論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第343回)詩をめぐる旅の日録――2012年1月編
 凡夫であることを感じる1か月であった。
 「いのちの力を信じます」。そのいのちの風を感じることを、忘れてしまったのか。いや、忘れてしまったわけではない。
 でも、昨年12月18日の森崎和江さん+才津原哲弘さんの「講座」が終わって、疲れがドドドと出たのか、どこかしら忘れてしまったかの日々を送ってしまった。
 それは、端的に酒量に出ている。酒を飲まなかった日が昨年12月が16日、今月(いま書いている1月25日現在)が13日である。
 私は酒が好きだ。飲み始めたら、けっこう飲んでしまう。強くないので、3合も飲めば、酔っぱらう。そして、記憶を失ったり、訳のわからんことを言ったり、つまらないことをしゃべったりしているのだ。いのちは大切にしなければならない。
 1か月間来客が多かったのだ。楽しかったのだ。
 そんな1か月はもう終わる。
 さあ、再出発しよう。
 詩としか呼べない何かに支えられながらも、その「何か」をまるで忘れてしまったような1か月であったのだ。また、出発していこう。
  1月―日
 大垣裕美さんが来る。屋久島での小学校司書の仕事をやめて、しばらくオーストラリアへ行くという。嘱託司書の扱いに限界を感じたという。4年間熱心に島の小学校を巡回して、子どもたちに読みきかせをしていたのに、ね。
 裕美ちゃん、君の能力の花が開くことを祈る。
 君に連れていってもらった屋久島の尾之間温泉(熱い湯だったね)、湯泊温泉(海辺の湯、空には満天星)が忘れられない。アリガトー。
  1月―日
 「犬塚勉展――純粋なる静寂」を見る(京都高島屋)。
 私は知らなかった。こんなひとがいたのだ。
 犬塚勉(1949〜88)。
 山や自然への畏敬がしっかりと伝わってくる画家だ。
 風景画ではない。
 雪の中のブナ林。縦走路の石ころ。草原の葉っぱ。それらを伝わってくる風の音がリアルに感じられるんだ。山の気や森の精すら感じられてくる。自然の密度が伝えられる。
 「暗く深き渓谷の入口II」の制作過程で、「もういちど川を見てくる」と言い残して、谷川岳に向かい、1988年に遭難死。山へ帰ったのかもしれない。
  1月―日
 『もう殺さない――ブッダとテロリスト』(バジリコ、2008年)を読み返す。3回目の再読。今回も救われる。
 サティシュ・クマール(Satish Kumar)さん(1936〜)の作品。励まされる。
 殺人鬼だった被差別民のアングリアーラ。その彼がブッダと出会って、剣を捨て、アヒムサーカ(非暴力のひと)になる。
 でも、愛するひとを殺されたひとは彼を許すことができない。どうしても許すことができないけども、ついにアングリアーラの暴力の放棄をみんなが認め、復讐の暴力の放棄もみんなが始めるという物語だ。
 「そうだ、ナンディーニ、すべての生命には、隣り合うすべての物事とエナジーが流れ込み、流し合っているのです」(同P.92)
 ブッダの発言である。今回、私はアングリアーラの立場で読んだ。すると、ブッダの言葉が身に沁みるのである。
  1月―日
 第2京阪道路の大阪高裁での判決。
 棄却であった。
 松本剛一さん(北巣本保育園理事長)の司法上の敗北が決定する。
 畑のエノキの大木が切断されずに、移植されたことは、成果だ。
 エノキよ、移された地で、あと100年、200年と生きのびて、社会を見守ってほしい。
 松本さん、「裁判闘争」を書き残してください。あまり酒を飲まずに長生きして、この社会のありようを見届けていってくださいね。勝負はこれからですぞ。
(1月26日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 19:17 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する
時間(とき)がやさしく広がっていく――何我舎(ぬーがや)の夜のように(その1)
 彌光庵(みこうあん)という場所が京都にある。左京区四条通寺町通下ルの駄菓子屋(ふなはし屋)の路地を下ったところにある。
 私にとっては、ひとつの居場所である。
 直近では1月9日(月、祝)の長島愛生園の帰りに寄っている。2か月ぶりに、ここでのんびりと生ビールを飲んだ。「知花昌一さんからゴーヤ(にがうり)が届いているよ」と庵主の工藤美彌子さんから言われた。いただいて帰り、料理した。おいしかった。
 彌光庵は精進(ベジタリアン)料理の食堂であり、飲み屋でもあり、お寺でもある。工藤さんが浄土真宗の僧侶であり、店の中心には名号(みょうごう)が置かれている(名号って、「南無阿彌陀仏」のことよ)。だから、ここはほんとうにお寺なのだ。
 11月初めに工藤さんからこんな提案をうけた。
 「沖縄の知花昌一さんが僧侶になった。三線と語りの会をしてくれないか?」
 私は即座に「はい」と言った。「はい、はい」とふたつ返事だった。
 あの知花さんが僧侶になったのだ。知花さんは1987年の沖縄国体のソフトボール会場に掲げられた日の丸を焼いたひとである。
 実は私は知花さんに出会っている。私は沖縄へ12年前にいちど旅している。まだ1回こっきりの5日間だけの旅だった。
 その2泊目、知花さんの家に泊った。「何我舎」(ぬーがや)というすてきな名の民宿だった。
 知花さんから古酒(クース)をごちそうになり、星空を見上げながら屋上で知花さんの三線を聴いた。つれあいの洋子さんにも会ったし、おじぃにもおばーにも、たしか「障害」のある女の子(娘さん)にも、出会っている。
 知花さんもそうだが、みんながみんな、やさしい。ていねいで、やわらかい。その物腰のやわらかさは、きわだっていた。
 忘れられない「何我舎」であった。
 その知花さんが浄土真宗の僧侶になったという。1年間、京都の岡崎に籠(こも)って、修行しているという。3月には、もう沖縄に帰るという――。
 知花さんの新しい出発である。旅立ちである。
 きっと「もうひとりの親鸞」のような、新しい人生が始まるのである。
 知花さんの三線と語りに耳を傾けながら、私たちも新しい出発をしてゆこう。
 きっと「何我舎」の夜のように、時間(とき)がやさしく広がっていくのだ――。
  2012年2月例会
 2012年2月26日(日)午後1時〜4時。論楽社。
 知花昌一さん(僧侶、元沖縄県読谷村の村会議員)の三線と語り「時間(とき)がやさしく広がっていく――何我舎の夜のように」。
 参加費1000円。
 ――4時にいったん終了。時間のあるかたは、7時までの交流会へ。参加費は酒量に応じた自由カンパ制。語り合おう。
 知花昌一さん。
 めったに会えないひと。
 3月には京都を去るひと。
 2月26日の1時に、来てください。
 あたたかい服装で。
 ゆっくり三線を味わってください。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 15:30 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する
トラブルは自然なこと――あるワークショップに参加して
 京都市南区東九条に「希望の家」がある。
 なぜか、いままでに、私は行く機会がなかった。
 金在述(キム・ジェスル、在日大韓基督教京都教会名誉長老)さん(1907〜93)が苦労して建てた教会があったところだ。
 1月14日(土)、15日(日)の両日にその「希望の家」において、国際研究ワークショップがあった。
 やっとこさ、初めて訪ねることができた。
 韓国のソウルから共同体《スユノモ》の10人が来日。その「希望の家」で《スユノモ》のひとたちに会えるなんて、私にとっては、スゴイこと。
 《スユノモ》は私を2回もソウルに呼んでくれた研究空間。民間において、ひととひととが相出会い、共助しながら、育てあっていこう、学びあっていこうとしている共同体である。
 今回のワークショップは小規模で、全体として参加者は30人くらいだったので、《スユノモ》の10人の存在感は圧倒的であった。
 日本側の研究者がけっこうジジくさくて(笑)、細かいことをネチネチとコメントしていたのに対し、《スユノモ》のひとたちは大局に立って、いっしょうけんめいに生きるんだ、いっしょに戦っていこうというメッセージが込もっていた。気持ちがよかった。
 主題(テーマ)は「空間とガバナンス」であった。ガバナンスは協治と韓国では訳されるのもおもしろい。
 実のところ、「争うこと」をもっと、もっとワークショップの主題の中心に置けばよいのに――と私は思っていた。
 日本において、社会運動がぽしゃっちゃうには、理由がある。「内ゲバ」である。200人ものひとたちが隣人のようなヨコのセクトに殺されたのであった。
 ナイフとか銃で殺そうと思ったら殺せるのに、まるである儀式のように、なぶり殺しているのである。連合赤軍事件がその典型である。
 ひとが2人集まれば、争いやトラブルが生じる。
 3人集まれば、2つの派閥が生まれる。
 これは、ごくあたりまえのことだ。人間の自我というのは、そういうものなのだ。
 ただ、「内ゲバ」のように陰惨な争いを目指さないことだけを求めれば、いいのさ。ぬかるみには、藁(わら)を敷くのだ。自我の泥沼に入っていかないことさ。争い方の作法を学びあうことがとっても大切だ。
 争うこと、別れることは、決して悪ではない。つらいけど、マイナスでは決してない。太陽の光を求めて、枝別れすることは自然なことである。
 論楽社では8年半前に一回枝別れをしている。
 《スユノモ》でも、一回枝別れしている。
 そのことを李珍景(イ・ジンギョン)さんから今回話ができて、よかったと思っている。「内ゲバ」なんか韓国では「なかった」と聞けたし、よかった――。
 今政肇さん+朴昭良(パク・ソリャン)さんファミリーにも、寒ーい論楽社に泊まっていただいた。ありがとー。
 みんな、ありがとう。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 17:24 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第342回)核抑止政策の放棄を――加藤典洋さんの作品によって
 正月休みに、加藤典洋さん(文芸評論、早大教員)の2冊を読んだ。
 『さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて』と『3・11――死神に突き飛ばされる』(ともに岩波書店)である。おもしろかった。
 「講座・言葉を紡ぐ」(1990年2月25日)に来てもらっている。『アメリカの影』(河出書房新社)、『君と世界の戦いでは、世界を支援せよ』(筑摩書房)は、いまでも好きだ。
 こんなことがあった。
 ある野良猫を加藤さんが拾った。「論楽社で飼ってくれないか」と埼玉県志木市の自宅から車で論楽社まで運んで来てくれたことがあった。
 当時論楽社に甘夏(あまなつ)という猫がいた。甘夏もちょっと前まで野良だったのに、「なんだ、この新入りめ」とその猫にやたら警戒した。ウーウーと鳴いた。加藤さんに電話し、「ちょっとムリか」と伝えた。1週間後に再び車で来て、引きとってくれた。
 その猫はクロと名づけられて、加藤さん宅で天寿を全うした。
 「この野良のために、加藤さん、京都と2往復か」と思ってながめた満開の桜がなぜか忘れられない――。
 その後、『敗戦後論』(講談社)があった。
 加藤さん、それこそ、なぜかトーン(tone)が高かった。「どうしたんだ」と思った。
 加藤さんの論に受け皿がない。そう思った。
 当時「護憲勢力」と言っても3人に1人いるか、いないか。「国民投票」という勝負に出られない状況だった。
 そして、私はどの「勢力」とも距離があった。左翼のどの「勢力」とも、縁がなかった。私は私を代表させる以外に方法がなかった。
 「誰も受け手のないところに打たれた千本ノックのようなものだった」(『さよなら、ゴジラたち』P.117)。
 痛切な思いで、いまここで、加藤さんの、この言葉を読む。
 戦後日本は「ねじれ」と「矛盾」に満ちている。その「ねじれ」と「矛盾」を生きる以外にないのさ。
 その「ねじれ」ゆえに、ときどき妙に正直な作品を残している。
 映画『ゴジラ』がそうである。南太平洋の海底で眠るゴジラの居場所から、なぜか正直に日本だけに向かってやってくる。核実験で目ざめた恐竜のようなゴジラ。放射能を持った亡霊である。
 その亡霊たちが、戦後自分たち戦死者を見捨てた日本社会(天皇も靖国神社も入る)に繰り返しやってきて、破壊していく――という加藤さんの見立てがよかった。
 その見立ては、戦後のワシらの風景をすっきりとさせる。
 私たちは戦死者にうしろめたさをどうしようもなく抱えて生きている。私もおじ(父の弟たち)にが2人戦死している。
 米軍はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下。国際法違反は明白。日本政府は正式に抗議することはなく、米政府の謝罪もいちどもない。何も言挙げすることなく、66年も過ぎている。それどころか「投下が戦争を終結させた」と米政府は言い、みんな、いまだにそのプロパガンダを信じている。
 被爆者は占領下でも占領後でも放置された。差別されていた。当時孤立していた被爆者たちが内発的に「死の核兵器」ではなく、「生の原子力発電」へと夢を積極的に託して祈念してきたことが、『3・11』で明らかになった。とても、つらい。
 「平和利用」なんていうのもプロパガンダ。合法的なプルトニウム製造工場でしかない原子炉であった。被爆者たちも、他の国民も、つけこまれて、だまされていった。その「ゆがみ」「ねじれ」「祈念」を抱え、フクシマの原発はついに2011年水素爆発していったのだった。
 原発の目的は発電ではない。プルトニウムによる核兵器である。
 現在のところは日本は核兵器は持っていない。しかし、50トンのプルトニウムを抱え、核兵器製造能力と持っている。いざとなれば、1日か半日かで製造できる技術能力があり、その準備もちゃんとあるのだ。
 戦後日本は米国の核の傘に入った。安保条約を結び、米軍を国内に置き、核兵器も持ち込まれた。まるで属国のようである。沖縄の米軍基地のひとつも減らすことも自主的にできない。自発的な外交力も失ってしまっている。
 でも、「いざとなったら、核兵器をもつぞ」という一点によって、属国の屈辱は支えられていたのだ。その一点において、米国に対し、ガマンしているのだ。
 でも、そんなガマンは、もう、それは妄想でしかない。空(むな)しいではないか。
 日本も米国も核兵器を使用することはできない。使ったら、すべてがオシマイ。廃業する以外に生きのびれないのだ。
 核抑止政策を日本は放棄すべきだ。生きのびる道を次の世代に残さねばならない。
(1月19日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する
人生の初冬――長島愛生園の長老たちのそれぞれのいま
 1月8日(日)、9日(月、祝)に岡山県の長島愛生園へ小さな旅をしてきた。2012年1月例会を兼ねていた。
 参加者は斉村康広さんと斉藤貞三郎さんの2人。私を入れて、男3人。ちょっとだけさみしい旅だった。
 でも、ゆったりと交流できて、よかった。斉村さんの焼酎はうまかった。大学ラグビーの決勝戦を愛生園で見るなんて、スゴイ。これもラグビーファンの斉村さんのおかげである。
 愛生園の長老たちは“人生の初冬”をそれぞれ迎えている。
 こういう姿を見つめていると、「(61歳の)私なんか“ひよっ子”だあ(斉村さん)」。私も同感である。
 金泰九(キム・テグ)さん(84)は火傷をしていた。お湯をひっかぶって、重傷。6か月間の入院生活を経て、右手の指を2本切り落とす。「右手がダメだと、不便だよ」とちょっとさびしそう。
 『虎は眠らず』(40分)。金さんの人生についての記録映画だ。昨夏自主制作された。私はまだ見ていない。「見たい」と思っていた。でも、「好評で、金さんの手元にもないんだ」。また、いつか――。
 宇佐美治さん(84)の「認知症」について。10分間話していると、1分ごとに同じ話に戻っていく。10回繰り返されることになる。「ちょっとヤバイ」と思うけど、私があわてないことなんだ。これは病気なんだから。体は元気そうだった。
 阿部はじめさん(87)、北島かね子さん夫婦はすこやかであった。夫婦の持つやわらかな力に満ちていた。「今年、米寿になります。でも、気が若いというか、“べいじゅ”という気分になりませんな」と阿部さん。「若いのじゃなくて、幼いのよ(笑)」と北島さん。いいカップルだあー。
 さまざまなことのあった人生の“冬の始まり”である。見守っていこう。明日はわが身である。
 最後に「相愛海岸」に行くことができた。
 15年ぶりに行ってみた。
 旧少年舎の家畜小屋跡、棚田跡の小道を登っていく。道はササ、カヤに覆われ、塞がれている。刈られるところもある。
 峠を登り、下っていくと、白い砂の自然海外へ出る。
 長さは500〜600メートル。ひとが入っていない。波の音だけが響いている。きわめて、しずか。別天地のようなプライヴェート・ビーチ。
 「こんど4月末に来て、ササやカヤを刈り、海岸のゴミを拾おう」と斉村さんと話している。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 01:43 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する
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