論楽社ほっとニュース

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連載コラム「いまここを味わう」(第29回)光へ――哲さん(その6)

 2001年9月の時点において、中村哲さんに次の3つのことが同時進行で湧き上がっていた。
 1つめ。何度も繰り返していることだけども、2〜3年前からアフガニスタンに大干ばつが襲ってきていること。井戸を1600本掘っても、地下15メートルまで掘り下げても、水がない。高山の雪線も標高をどんどん上げていく(つまり、積雪がない)。カレーズ(横堀り井戸)も「『枯れーず』ではなく『枯れてしまう』」(哲さんが当時よく言っていたダジャレ)。水が消えているのである。
 哲さん、ついに水路を設計し、建設することを始めていく。
 2つめ。これも何度も繰り返すんだけれども、米国が復讐戦争を仕掛け始め、無差別の空爆を始めること。米国内のラスベガスの基地において、電波操縦し、のっぺりした無人機で空爆しつづけているのである。それも、いまなお。
 無辜(むこ)の子どもの足、女性の頭が飛ばされている。まるでツインタワーで殺された米国人の100倍の数のアフガニスタン人をぶっ殺して、落とし前をつけたいかのように。
 しかも、アイデンティティの根幹のコーラン、モスク、マドラッサ、タリバーン(神学生)をバカにし、狙って攻撃。
 日本だったら、寺社仏閣をじゃんじゃん無人機で破壊されていると思えばいい。どうだろうか。どう感じるだろうか。
 なのに、なぜ米国に日本は追従していくのか。ドレイのように。
 日本の現首相は米大統領と仲良くゴルフをしている。その映像がアルジャジーラでよく流れている(そうだ、伝聞だけど)。どういう効果を生むのか。現首相は考えたことがあるだろうか。そういう映像が「日本人全体がこんなヤツら」という妄想(現実事実とは違うことを想うこと、「日本人には現首相・副首相とは違うひとがいっぱいいまっせ」という反論したいけど)を狙撃者集団の連中に抱かせたかもしれないんだ。間接的に殺害に加担していると考えてほしい。
 自己が分からないひとはとにかく他人を責める。自国の内部に発生する諸問題を他国のせいにする。
 3つめ。哲さんの次男の剛くんの病気(脳ヘルニア)と近づく死だ。結局、2002年12月になんと10歳で剛くんは死んでいく。「バカたれが。親より先に逝く不孝者があるか。見とれ、おまえの弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」(『医者、用水路を拓く』石風社)。
 哲さんは3つめの剛くんのことを抱え、他言はせず、ひたすら1つめと2つめのために戦った。
 ある日はいち日に3か所の講演をこなした。アフガニスタンと日本を行き来しながら、国会で自衛隊のインド洋派遣は「有害無益」と言い切り、2001年冬にカブールで「餓死凍死者が出ない」ように訴えていた。「『正義の味方・米国対悪の権化・タリバーン』なんて大嘘。プロパガンダにすぎない」と訴えつづけた。
 浄財が集まった。それが水路建設の推進力になっていくのである。
 2002年の論楽社の「講座」で哲さんは言った。
 「復讐する――といえば語弊(ごへい)がありますけども、何の罪もない、無辜(こ)のひとたちを米軍が殺りつづけているんです。復讐したいと思う。ただし、緑ゆたかな大地を再び取り戻すという方法をもって」。
 静かな気迫をびしびしと感じた。
 平和をつくりあげるには平和な方法をもってしかない。
 その平和の方法をもって、厳しい荒野に水を通し、緑を再びゆたかに育てあげるのである。
 それが1つめ、2つめ、そうして3つめの問いかけに応答することになるのである。平和をつくる、希望をつくる戦いなのである。
 水路の長さは、哲さんの当時の絶望の深さだ。
 その深さゆえに20キロ、30キロと水路は長くなっていった。
 哲さんの光。エネルギー。自己の分からないひとたちをも包み込んでいく。もう戦いでもない。復讐ですらない。じゃあ、何だ。言葉でも言い表せられない、何かだ。
 スゴイひとの、スゴイ光へ。
(1月16日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 05:56 | comments(0) | - | - | -
中村哲さんを悼む――1月例会へ、ようこそようこそ

 中村哲さんがアフガニスタンにおいて昨年12月4日に何者かによって狙撃され、亡くなりました。
 73歳でした。
 この40日間、いろんなことを考え、思い、想ってこられたことと思います。私も湧き上がっています。
 1月13日(成人の日)に、いちど縁のあるひとが集いたいと考えました。
 非在の哲さんを座の中心にし(非在なんですから、論楽社で話す哲さんの、当時の写真を置いて)、参加者が言葉を紡いで、あるいは沈黙を紡いで、哲さんに捧げたいと思います。

  哲さんを悼む(2020年1月例会)
1月13日(月曜日、成人の日)の午後2時〜4時。
論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL 075-711-0334)。
参加無料。
ただし、要申し込み(個人宅ですので、必ずTELを事前にしてください)。
「哲さんを悼む」とし、縁あって参加したひとたちによって、悲の井戸水を汲みながら、供養回向できたらいいね――。
以下は参加自由の交流会。午後4時半〜6時半(参加費は自由カンパ制)。

哲さんとの縁はハンセン病。

 23年前に島田等さん(長島愛生園)がつないでくれました。
 ハンセン病って、表層では差別拒絶を発生させます。ところが深層ではとてつもない暖かい出会いを生み育んでいくのです。そこがとってもおもしろい。
 哲さんに出会うということは、自らの深層のいのちに出会い、出会い直すことにつながっていきます。
 哲さん、絶望の深さが水路の長さになっていきました。比例して伸びてゆきました。
 誰にも見える形で、緑ゆたかな農村を荒野によみがえらせていったのです。
 平和は実在です。実在の平和を取り戻していったのでした。
 自らのいのちの井戸水をもっと、もっと掘ってゆきましょう。それが供養(くよう)であり、回向(えこう)です。残された私たち自身への。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 22:14 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第28回)タリバーン――哲さん(その5)

 中村哲さんが縁あって出会ったアフガニスタンって、「どんなところなんだろうか」について――。
 ほんの少し書く。
 イスラムの教えがひとりひとりの人生で中心に置かれていることをまず言わねばならない。
 「ひとの道」を教えているんだ。
 したがって、礼拝祈りの場所のモスク、学ぶ場所のマドラッサ、学んでいる生徒たちのタリバーン。これらの用語名詞は、ひとびとの暮らしの中心に位置している。
 タリバーンはキリスト教社会ならば「ミッションスクールへ通う生徒」という程度の意味しかない。
 そのタリバーン神学生がなぜ政権を担ったのか・
 1979年に旧ソ連がなんとアフガニスタンへ侵略してきた。冷戦下の米国は代理戦争を仕掛け、CIAが「反ソゲリラ」を養成(そのゲリラのひとりがビンラディン、サウジアラビアからやってきた。米国の本質にすぐ気づき、後に2001年になんとひどい同時多発テロを決行)。
 結局旧ソ連は10万人の最強陸軍をもってしても敗北し、退却。アホなアフガニスタン侵略、チェルノブイリ(など)によって、旧ソ連そのものが崩壊。
 その後の混乱分裂内戦が続き、難民も多く、ヘトヘトになっていく。あまりにも長きに渡る戦さに疲れたとき、タリバーンがたった2万人弱の兵力によって、奇跡的にまとめあげたのであった。
 最大の要因のひとつがジルガ(長老会議)を認め、各部族の長老たちを信頼し、自治に委(ゆだ)ねたことによる。アフガニスタンはまるで500年前の日本の戦国時代のようだ。各領主に任せた上での政権運営なんだ。
 複雑な社会の流れを、幾つかのシンプルな原理で読み解こうとする考えを、原理主義という。
 「人生はカネのみ」「軍事力だけが頼り」とする考えも、原理主義である。イスラムを頼りにするタリバーンも原理主義。
 清廉素朴なタリバーン神学生は、要するに「田舎者政権」(哲さんが繰り返し言っていた)。
 時は2000年、アフガニスタンが大干ばつに襲われる。しかし、国際世論は同情のひとつもない。冷酷そのもの。さまざまな田舎者政策に対し国連は経済制裁で応える。
 国際社会(主力は米英)、タリバーンの両者、どっちもどっちの引き分けが続くときに、2001年のテロが生じ、米国が怒り狂って、報復攻撃。アフガニスタン空爆が始まる(忘れているひとが多いけど、この米国が仕掛けた戦争はまだ続いている。ベトナム戦争より長期化している)。客人歓待法は古来から現在まで生きるルール。タリバーンはビンラディンを客人として受け入れた以上、他者に引き渡すことは、ルール上できない。しかも、「田舎者」(哲さん)のタリバーンがコンピュータを使って、飛行機に乗って、ビルに突入するなんて、ありえない。
 タリバーンはすぐに倒れた。もともとたった2万人の兵力だもの。
 そして現在の暫定政権になっていくんだけど、また(タリバーン以前の)各領主が再登場し、内線が再発している。そのさ中、哲さんは水路を建設しつづけていったのである。
 何が「正義の味方米国と悪の権化タリバーン」か。
 このプロパガンダに何の検証思考もなく、すべてに追従し、イージス艦をインド洋に出し、米軍機に給油し参戦する日本。米国よりもひどいのではないか。戦争中毒の米国に、服従中毒の日本!
 哲さん、手仕事で水路(世界最長だ)をつくり、60万人〜100万人のアフガニスタンのひとびとに帰村帰農を促し、マドラッサをつくり、ひととして尊厳を与えている――ということに、「ノーベル平和賞を」との話が浮かび上がった。ノミネートされたんだ。見者(賢者)がいたんだ。選考委員会に。
 ところが、流れた。米国の反対が理由(だろう)。日本政府ももちろん反対(だろう)。哲さんのことを(信じられないけど)さんざんに言っている(んだろう)。外務省とかは。こういう現実を知っていたほうがよい。
 当時、論楽社に来た哲さんにノーベル賞のこと、聞いてみた。
 笑いながら、即答。「タリバーンのシンパ(と言われているので)にはムリ」。
 哲さんがシンパか、そうでないのかはどうでもいい。哲さん自身もどうでもいいと思っていたと思う。
 米軍は退却すべき。戦争なんかするゼニは水路づくりに使えばいいんだ。
 ただタリバーンを絶滅させようと思うならば、アフガニスタン人全員を殺す覚悟がなければ、ムリ。とにかくベトナム戦争と同じで、アフガニスタンからも米軍は去るしかない。
(1月9日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 06:22 | comments(0) | - | - | -
とにかく授業――ホームスクールへ、ようこそようこそ(第16回)

 とにかく毎回の授業だ。授業がすべての土台である。
 小学生の場合、『にほんご』(福音館書店)を使ったり、『漢字がたのしくなる本』(太郎次郎社)を使い込んだりしながら、「言葉ワールド」を生み育てていくこと。
 宮沢賢治さんの作品をできるかぎり音読する。日本語の表現、日本的表現を味わいながら、普通を目指すこと。
 佐々木マキさん、飯野和好さん、川端誠さん、内田麟太郎さんたちの絵本をていねいに楽しんで読みあうこと。
 数学(算数)をゆっくりと量の考え方によって、理解してもらっていくこと。
 以上で90分間の授業時間はいっぱいいっぱい。アッという間だ。
 盛りだくさんかもしれないけど。
 理科も社会も作文もやりたいけど、中々できないね。
 植物のこと、森のこと、昆虫のこと(とくに私にはトンボ)の話をしに野外に出てもいい。暖かくなったらね。
 もっと、もっと創意工夫し、なんというか、感動のようなものが湧き上がったら、いいな。そう思う。
 いちばん難しい目標だけど、これが目標。
 毎回の授業を、ひとつの講演会をこなすごとく、せいいっぱいやってゆきたい。
 何らかの心の輝きが湧けば、進むべき道や越えるべき課題は見つかるはず。
 その子は、伸びる。伸びないはずがない。
 心配はないと思っている。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 14:29 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第27回)応答――哲さん(その4)

 2020年、明けまして、おめでとうございます。
 懐かしい友よ、お元気ですか。
 新しい年の、新しい朝の、新しい時を、今年も森の湧き水を明子とともにいただき、歩き始めました。
 いまここの時を、縁生まれてあるひととともに、味わっていきたいな、と思っています。
 2020年もよろしくお願いします。


虫賀宗博

 

 哲さんのこと、引きつづき書く。思いは溢れている。
 年を越えて、4回目。
 悲の水を汲んでいきたい。
 哲さん、チョウが好き。昆虫観察が大好き。登山も大好き。
 日本で専門医として腕を磨いたりし、休日にチョウを追っかけしていても、それはそれで十分に深い人生であったはず。
 しかし、深い縁あって、アフガニスタンへ行くことに。
 福岡において、アフガニスタンのヒンズークシ遠征登行隊が企画結成された。
 その随行医師の募集があり、参加したのが、すべてのきっかけ。1978年のことである。
 「ティリチ・ミール(ヒンズークシ山脈の最高峰)あたり、珍しいチョウの宝庫なんです」と哲さん。
 現地のとてつもなく雄大なカラコルムの山岳の風景の中に、まるで心の故郷へ帰ってきたような感動を覚えるとともに、心をえぐる現実の風景に出会う。何か。
 無医村地区の現地のひとびとが結核、ハンセン病、トラコーマ(眼病)、マラリア、腸チフスを病み、困窮し、「助けてくれ」と群がってくるのである。
 手元の薬をどんどん与えたり、処方箋を渡したりしたけど、「処方箋だけ持って、どうしたらいいのか」と逆に問い返される始末。薬だって、すぐに底をつく。
 そうか、医療と金とは全く縁のない暮らしのひとたちなんだ。
 どうするか。
 「じゃあ、このへんで」と現地のひとたちと分かれることが哲さんはできなかった。
 多くの日本のひとのように「じゃあ、忙しいので」と別れたって、何も問題はないのに。
 哲さん、そのひとたたちのことを忘れることができないのである。
 「されたようにする」(2回目、昨年12月19日付コラム)を思い出して。ひとは扱われたように扱うのである。
 哲さんの人格の土台部分(家屋ならば一階部分)が動く。
 「また、来るから」といったん別れ、ほんとうに1年後に、今度は私的旅行者として薬をもってくるのである。
 もう1年後にも、さらにもう1年後にも来て、ついに1984年にパキスタンのペシャワールの病院に赴任していくことになるのである。
 生涯を通じて哲さんは「なんでアフガンなんですか、その原動力って何ですか」と質問を受けつづける。日本人のみんなには、わからないから。全くのところ、「何で、また」と聞きつづけることになる。
 哲さん本人にとってみれば、「道に倒れているひとがいたら、手を差し伸べる、それは普通のことです」となるのだけど。
 「自分の強さではなく、気弱さによってこそ」歩んできたんだけれども。
 『セロ弾きのゴーシュ』のように、次々と動物たちが現れ、仕方なく相手をしているうちに、なぜか結果としてチェロが上達してしまうゴーシュのようなものだけれども。
 でもでも、考えてみれば、思い通りに運ぶ人生なんて、ない。「まさか」の坂の登りの連続だ。
 人生そのものが天(哲さんにとって「天」、仏、神、すべてのいのちと言いかえても可)からの問いかけ。
 その問いへの応答が私たちそれぞれの人生。
 その人生において、「守るべきものは何か」を哲さんの人生は示現している(つづく)。
(1月2日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:53 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第26回)相対化の視座――哲さん(その3)

 哲さんが亡くなって、2週間は気合が入っていた。「よし!」「行くぞ」と心の中で言っていた。その点いまだに私は体育会系である。
 ところが、2週間たったあたりから、ふうっと涙が出たりしている。さまざまな思いがいっそう湧き上がっている。
 哲ちゃんのこと、思いつづけている。
 3回目は「ある視座について」。
 哲さんと対話していて、あるとき、ある直観が走った。そのことを書いてみたい。以下、仮説のような直観――。
 哲さん、6歳のとき、大病をし、意識をしばらく失っていたことがあった、と聞く。
 何病なのか、わからない。
 何らかの重病にかかり、ショック状態に陥っていたと考えられる。
 退院したとき、大切な祖父(玉井金五郎さん)がなんと亡くなっていた。
 「あの世に行った」と聞かされ、子ども心に「合点が行かなかった」と言う。
 そうして、哲さん、子ども心に「この世とは何か」「ひとはどこへ逝くのか」と考えるようになったのである。
 小さい時の、大好きで慈悲深い肉親との死別体験はきわめて大きい影響をそのひとに与える。法然も親鸞も道元も、そうだ。全身全霊で「この世とは何か」とどうしようもなく考えぬいてしまうのである。親問題になるのだ。
 その後、古老の姿(これが超自我の像)が哲さんの心にしきりに浮かんでくる。
 哲さんがよいことをすれば、古老が笑い、そうではなければ、古老が諭(さと)すんだ。
 これは理屈ではなく、生死の際で示現された事実なのである。
 ところで、内山興正(1912〜98)という禅者、いるよね。知っているだろうか。
 『進みと安らい――自己の世界』(サンガ、新装版が2018年に刊行された)の中に、マンガのような絵がある。この絵がいい。
 「アタマの展開する世界の根本には『わが生命』があったのだ」という絵なんだ(注、第5回、味わって見てみて、この絵がどうしても必要だから)。
 私やあなたが生息している「勝った、負けた」「追ったり、逃げたり」「金持ちか貧乏か」「幸福か不幸か」と原始脳全開の世界全体をまるごとひとつの世界とし、支え、持ち上げている「わが生命」があったんだ、というマンガ絵である。
 この世の世界をまるごと相対化している。その支えている「わが生命」を、アミーダ(阿弥陀仏)と言おうが、神と言おうが、名前は何でもいい。この透徹した視座の絵はスゴイ。
 哲さんはその存在をあるがままに相対化せしめる視座を、早くして保持し、きっと殺されるときまで生涯保持しつづけたんだ。これが私の仮説。
 精神科医になった哲さん、ひとりの患者から問いつめられる。「先生、なぜ生きているのですか」と池に入ってそのひとは問うたという。
 「自分でもわからない。でも、きょうのところは私の顔をたてていただいて池から出てはくれないか」と哲さん。そのひとは「しかたない」と出てきた、という。
 そのとき哲さん、「自分」や「個人」なんて実態があやふや。「私」なんてない。自分さがししたって、何もそもそもないんだ。
 あるのは「人間とは関係である」(講座で最も心に残る言葉)。関係、つまり相互依存的連係生起だ。これらのことも、この視座が生み出している。
 関係の風に吹かれて、アフガニスタンに行くのも自然なこと。「意識を無意識の豊かな世界に戻す」(フランクル)という視座があったのだ。哲さんには。(つづく)
 (注)内山興正さんの絵。

(12月26日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 16:49 | comments(0) | - | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第25回)されたようにする――哲さん(その2)

 ひとは愛されたようにしか、愛することができない。
 父母祖父母その他から愛されたことしか、他者を愛することができないんだ。自分が「扱われた」ようにしか、ひとを「扱う」ことができない。
 これは自らのことを思い返しながらも、峻厳な事実ではないかと思う。
 この事実からすると、中村哲さん、いかに両親と祖父母から大切に育てられたことか。
 あれだけ多くのひとびと(アフガニスタン人であろうが、日本人であろうが)から、あれだけ慕われ愛されていることからすると、その愛情量のほどがわかるではないか。
 哲さんの母の父母、名を玉井金五郎、マンという。
 筑豊炭田から積み出す男たち(沖仲仕という)の相互扶助組合「玉井組」を立ち上げた夫婦である。
 その隆盛期の様子は『花と龍』(岩波現代文庫、作者は火野葦平、本名は玉井勝則、金五郎とマンの長男、哲さんの伯父)、に詳しい。映画にもなった(ただし映画ではヤクザ者になってしまっている。事実は義理人情の組合)。
 若松湾に船が入ってくると男たちが争って炭を積み込んでいく。「給水」といって水も船に運んでいく。その男たちをまとめていく玉井組だ。
 懸命に体を張って働く大人は偉いもんだ」と子ども心に思っていた(引用は論楽社の「講座」の発言)。「当然、自分もそうなるつもりでした」(同)。
 肉体労働をバカにしているひとは世に多い。哲さんには全くなく、逆に決して働くことこそが仕事の原点との思いがある。
 哲さんの晩年、水路土方工事の陣頭指揮を取ることになった原点も、この玉井組にある。
 弱者は率先してかばうべきもののこと。
 職業に貴賤がないこと。
 どんな小さな生きもののいのちも尊ぶべきこと。
 これらを玉井マンから全身で哲さんは薫陶を受けるのである。
 内面化され、哲さんの生涯を貫く内的倫理になっていく。
 その祖父母は後に「超自我の像」ともなって、動くことのない北極星のように、生涯に渡って哲さんの人生を見守っていくことになる(「講座」の発言)。
 以上、哲さんの精神の現場の土台になっているところだ。人格の根にある地盤だ。
 いわば家屋の一階部分にあたる。親問題(鶴見俊輔)だ。人生の根本の問題である。
 その一階の上に二階部分が花咲く。子問題(鶴見)である。親問題から派生する。
 二階部分の、たとえば、憲法9条のことを哲さんが言うときも、「平和と経済成長は両立しない、両立できない」と言うときも、土台の一階部分がゆたかに支える。有機的に動き、いのちの水がどんどん湧く。
 一階部分のない、ほそいひとびとに比べ、たとえ同じことを言っても哲さんの言説は輝きが違ってくる。心を打つ話ができるのである。
 それに一階部分の地盤の弱いひとほど、理念観念に走る。「私、オレ」の主張に力がこもる。自我に力点が置かれてしまうのである。引用ばかりで、ウソっぽいのである。
 やっぱり大切な部分は一階。親問題。
 そこからすべてが始まっていくのである。
 親のいない子だっているのだから、そこは教育の力によって「人間になっていく」という道のりを歩むことになる。ほんとうの教師とほんとうの図書館との出会いが、だから人生には必要必須になってくる。しかし、たとえほんとうの教師でも「愛する」ことそのものを教えることができない。峻厳な事実。「思いやる」ということは教えることができない。いくら暴力を使っても「国を愛する心」を教えることなんて、とうていできないんだ。「愛する」って、そういうこと。
 以上、哲さんのことを思いつづけている。「子どもは『された』ように、ひとに『する』」という話(つづく)。
(12月19日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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