論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第166回)切なくても本気
 2015年8月下旬の10日間の日録である。
 過ぎ去っていくとき。そのひとときを酵母にし、いまここに醸し出してみたいと思う。

  8月21日(金)
 39度もあった京都盆地の気温が一気に下る。急に7度、8度降下する。
 もともと京都盆地は暑気が籠もる。ひと昔前には「33度もあった」なんて驚いていたのに。
 いまや35度にも誰もびっくりしていない。びっくりしていないで、私も必死のパッチで慣れようとする。
 慣れ始めるとすると、一気に朝夕が涼しくなりはじめる。
 とたん、何か、体の中のセンサーが戸惑うのを感じる。いま、暑いのか、そうではないのか。もう涼しくなるのか、そうではないのか。予測できない。戸惑う。
 体は正直。気づくと、鼻水が出て、セキが出ている。
 私を私たらしめているものが更新できない。そんなとき、カゼをひく。まあ、ゆっくりカゼをひこう。

  8月23日(日)
 『日米地位協定――基地被害者からの告発』(岩波ブックレット、2001年)を再読。
 「京都の米軍基地で何が起きているのか」(本ブログ・ほっとニュース)を書いて、楢木祐司さんに送る。8月30日の8月例会のためのニュースを、いまごろ、書く。遅れて、申し訳ない。猛暑を経てのカゼ。やっと、スウイッチが入る。
 地位協定。この植民地協定を、誰も、どの政治家も潰しえていない。国士・重光葵(まもる)がしっかりと立ち向かっていた。芦田均(ひとし)、鳩山一郎、石橋湛山(たんざん)と、なんとか体当たりはしようという気迫はあった。でも、すべて失敗。
 少なくとも、この問題を白日の下にさらされることをまず望む。2人に1人が「ああ、チイキョウテイのことね、あれはひどい」「誇りをもって死んでいけるような社会にならんとね」とふつうに対話するくらいまでにはしないと。

  8月25日(火)
 8月例会のために、朝5時から手紙を書き始める。短文の手紙を心をこめて書く。郵便ポストへ、何回か通う。
 Faxも、送り始める。
 「心をこめる」しか、私には方法がない。
 きのう、本の整理をしていて、志樹逸馬の詩集『島の四季』(編集工房ノア)をパラパラと、ふと読む。感じることがあるので、コラム「自分」(本ブログの毎週木曜日の連載)を書く。
 ホームスクール(家庭学校)。茨木のり子さんの死のときのこと、伝える。台風の風がめちゃ強い。

  8月26日(水)
 施餓鬼(セガキ)供養の日。明子、広島の実家の寺の手伝いで帰る(28日に戻る)。
 この日、亡父の誕生日でもあった。
 この世にいないひとの生まれの日を思う。
 死者に水をささげる。忘れかけていた記憶のかけらの光に気づく。父が好きだったやまいも(とろろ汁)を食う。

  8月27日(木)
 朝5時から、きょうも8月例会のために手紙を出し、Faxをする。大そうじをして、準備をしはじめる。
 夕方、腰や肩が少しいたくなる。町へ出る。
 10年ぶりに開業した河原町の丸善京都店へ行く。木屋町の「わからんや」で鈴木君代さんのライヴを聞く。

  8月30日(日)
 4時半に起きて、準備。雨少し降るけど、結局上がる。
 塩田敏夫さん(毎日新聞記者)が話してくれる。大津支局長時代の気迫で話してくれる。復活だ。
 米軍という現在最強の暴力装置。その強制力の前で、そんなつもりではないのに、ワシらの半分が馬鹿になっちゃって、もう半分が偽善者になってしまっている。フツーに米軍や地位協定、安保条約について、もっとしゃべって、もっと書かれて、もっと本を出していい。
 全力を尽くして、21人の参加者。よかった。こんどは25人、30人を目指したい。もっと実力を持ちたい。
 きょうは12万人が国会周辺に集まって抗議したという。私は行けなかったけど。全く、同じ思い。抵抗しよう。不服従だ。
(9月3日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 20:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ときどき連載コラム「いのち――その断章」(第47回)親と子
 心に残る小冊子がある。パラパラと眺めてみる。
 『ちぎられた心を抱いて』(国立ハンセン病資料館、非売品、2008年)。
 「隔離の中で生きた子どもたち」というサブタイトルが添えてある。
 ハンセン病を得た子どもたち。
 「らい予防法」によって、親から引き裂かれた子どもたち。
 「1、2年で治ったら、故郷親元に帰ることができる」と言われたけど、親は来ない。
 「柳の青い芽がでたら、島へ面接に行きますと、桃の蕾がふくらんで白くなったら行きますと(略)。ああ母さまはなぜこない」(田島康子さん)。
 裂かれて、ちぎれる心。
 ひとりの女の子の写真がある。
 勝ち気そうな目に、どこかに「捨てられたんだ」という深い淋しさが同居している表情。着物に、おかっぱ髪。「1930年、多磨全生園」とある。
その後、彼女はどんな成長をしたんだろうか。いまも生きてあるのだろうか。
 親子の相互自己肯定。
 それがあって、子どもはこの世界に生まれさせられたという根源的な受動性、無実性を自ら解除して、このムチャクチャな世界を受け入れていくのである。
 それがあるのか。彼女に。
 こんな証言もある。心がなごむ、少しだけ。
 「ネムにさわるとすーっとこう葉が閉じる、それを見てもう親恋しくて。ええ。こう、ああ、お父さんお母さんにこうされたいなあ(葉が閉じるように抱かれたいなあ)、って気持ちでね。」(工藤昌敏さん)。
 ネムの木のうすい紅が東の空に飛んで砕けて、みんなの朝焼けになる気分。
(8月29日)
| 虫賀宗博 | いのち――その断章 | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第165回)自分
 ふと、自分というものが自分でわからなくなることがある。
 そういうとき、自分の中の何かが滞(とどこお)っているのにちがいない。
 あせってはいけない。
 いまここに帰って、無言でいる、もうひとりの、ほんとうの自分を探す。
 私の中にいる言葉を持たない自分だ。言葉に表すことのできない自分自身だ。
 なじみの湯呑み、茶碗を手にしているだけでも、落ち着き始める。懐かしい画集、仏典を眺めていても、出会い直すことができる。
 大好きな、小さいモノたちは、どんな言葉よりも雄弁に語ってくる。的確に示現してくれる。
 本というモノも、饒舌に無言で、「自分とは何か」を指差してくれるのである。
 深呼吸しながら、自分の記憶をもっと、もっと耕さねばならないんだ。
 「もう十分だ」なんてことは、きっと、ない。
 耕してゆけば、知らなかった自分に出会うことだって、もっとできるではないか。
 自分の記憶の庭に育っていくこと。
 出会いと別れ。励まし、促しの声、涙。川の流れの水の音(ね)、匂い。それらすべの記憶の庭から立ち現れてきたものが、私の人生なんだろう。
 もっと、意識的に拾遺してみようか。
 漏れ落ちたモノをもっと意図して拾い集めようか。
 きょう、本箱の片隅で拾ったのは、志樹逸馬。
 その詩集『島の四季』(編集工房ノア、1984年)。その本というモノが心に迫ってくる。ふしぎなんだけど。
 志樹逸馬(1917〜1959)。長島愛生園で生きた。

  死んで
  どこの土になろうとも
  またそこから芽生えるであろう
  生命というもの
  もう一人の私が停っている地上を思う
        ――畑を耕(こぼ)つ

 この42歳で死んでいった詩人のこと、私はほとんど知らない。
 私が縁あって出会った愛生園のひとびと。その最初に出会ったひとびとから「光田派」(光田健輔初代園長を支持する同志会)と「反光田派」という分類法を知り、きっと、無意識のうちに、この詩人のことを「光田派」として、心にピンで留めていたのであろう。私の心の狭さゆえだ。
 いま、出会う。出会うべくして、出会っている。どうだ。この詩。いまの私にぴったしかんかん(古い、古いね)。

  これだけでしかない わたし
  上から見ても
  下から見ても
  唯 おのずから在り得べくして
  あるがままに
  このわたしでなければならない わたし
  どこにも無い 一つのもの
  淋しそうだが
  又 いばってもいる
        ――わたし

  曲がった手で 水をすくう
  こぼれても こぼれても
  みたされる水の
  はげしさに
  いつも なみなみと
  生命の水は手の中にある
  指は曲っていても
  天をさすには 少しの不自由も感じない
        ――曲った手で

 「(志樹逸馬の詩は)今の私たちのいるところをしっかりと照らす鏡となっている」(鶴見俊輔の帯文)。
 志樹逸馬、自分の物語を書き切っている。八木重吉のように生きて、書きぬいている。
 すごい。
(8月27日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
京都の米軍基地で何が起きているのか――8月例会のお知らせ
 8月30日(日)に、8月例会。
 まず前座として、私が鶴見俊輔さん(1922〜2015)について、追悼スピーチを少し。
 メインとして、塩田敏夫さん(毎日新聞記者)。
 赴任先の京丹後市の経ヶ岬に米軍レーダー基地ができてしまい、「いま実際に何が起きているのか」の報告をしていただく。
 米兵たちが京丹後市に住みはじめ、車を使って、移動しはじめると、スピード違反が起き、事故も起きはじめている。
 日本の警察はちゃんと機能しているんだろうか。米軍車両のナンバープレートを見ても、ビビッタリせず、取り調べをしっかりやっているのでしょうか。米兵が日本の運転免許証を持つ必要がないって、ほんとうなの?
 米軍基地は騒音は出ているのでしょうか。「こんなはずじゃなかった」という地主がいっぱいるのではないのか――。
 日米安保条約というのは「米軍が日本を守るため」に存在している。そう言われ、そう信じられている。多くのひとはそう思い込んでいる。
 そのために日本全土、どこにでも米軍基地がつくれるのである(日米地位協定第2条)。対等な主権国家間ではとうていありえない基地提供ではないのか。
 その実相を塩田さんに話してもらわなかったら、沖縄の辺野古のことも、いや沖縄全体のことも、この日本全体のことも、結局、ワカラナイ。
 「来てほしい」と願ってる。
   2015年8月例会
 8月30日(日)の午後2時〜4時半。
 論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL 075-711-0334)。
 (前座として)虫賀宗博「親問題という問いかけ――ありがとう、鶴見俊輔さん」。
 塩田敏夫さん(毎日新聞記者)の「立ち現れてくる問題――いま京都の米軍レーダー基地で起きていること」。
 参加費1000縁(要申し込み、論楽社とはいえ私宅なので必ず事前に申し込みのTELを)。
 交流会5時〜7時。夕食会(3、4ヶ月に1回のペースで食事とお酒を出すことに)。参加費自由カンパ(酒量に応じて1000円とか、1500円とか、2000円とか……)。
 塩田さんは、毎日新聞大津市局長時代に、才津原哲弘能登川図書館長との縁で出会う。現在は志願して、毎日新聞の京丹後市の峰山駐在記者へ。農や海に生かされ、どんな逆境であっても生きぬくひとびとの姿に、ポジティヴ・ニュースの可能性を追う記事を書く。
 縁あって、タイへの仏教修行を私といっしょにした友人。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
青い、青い空を――7月25日(土)のホームコンサートのレポート
 戸張あかりさんの故郷は、福島の会津。
 大震災が起きた直後、物流がストップした。
 宅急便は、もちろんストップ。水もパンも、何も送ることができなかった。
 あかりさんは、心配でならず、新潟経由で会津の実家へやっと辿り着くことができた。
 再会できた。
 喜びのとき。祖父からふと三味線をプレゼントされるあかりさん。三味線に出会うのである。
 縁である。大切な縁を受け、練習する。稽古する。
 写真1(5枚、三味線があかりさん、ギターが岳陽さん)は。福島の民謡「相馬盆唄」。つい、この間まで、飯館(いいだて)村でも大熊町でも双葉町でも、ふつうに歌われ、踊っていた曲である。いわば、大地にしみている音楽だ。
 そういう音楽を歌うことの意味は深い。
 田んぼを渡ってくる風の歌を味わえないことも深い。
 7月25日(土)のホームコンサートをして感じたことは、「『青い空』の危機は福島だけじゃない」というあたりまえの気づき。
 日本中が放射能の雨が降ったということが、もちろんある。
 そして、また、いつ放射能の風を浴びるかもしれないこともある。
 でも、たとえそういうことがなくても、戦争経済の嵐の中で、ひとをひとと思わない生活が日本全土に広がっており、田んぼの風をすでにゆっくりと味わえなくなっているのである。
 沖縄が、釜ヶ崎が、愛生園が、例外ではなくなっている現在(いま)があるのである。
 けれども、それでもなお、私は、私たちは、生きねばならないのである。
 「青い空」を、風を、夕焼けを取り戻して生きてゆかねばならない。
 私は「青い空」を聞いてほしいし、歌っていってほしいと願っている。
 このうたは、福島の悲劇だけじゃない。
 日本の各地の、現在(いま)の悲劇の現実なのだ。
 写真2(5枚、あかりさんは立って歌い出す)は「青い空」を歌うあかりさん。

  あの空は いつまでも 本当の空だ
  すべての空は つづいているから
  だから決して見失わないで
    あの山の上の青い青い空を
              ――青い空

 アカリトバリ(戸張岳陽さんとあかりさんのコンビ)、ありがとう。「青い空」を教えてくれたポコ(寺元健二)さん、ありがとう。写真の斉村康広さんも、ありがとう。みんなのおかげ。感謝、感謝。ありがとうございました。
 3週間の猛暑。私、くたびれていた。ゴメン。レポートがおくれた。
 いいコンサートだったな。
 「青い空」、広まってほしい。

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写真1

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写真2
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第164回)逢う
 グレゴリー・ヴァンダービルトさん(以下グレッグ君とする)が2年半ぶりに来日。ヒロシマ、ナガサキ、長島愛生園、大島青松園を回って論楽社へ、やってきた。
 現在、インドネシアの大学で宗教学の講師をしている。ジャワ島のジョグジャカルタ(ヨグヤカルタ)に住んで、気持ちよく暮らしている感じ。元気そう。
 論楽社のこの15年の歩み、動きをグレッグ君は実によく記憶している。私が忘れてしまっていることでも、覚えている。
 ひとの動静について。すべてが「面々の御はからひなり」(歎異抄)と私は思っている。それぞれがそれぞれに業縁を抱えているのであるから。去るひとを追う必要はない。そのひとのこともどんどん忘れてしまっている。
 もちろん、決して忘れてはいけないことがある。グレッグ君と対話していると、「忘れてはいけないこと」と「そうではないこと」が区別整理がつく。こういうことができるひとが大切な友人なんだ。そう思った。
 4日間、そういう対話ができ、8月14日にインドネシアへ旅立っていった。
 「元気で、またね、グレッグ」――。
 すると、その日に、伊波敏男さんの『父の三線と杏子の花』(人文書館、2015年8月)が郵送されてきた。新刊である。
 「おもしろいなあ」と思って、パラパラと読み始めるのである。
 あれれ。グレッグ君が同書に登場するのである。
 手作り絵本『花・カラチューチ――お休みどころ・フィリピンへ行く』である(同書P.81〜83、P117〜119の2か所)。絵や英訳でグレッグ君の名前が出てくるのだ。
 びっくり。
 同書は伊波さんが2週間に1回ブログに書いていった10年間のコラムを取捨選択して、まとめたもの。
 『花(略)』はフィリピンのクリオン島へ行った旅の記録。
 クリオン島は長島愛生園づくりのモデルとなった島。そのハンセン病の診療所で働く看護師のバルチュア・チョナさん。
 そのチョナさんが「伊波基金」のなんと最初の奨学生。これにも、びっくり。
 「伊波基金」は、同書の伊波さんが受けとったハンセン病賠償金によって設立。フィリピン国立大学医学部の学生を対象に地域医療を目指すひとたちのために、生まれた。
 フィリピンでは医学部を卒業したひとが10倍以上の給料を求めて欧米へ出ていってしまう。医師不足。その解消のために、「基金」は設立されたのである。
 私はまことにおもしろい縁と思い、同書を読了する。
 その伊波さん、誰なのか。説明する。
 伊波さんは1943年、沖縄生まれ。14歳でハンセン病を得る。全快。社会復帰し、障害者授産施設「東京コロニー」および社団法人「ゼンコロ」の常務理事。伊波さんのように、すべてのことを明示して社会復帰したケースは、他にあまりないのではないか。
 1997年に『花に逢はん』(NHK出版)を刊行。自伝である。
 この本が突然に送られてきて、私は伊波さんを初めて知る。
 島田等さんの友人(弟子のような友)なんだ。読了してすぐわかった。詩集『次の冬』(論楽社ブックレット)の引用もある。伊波さんの結婚式への島田さんの祝詞もある。愛生園にあった岡山県立邑久(おく)高校の新良田(にいらだ)教室の生徒だった伊波さん、島田さんと交流があったのだ。「伊波さん、『らい』は美しいんだ」と島田さんは語っていたという。
 「東京コロニー」を辞して、信州の上田市へ移舎した伊波さんに礼状をさっそく書いた。交流が始まり、論楽社の「講座・言葉を紡ぐ」に2回来ていただいた。
 伊波さんは苛酷な運命に文字通り体当たりして切り開いてきた。こんな社会復帰者はいない。運命とは、自らのいのちを運んで動かしていくことではないのか。つねに命運をかけ、切り開いてきた。「動けば、動く」(伊奈教勝)ことを明らかにしてくれているひとだ。敬意を持っている。
 その伊波さんが2004年から信州沖縄塾を開いて、立ち向かっていることが、同書から伝わる。同書の半分は、沖縄の現状の苦闘だ。
 日本が「駐留米軍にすべての特権を白紙委任したことによって生じている問題」(同書P.232)が、沖縄。日本は独立し、変わらなければならない。
 おもしろい夏が行く。
(8月20日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第163回)親問題
 鶴見俊輔さん(1922〜2015)のことである。その続編。
 私たちに残された種のこと、少し考えつづけている。
 いまここで思うことを書いてみよう。
 「柿の木」という短い短詩がある。
 ローマ字で書かれている。なぜ? 誰にも読ませたくなかったのか。
 まあ、コンコンと湧くイメージだけは残したかったのではないか。
 「柿の木は 柿の木である ことによって 罰せられているのに なぜ その柿の木に 傷をつけようとするのだろう(後略)」。
 原文のローマ字ではなく、改行もせず、あえて書いてみた。いまは意味だけを抽出したいから。
 ローマ字だと何とか均衡がとれている世界が、
 日本語にすると、とたん崩壊しそう。なんとも痛そうな短詩。
 この「柿の木」は何だ? いったい誰だ?
 わからない。
 ここで鶴見さんが語っていた親問題のことを思い出してみよう。
 親子の問題じゃない。親問題だ。
 「なんでこの世界に生まれてきたんやろうか」とか、「生に意味はあるのか」とか、「どうしてこの病にかかったんだろうか」とか、考えなきゃ、生きていけないような問題のこと。人生根本の問題。
 「どういう仕事につこうか」とか、「どういうひとが好きなのか」とか、親問題から派生してくる諸問題は、すべて子問題、孫問題だ。
 鶴見さんと対話していて、この親問題のことを聞き、私はずいぶん楽になった。問題のありかが自覚されたからである。
 親問題は解けない。解決できない問い。その、解けないことによって存在している親問題に立ち向かおうと自覚できたのである。
 この詩「柿の木」も、鶴見さんの親問題をめぐってのことだ。
 やっぱりお母さんの存在が大きい。
 おそらく鶴見さんの全著作がお母さんに向かって綴られたものではなかったのか。
 お母さん(愛子さん)は「偉くなってはいけない」「もっと下積みのひとになってくれ」と全力で長男(鶴見さん)を育てた。
 偽善のひとではないんだ。偽善のひとだったら、穴がある。抜け穴がある。
 出口がないのである。
 もう、不良少年になるしかなかったんだ。
 正義には自由がともなわないと、息苦しい。逃げ場がないと、生きることができない。そう気づかせてくれたのは、お母さん。
 ひとに伸(の)しかかってくる国家悪を疑いぬき、非戦はもちろん、死刑廃止、ハンセン病のことに生涯をかけて、立ち向かわせたのも、根本はお母さんの「正しさ」なんだ。
 鶴見さん、たしかに苦しかったね。
 でも、互いに全力でぶつかるこでしか、親問題という人生の本質は明らかにならないし、ライフスタイルを形成していくことにもつながらない。
 その結果、特権から離れ、酒も飲まず、倹約し、勤勉な生活ぶり。ひとの何倍もの仕事をやっていくエネルギーが生まれた。一生分どころか、二生分、三生分も愛してくれた母のエネルギーが結果として鶴見さんを育てた。
 たしかに母によって傷つけられた。愛憎の「憎」の部分は知恵を出して、乗り切っていくことができた。鶴見さんの持つ「空(くう)」のような透徹した知恵である。寛容の「空」だ。
 それが、結局、名編集者・鶴見俊輔を育てたのではないか。どこか、おばちゃんのような男性。出会ったひとを受容し、励ましていった。ひとを傷つけない、やさしいひとだった。
 そして、イシに出会ったね。80代の後半の最晩年に、イシと出会い、いつもいつも語ってくれたね。
 イシの物語。
 100年前の実話。北米のネイティブ・アメリカンのヤヒ族の最後の生存者。たったひとりで「文明社会」に現われ、生きて、死んでいったこと。高貴な精神の、石器時代人のイシ。「もうひとりの」M・ガンジーのようなイシ。
 その未来性。殺されえない高貴な精神性。500年で消滅させられても、今後500年、1000年でもういちど原生林が増え「文明」を包んでいくようなイシの未来性を、鶴見さんは確信していたと思う。強欲戦争経済の米国の敗北を見通していたと思っている。
 イシの敗北力をいまここで思う。
 鶴見さん、ありがとう。ありがとうございました。
(8月13日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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