論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを味わう」(第20回)造化(ぞうげ)

 昔ながらの便箋に7枚、綴られている手紙をいただきながら、2週間も返礼ができていません。
 時間をかけて綴っていく手紙は、書き手と読み手の双方の生きていく記憶がより深まっていきます。
 手紙の中心のテーマのネガティヴ・ケイパビリティ(negative capability)も、要するに言わんとし、伝えていきたいポイントは、放っていくことです。
 何重もの病いにおかされ、25歳の若さで亡くなっていくイギリスの詩人ジョン・キーツが綴った手紙の中に残した言葉です。
 「もうオレは死ぬんだ」という自覚が湧いていたころに思わず綴ったのだと思います。
 結核、梅毒におかされる生をキーツが自覚し、受忍していくことは辛いことです。でも、「辛いんだ」と受け入れ、かつ「しんどがっている」自我感情をエイッと放っていくことが、negative capabilityの本義だと思います。自我を放てば、自我を包み込む自己のいのちに気づきます。相対化が生まれます。仏法の本義でもあります。キーツが仏法には出会ってはいないと思います。けれども、自力で独力で自らの病いに向かい合って、自得したんだと思います。欧米人としてはきわめて珍しいですね。いのちが深いねえ。
 『荘子』の内篇の「大宗師篇」にこんな言葉があるじゃないですか。思い出してください。
 主語の「わし」とは造化(ぞうげ)者です。万物の生死(しょうじ)を無限に繰り返させている自然の働きの主(ぬし)です。その主の「わし」が、私たち人間ひとりひとりに向かって語っています。引用してみますね。

 

 「わしをのせるために身体を与え、わしをはたらかせるために生を与え、わしを楽しませるために老年を与え、わしを休息させるために死を与えてくれるのだ。もしわしの労役である生をよしとするならば、当然わしの休息である死をよしとしなければなるまい。(略)造化が偉大な鋳物師であるとするならば、その鋳るがままにまかせておけばよく、何にされようとかまわないではないか。もし死を与えられたら、安らかに眠りにつき、生を与えられたらふと目をさますまでのことだ」(森三樹三郎の訳)。

 

 「わし」はキリスト教、ユダヤ教のような人格神というよりも人格神をも包み込むいのちの動きなんでしょう。
 その「わし」を働かせ、楽しませるために私たちのいまここの生があるのです。これが生の目的です。生の必要です。
 だからこそ、「ようこそ、ようこそ」(源左)なんです。すべてが「お与(あた)え」「授かりもん」なんです。贈与です。
 手紙にあった白馬岳の大雪渓が「あまりにも小さく痩せ細っていたことに愕然とした」ことについて、心痛めます。北極の氷が消え、ヒマラヤの氷河が消えつつあるようないまの高温化です。アフガニスタンの干ばつと同じく、とっても厳しい。
 私たちは雪渓、氷河をつくることはできません。
 でも、やれることがいっぱいあります。経済成長政策をストップさせることです。経済をストップさせるのではありません。その成長のスピードをストップさせることです。スウェーデンの少女のように、声を出して言うことです。「『ゴミしかつくらない現代経済』(藤田省三)をやめろ、社会の発展が幸福をそこなうものであってはならん」と言っちゃうことです。
 それが造花の主への、せいいっぱいの返礼ですね。主(ぬし)をもっと喜ばせようではありませんか。
(11月14日)

| 虫賀宗博 | - | 06:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
不思議さの中を生きる――石原潔さんの11月例会へ、ようこそ、ようこそ(その1)

 11月23日(土、祝日)に、石原潔さん(岐阜のハム工房「ゴーバル」)。
 11月例会である。
 半年前に来てもらった桝本(ますもと)進さんたちといっしょに、石原さんは「ゴーバル」を創業した。1980年のことである。
 「その39年間を振り返って、どう?」と自問して、石原さんに浮かぶ言葉がnegative capability(ネガティヴ・ケイパビリティ)という。
 私はその言葉を初めて知った。聞き慣れない、しかもイギリス語なんだけど、その意を知ると、「生きるということの本質」を言い当てていると思う。
 生きていくことの困難さにぶつかったとき、ラグビーのFWのようなパワーを求めがちだ(その力をpositive powerと言うんだろう)。その力が有効のときもたしかにある。
 でも、一過性に終わったり、破壊的になりすぎて、次の難問を生んだりすることだって、ある。「前へ、前へ」だけでは突破できないことがある。
 生きてあることに答えは出ない。その難問がいつ終わるかもわからない。受身で晒され、中ぶらりんの状況が続く。ただ保って、ただ耐えていく。その負の力、悲の力がnegative capabiity(待つ力と私は訳す;連載コラム「いまここを味わうの「待つこと」10月24日付)。
 いま、「ゴーバル」には豚コレラの嵐が吹いている。何百頭の豚を殺処分せざるを得なかった。
 石原さんも病いをかかえていた。
 私たちひとりひとりもさまざまな悲苦をかかえている。日本社会も地球環境も大きな問題をかかえている。
 話せないときは話さなくてもいい。たまに集って、知恵をみんなで出しあい、感じとって、自分自身の場所に戻って、取り組んで生きていく。みんなで考え、自分自身の場所に戻って、目の前の問題に取り組んで生きていく。みんなで考え、ひとりになって生きていく。
 そんな場である。論楽社は。
 石原さんを場の中心に、参加者で感じあおう。

   2019年11月例会
11月23日(土曜日、勤労感謝の日)の午後2時〜4時半。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL 075-711-0334)。
石原潔さん(岐阜のハム工房「ゴーバル」代表)の「不思議さの中で生きる」。
参加費1000円(要申し込み、私宅なので人数確認のため)。
交流会5時〜7時(自由カンパ制)。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第19回)男性の中にも女神がいる

 小田まゆみさんについて、再び書く。
 「その絵は歌」(連載コラムの2019年10月10日)の続きである。
 『ガイアの園』(現代思潮社)以外の次の3冊を20日間に読んだので。
 『女神たちGoddesses』(現代思潮社、Aとする)。
 『げんきなやさいたち』(こぐま社、Bとする)。
 『きままに やさしく いみなく うつくしく いきる』(文がA・ハーバムとM・P・パヴェル、訳が谷川俊太郎、絵が小田まゆみ、現代思潮社、Cとする)。
 Aは画集。BとCは絵本。AとBは図書館で借り、Cは縁のあるひとにいただいた。
 AもBもCも、それぞれがゆかい。おもしろい。
 私にとっては、とっても未来性に満ちる。
 具体的に書こう。
 まず、Aにおいて、小田さんの家族について、知らなかったことを初めて知る。
 祖母は日蓮宗の教えを人生の中心に置いたひと、かつ、社会主義者。衆生平等を説く。でも、逮捕者まで出し、夫や家族に累が及ぶのを恐れ、なんと30歳で自死。慈悲の心溢れる姿が、みんなから敬愛されていた。
 その子の父にも平等、対等への思いが同じく人生の中心に置かれていく。日本史の教師だけども、仏教修行に心が引かれていた。禅が好きな父で、「いまここに集中し、他のことは考えるな」と言っていた。
 この2人の影響がきわめて大きいので、小田さんは書き残しているのだろう。
 Aでおもしろいのは、「女性だけでなく男性たちにも、自分の中にある女神を見つけ始めています」(AのP.8)。
 女性の中にも男性性があり、男性の中にも女性性がある。私は男性だけど、自分に「女性性がある」のを知っている。
 気づいていないと、子どもにも向かうことができない。男はいのちを生むことはできないけど、自らの女神に気づいていれば、いのちをやさしく育むことができると思っている。
 「女神は女性の中だけではなく、男性の中に、全ての人の中に住む、強く優しい、いのちそのものです」(AのP.9)。
欧米の文明は男の神が何千年も支配してきた。無機質で勝負好き自我感情だらけの、排他的支配欲の、女神にジェラシーを持つ男の神。
 そんな神が欧州を支配してきたんだ。日本はその男の神に150年前に出会って、恐怖しながら、輸入。
 ブッダだって、老子だって、荘子(そうじ)だって、女神たちがゆたかに生々と生息していたころに生まれている。当時、いかに霊性が深かったことか。なんという深さだ。
 そうしてCだ。
 「新しい船に乗って、宝の大地をつくりにいきましょう。/命を大切に『きままに やさしく いみなく うつくしく いきる』ことの豊かさを求めて」(Cのあとがき)。
 いま、「おれたちはいるんだ がけっぷち」(CのP.2)。
 「いまふみだす いっぽが これからのちきゅうをきめていく」(CのP.29〜30)。
 戦争、戦争経済、核兵器、原発。すさまじい収奪の結果の、環境汚染の地球高温化。
 いま必要なのは、すべてのひとびとのめざめ、気づきである。
 気難しい理論が必要なわけではない。男も女も老いも若きもみんながみんなに必要で十分な言葉だ。
 それがCのタイトルだ。原文は、Random kindness and senseless acts of beauty。
 強制された何かではない。ふつうに湧きあがる、他者のジャマをしない知恵と慈悲の絵本としてCを私は読んだ。
 これが、女神の力だ。いのちの大地に乗る力である。よろこびの力だ。
(11月7日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
暮らしのわざに生かされ、生々と生きる――中塚智彦さんの例会レポート

 10月13日(日)の中塚智彦さんの「暮らしのわざ——歌と話と食と」。
 3週間もたってしまったけど、コラム(「待つこと(その1)」「待つこと(その2)」の2回、2019年10月17日付と10月24日付のコラム)に書いてしまったけども、短くレポートしていく。
 参加者は13人。中塚さんのつくる「食」のためか、交流会の参加者が11人。
 「食」のメニューは明子のいつもの手料理以外に、中塚さんが短時間で土鍋で炊いた黒大豆ごはん、えごまししとうパスタ、松茸と鱧(はも)のオードブル、トマトピーマンの煮物を提供した。
 中塚さんの豊かな「暮らしのわざ」である。
 みんなで味わった。
 世の中の表層、すべてが戦争経済の論理の色だけで染め上げ、実際に染まってしまっている。
 原発事故があっても「なかった」ことにして、原発をやめない。オリンピックにカジノ(ばくち)、万博を誘致し、タネ、ミツバチ、海、土、水、農のすべてを資本の論理で売り渡している。
 そのさ中、イソシアネート(香)が中塚さんを襲った。
 入院して調べてみても原因はわからない。「原因不明の腹痛」で退院せざるを得ない。
 聞けば、専門の医者は日本に2人だけとか。
 それでは各地でひとり悩み苦しむ被害者たちの具体的な診断は不可能。中ぶらりんで、原因不明のままに、晒されてしまう。
 もう、どうすれば、よいのか。
 とにかく免疫力をつけて、ともに抵抗すること。
 negative capabilityを保ちながら、生々と生き抜いていくことだ。それが抵抗だ。
 中塚さんにはまた来ていただこうと思っている。
 中塚さん、ありがとう。
 また、「わたつね」に行きますからね・
 いち日、いち日はまっさらな、新しい時だからね。お大切に——。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
独尊――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(第15回)

 花丸って、あるよね。
 大きな丸を赤ペンでまず付け、次にその丸の外にいくつかの小さな丸をクルクルと付け、一周させる。花弁が咲くかのような丸印だ。
 その花丸、私はいちども付けたことがない。
 なぜか、抵抗がある。やったことがないんだ。
 ある小学生の女の子に、あるとき、「よくできましたね」と言った。
 そうして、ふと思って、花丸の代わりに、ブッダの小さなハンコを押してあげた。
 想像を超えて、とっても喜んでくれた。
 左手を上に上げ、右手を下に下げ、「天上天下唯我独尊」と呟いているリトル・ブッダのハンコ。奈良国立博物館で買った。
 「『天の上にも天の下にもいのちの風が吹いているよ。いのちの風の中にいま在る君のいのちはただただ尊い、大切だね』という意味だ」と、その子に伝えた。
 すると、その子、驚くことに泣き始めた——。
 その翌日、大学生のひとにも、「きのう、こんなことがあってね」と伝え、そのひとのノートの片隅にハンコを押してあげた。
 ゆっくりと「天の上にも天の下にも……」と同じ説明をしたら、なんと、その人の目にも涙が浮かんできた——。
 ああ、これから、何度も何度も言葉にして、伝えていこう。
 「君のいのちが必要があって、この世に来た、大切ないのちだ」と。
 それが、私の役割仕事なんだ。きっとね。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第18回)鎮静化を、活性化ではなく

 ある本を求めに、宇治まで行った。
 どうも本屋にはないようだ。
 宇治橋通りに近い七雲(ななくも)というギャラリーに、その本があると聞いたから。
 何という本なのか。野津恵子さんの『忠吉語録』(DOOR BOOKS 、メールdoorst.2134@gmail.com、本体1800円、以下本書とする)という自立刊行の本である。全152ページ、写真43点なので、ミニ写真集かも。
 宇治はとってもいい気を発している。琵琶湖から流れ出た川(宇治川)が山岳を出て、平野へ抜け出る所。ちょうど嵐山に似ている。
 宇治橋に佇むと、いい気に洗われる思いだ。空が広い。
 本書も同じように、いい気を発している。
 主人公の佐藤忠吉さん(1920〜、以下忠吉さんとする)と書き手の野津さん、カメラマンの森善之さん(森さんの店が七雲だ)、作り手に、校正者。それぞれの思いがそれぞれにしっかり放たれていて、しかも調和がある。いい本だ。
 忠吉さん、島根県の木次(きすき)町の生まれ。木次乳業の創業者。同相談役も引退しているけど、現在99歳の現役、ひとりの無役の百姓(名刺の肩書きは「百姓」)。
 何度も書いているように、本来の百姓は単ある農民ではなく、さまざまな生を紡ぎ、生に形を整えていく。家を建て、糸を紡ぎ、詩を書き、パンを焼き、次世代を育てる——という百の生を育て上げる。
 忠吉さんは、そんなひとりの百姓。そういう意味において、本書の中の「忠吉翁」という表現、「忠吉さん」でもよかったかもしれない。敬愛の念は十分に伝わってくるので、過剰に意識しないほうがよいと思う。
 忠吉さん、どんなひとであるのか。やってきたことを書いてみよう。
 1955年に木次牛乳(後に乳業)を始める。
 1961年には乳牛に化学肥料による硝酸塩中毒を発見。山野草を中心の給餌に切り替える。有機農業、全面的に開始。
 1978年、京都の「使い捨て時代を考える会」へ63度30分殺菌パスチャライズ牛乳(低温殺菌牛乳)を販売開始(このころ私は「木次」を初めて知る)。
 1982年、ナチュラルチーズの販売開始。
 1992年、エメンタールチーズ(穴のあいたチーズ、マンガ映画『トムとジェリー』でネズミが食べているね)の製造に成功。
 同年、ワイン醸造販売開始。
 1993年、品位ある簡素な村ぶくり「食の杜(もり)」づくりを開始。
 1994年、有機農業のシンボル農園としての「食の杜」を開設。
 2006年、どぶろく酒の製造開始。
 忠吉さん、反近代農業の実践者だ。つまり、「農は産業ではない」「ゼニもうけではない」「いのちの営みなんだ」を体で示現してきた。
 戦後の農政はことごとく日本の農業を潰してきた。「潰そうとして、潰してきたんだ」と思っている。そうして米国の食糧支配戦略に従い、亡国の食糧自給率40パーセント。
 忠吉さんはそんな農政を無視しつづけ、農を人生の中心に置いて、いのちを育ててきた。農、医療、福祉、教育、育児のすべてが産業ではない。あるはずがない。その根本がズレると、小手先でいくらこねてもダメなんだ。
 だから、「地域は鎮静化すべきだ」「ここが活性化すれば、どこかが貧乏になるのでは(略)。争うことなく、我慢と持久力をもって時間をかけた仕事をしていけば、資源は増えもしなければ、減りもしないはずです」(本書P.100〜101)という言葉へ至るのは自然。
 忠吉さんの言葉は今日の、明日のひとりの実践者を生み出す。そういう起爆力が本書には内包されている。
 なお、本書は『山陰中央新報』(2017年7〜9月)をまとめたもの。
(注)本書はちょうど1年前に刊行されている。宇治の七雲以外に、恵文社一乗寺店(左京区)にもある。恵文社のすぐ近くのヘルプ(40年続く、有機農産物のスーパー)には「木次」の牛乳やチーズ、ヨーグルトがある。手にしてみてね、友人よ。
(10月31日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第17回)待つこと(その2)

 (10月例会における呟きのつづき)中塚智彦さん、考えてみれば、現代の私たちの生そのものが晒されている、受身の、受動の、無抵抗である——と思っています。
 核兵器や原発の暴発ひとつを考えてみれば、良いのです。いかに晒されていることか。
 化学肥料が火薬に、毒ガスが農薬に、トラクターが戦争に、自在に変容されていく時代を私たちは生きています。農はひとにとって生きていくうえで必要。だからこそ、食糧を戦略物資とし、支配の道具にしています。農の風景は激変しています。何が何だかわかりませんね。いわば味噌と糞とを区別することは全く不可能である、と思うのです。
 諦観が必須に生まれてくるのです。
 諦観という漢語が持つ「あきらめる」の奥には「明らかに観る」という意味が宿っています。明晰に観ていきたいですね。
 その地平に立たないと、抵抗すら生まれないのではないでしょうか。
 不必要な自我感情の表出、悪あがきは気やすめでしかありません。いのちの浪費は良くありません。
 そうじゃなく、最大をよく知り欲しながらも最小をていねいに生きていく知恵が——そう、古代人の知恵が現代にこそ、必要なんですよね。「ワンランク上の暮らしを」なんていう広告に騙されていくドレイ根性、洗い捨てていきたいもんですね。
 negative capabilityなんていうイギリス語が生まれたのも、同じ地平です。同じ地上から発芽したものです。
 negative capabilityにはまだうまい訳語がありません、「答えの出ない状況を受け入れ、耐えていく力」と仮に訳しますね。
 「目がかすみ、耳も遠くなり、足腰も弱った」という老境の状況を「老人力が付いた」と赤瀬川原平が以前表現したよね。老人力という言いかた、negative capabilityに似ているかもしれませんね。どうでしょうか。
 negative capabilityを私は「待つ力」と訳したいと思います。
 中塚さんが10月13日(日)に歌ってくださった詩(連載コラム「いまここを生きる」2019年1月17日付「夕映えの山」)とおんなじ言葉を訳語に置いてもよいかもしれません。

 

いのちの問いかけに
ただ待つこと
私から問い直してみたって
いのちの問いかけが湧く場所には
届かない
ただただ待って生きて往(い)きていこう
思いのほか人生は短い
いまここを故郷にし
希望を掟(おきて)として
歩いて歌っていこう
      ——待つこと

 

 私たちひとりひとりのいのちは向うのいのちの世界から、必要があって、この世に放り込まれてやってきました。
 やってきたこの世は戦争と戦争経済に満ち満ちて、ひとびとを「ドレイ」として扱います。「ドレイの主人」にする道もあります。この道を「アメリカン・ドリーム」と呼びます。でも、ドリームのイスが用意されているか、空いているかはいささか疑問です。
 ひとをモノ扱いしてくる各メーカーの戦略にも晒されます。
 中塚さんも化学メーカーによって、晒されています。
 大変な苦労です。
 この状況、負の状況——この世のものさしで言えば、「負」なんです——を、耐えている時に、現代を越えた、遠く古代人のような知恵が湧くのだと思います。どこかブッダのような、negative capabilityが湧くんだと思っています。待っていけば、体に気づき(サティ)が入っていき、脱中心化した視点(思考、感情に対し)が生まれるのです。長島愛生園の近藤宏一さん、島田等さん、伊奈教勝さんがそうでしたもん。
(10月24日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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