉川大学出版部、2017年)。
 広島の原爆ドームが自らが語るヒバクの物語。アーサー・ビナード(ぶん)とスズキコージ(え)。
 もともとは広島県物産陳列館。設計したのが、チェコのヤン・レツルさん。「じぶんの丸い頭にすこしにてる建物」(この絵本にもページ数は打っていない、6ページ目のところ)。それが主人公の語り部。
 圧巻は、広島の町全体が殺されるところ(14ページ目から)。スズキコージの絵がすごい。絵がつらい。

「川を見れば、つぶつぶつぶつぶつぶ
山を見れば、つぶつぶつぶつぶつぶ
人も車も、つぶつぶ(中略)。
ウランのつぶつぶをぼくの上でわったんだ。広島の空で、いっこいっこの原子をいっきにわっちゃった。」(18ページ目)

 世界がバラバラにさせられる。ひとりひとりのつながりもバラバラにさせられる。セミも花びんもドームも、みんな、あらゆるものがバラバラにさせられるんだ。
 世界がテンテンテンの点で描かれる。むかし、光を点描で切りとった画家がいたが、そんなんじゃない。無気味。荒涼。寒心。スズキコージの絵の魅力によって、世界がバラバラにさせられていくかのような思いが醸(かも)される。このとてつもなさも、伝染していく。私に伝染していく。
 いのちへの戦争。いのちへの全体主義戦争(藤田省三)は終わっていない。「カケラのおっかないのはきっとじりじりじりじり1000年ものこるんだ」(27ページ目)。いまここでもジリジリジリと続いている。
 『ドームがたり』は傑作。目に見えない、匂わない、味もない世界をアートとして表現しようとした。きわめて、おもしろい。
(3月29日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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