論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
再び感話――諸仏の2015年1月例会へ、ようこそ、ようこそ
 2015年の1月例会を、2月1日(日)にする。1日のズレ、お許しを。
 テーマは、感話。
 シナリオはない。いまここで何を感じているのか? それを言葉にする。言葉に紡ぐ。4分でも15分でもいい。話してもらおう。
 それを聞こう。耳をすまそう。そんな例会。
 ひとりの内部の課題を語ってみる。すると、もちろん状況はいろいろと違うのに、びっくりするくらいに「そうや」「なるほど」と思い、つながっていることにも気づくことが多い。思いのほか、私たちはつながりあって、同時代をともに生息しているのに、気づく。
 社会全体の欲望によって生み出された苦が私たちにおおいかぶさっている。ひとりひとりの生老病死の四苦八苦の上に社会苦が乗っかってくる。そんな現在(いま)。
 2014年10月に、斉村康弘さん、田中武さん、寺元健二さん、永田純子さん、浜地弘子さんの5人に頼んで、「感話」をやってみた。その2回目を、小笠原信夫さん、下橋三千代さん、広海(ひろみ)緑朗(ろくろう)さんの3人に頼って、再びやってみようと思う。
 やってみよう。参加者は少ないかもしれないけど、私はやってみたい。チャレンジしていこう。
 論楽社を始めて、34年目。毎月毎月の講座や例会は話し手がいて、聞き手がいて、成立しているんだ。その両者は、諸仏であると思っている。
 「感話」は最も論楽社らしい例会かもしれない。
 2月1日(日)。ブラリと来てほしい。
 2015年の新しい年を、新しくていねいに歩き出そう。
 新しい出会いをしていきたいな――。
    2015年1月例会
 2月1日(日)午後2時〜4時半。
 論楽社(左京区岩倉中在地町148)。
 テーマは、「感話――いまここで私は何を感じているのか?」。
 次の3人のひと(アイウエオ順)に話していただく。それを聞こう。そして、話そう――。
 小笠原信夫さん(京都府八幡市・原発反対のウォーキングを月に2回始めている)
 下橋三千代さん(兵庫県西宮市・「話すのがニガテなので、ほんに少しだけならば……」と話す)
 広海緑朗さん(京都市中京区・ノンベクレル食堂のオヤジ、2か月後の市議選に無所属で立候補! 脱原発と脱戦争経済を目指す)
 参加費1000円。――論楽社といっても個人宅なので、必ず事前に申し込みを(TEL 075-711-0334)。
 交流会5時〜7時半(自由参加、自由カンパ制)。
 広海さん、善戦とかじゃなくて、当選して。
 「もう右でも左でもない。傷つけあいのサークルから脱け出そう。やわらかくて、あったかいいのちを守ろう!」とは、私の思い。「論楽社の動きだけでは、もう、全く間にあわない」も、私自身の思い。個人的な思い。市議会に脱原発の声を届けてほしい。
 といっても、広海さんの個人演説会では決してない。参加者それぞれの政治信条はそのままで大切にして、「こういうひとがいる」と思ってもらったら、それでうれしい。いままでの例会と、変わらない。
 ただ、2015年から、政治をも取り込んで、歩んでいきたい。
 やっぱ、参加者が多いほうがうれしい。なつかしいひとも、新しいひとも、来てね。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第134回)ベアテ・シロタ・ゴードン――日本国憲法に男女平等を書いた女性(後編)
 ひとは誰かの、何かの守護なくして、一日も生きることはできない。一時も生きることができない。私も守られて、生かされていると思っている。
 その守護が厚いひともいる。薄いひともいる。なかには格別に厚いひとがいる。その一人が、ベアテ・シロタ・ゴードン(以下、ベアテとする)。
 何の遠慮もなく、精神を思いっきり働かすことができる。まるで思考することが趣味のように、快楽のように生きる。思いきり心を開き、いま生息している世界をあるがままに見て、善い所も悪い所もフェアーに見ている。ベアテは、そんな恵まれてある、智と情の女性。
 その女性の個人史が、日本史と絶妙な縁で交差していく。それがベアテの自伝(『1945年のクリスマス』柏書房)のエキサイティングなところ。そこは前編で書いた。
 「日本女性の味方は私一人しかいない。それは、孤独感ではなかった。励みとか決意とかいう、血の熱くなるものだった。」(同書P.166)
 1946年2月の当時、ベアテはひとりぼっち。ひとりぼっちで、声に出し、願い、実現しようとしていた。いわばベアテの必死の涙が現憲法の24条に結実。その恵みの実が、いまも日本の女性たちのすべてを守護している。
 ベアテというひとの存在自体が「一方的に押しつけられた」という東京裁判批判派の言説への反証でもある。憲法草案が暴力的に押しつけられのでは決してない。ベアテたちが日本の文化状況、秘められた悲痛激怒へいかに敏感であったのかは、本書に詳しい。日本側の白洲次郎たちの猛反発反論によって、草案が練りあげられているところも、私は本書によって、初めて知った。いわば、日米の共同集中作業だったのではないのか。
 されど、占領軍である。日本の各都市をナパーム弾で焼きつくし、ヒロシマとナガサキ、オキナワを経た占領軍。すべてのすべてが軍事機密の中のことであった。他言は厳禁。
 ベアテも半世紀、全くの沈黙。本書の中でも、元上官から「話してもよい」という命令はいまだに出ていないと言っている。
 ベアテは賢い。「弁護士でもない、22歳の若すぎる女が原案を書いた」なんてわかると、「日本社会でどう思われるか」をよくよく知っていた。そのこともあって、沈黙していたのである。
 その結果、いまだにほとんどの日本人はベアテのことを全くのところ知らない。
 結局、奇跡なんだ。もう、何か月か、遅かったら、ベアテたちニューディール派(人権派)はきっと「レッド・パージ」されていただろう。
 冷戦は激化し、朝鮮戦争が始まる。占領軍の軍の本質がムキ出しになったはず。そのほんの少し手前のスキマ。ちょっとした歴史のスキマの奇跡だった。
 1946年2月当時の最大の関心事はなんていっても、天皇(制)。ほとんどの国々が戦争責任を追及していたのである。最低限のけじめはほんとうに、当然必要だった。
 米軍だけが「天皇は使(利)用価値がある」と判断していた。武装解除にも役に立ったからである。「もっと抵抗がある」と思っていたのに、天皇の命令で陸軍や海軍がコロッと解体されたから。その命令力に価値を見出していた。
 昭和天皇自体も処刑や処罰、退任は避けたかった。急に「私は平和主義者」「悪いのは東條英機一派」と言いつづけた(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫)。必死のパッチの保身キャンペーンだ。
 それはウソだ。事実ではない。巨大な軍の大元帥閣下が平和主義者であったわけがない。そんな人間が務まる仕事ではない。
 そのウソを信じるひとがいた。占領軍であり、各新聞社であり、各官僚組織であり、国民たちである。ウソを信じたいのである。なぜ? 自分は何も変わらなくても済むから。
 その結果、天皇は平和主義者となり、東條らA級戦犯は天皇の身代わりとして処刑された。その東京裁判に昭和天皇は心からの感謝をしている(豊下楢彦の同書)。――昭和天皇は東京裁判を支持しているし、A級戦犯を祀る靖国神社には参拝しなかった。そのことを東京裁判批判派はどう考えるのか。
 おまけに、「沖縄は米軍に貸す」(沖縄メッセージ)とか「米軍に日本本土の基地の自由使用保証」とか、身勝手な天皇外交をやっている(豊下楢彦の同書)。その結果、米国の属国のような安保条約地位協定体制が生まれたのである。そんな外交は明々白々の憲法違反。天皇は戦前と全く変わらなかったのである。
 つまり、天皇を免責するために、9条をはじめ、24条も何でも面従腹背で飲んだのが実情ではなかったのか。その結果、奇跡のような条項が残ったのであった。免責された天皇も残った。残った天皇は首相の頭越えで、米軍にすがって、日本の主権も外交も歪めてしまった。闇は続くのである。光と闇の織りなす人間の歴史である。
(1月22日)
| 虫賀宗博 | - | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第133回)ベアテ・シロタ・ゴードン――日本国憲法に男女平等を書いた女性(前編)
 まずは、訂正を。
 禅僧で琵琶の奏者のSさんからの指摘。
 禅の言葉の「明(めい)歴々露(ろ)堂々」ということをSさんから教示を受けた。2週間前の私のコラム(1月1日付)の「露堂々」のことである。
 いのち――ということ。
 たとえ生後1周間で消え去るいのちといえども、この世に来たのである。光輝いたいのちそのものを「明歴々露堂々」と言う。「明らかで、ごまかしのない事実、真実である」(Sさん)。どのいのちも真実なのだ。
 「つゆ」を「ろ」に訂正する。
 私は知らなかった。Sさん、ありがとう。

 正月休み、『1945年のクリスマス』(柏書房、1995年)を読んだ。
 ベアテ・シロタ・ゴードン(1923〜2012、以下ベアテとする)の自伝。積読(ツンドク)だけで、いままでに読んだことはなかった。
 ベアテ、米国占領軍のスタッフとして、来日し、日本国憲法に男女平等の条項を起案――。という事実は知っていても、具体的に全く知らなかったのである。とってもおもしろかった。
 まず前史。父のレオ・シロタはピアニスト。縁あって、ウィーンからシベリアや旧満州へ演奏の旅に。
 そこで、山田耕筰と出会い、願われて、来日。1929年、5歳だったベアテも同行来日。東京で生活。
 3か月もすると、ベアテは日本語を覚えはじめ、以後両親の通訳をする。レオは東京音楽学校教授に就任。戦前の日本社会のひとびとと一家で交流。
 来日したことによって、ユダヤ人のシロタ一家は結果的にナチのユダヤ人狩りから逃れることができた。レオの弟をはじめ、一族は強制収容所で殺されているのである。
 その代わりに、戦時下、レオたちは軽井沢に強制収容。スパイ扱い。栄養失調に。
 その間、1939年に単身渡米し大学生になったベアテとは音信不通。送金もストップ。ベアテは日本語力を活かして、自活。最優秀で卒業。
 そして、日本へ帰る手段を探り、占領軍の民間人スタッフに応募。採用される。再来日。
 書名となった1945年12月24日のクリスマス・イブにベアテは両親に、やっと再会できたのである。両親は米国へ。
 そして、22歳のベアテがエキサイティングな9日間を送ることになる。本書のテーマ。ドキドキのドキュメント。
 1946年2月4日から12日まで、占領軍が新憲法の草案を日本政府に出すことになったのだ。
 敗戦から2回に渡って日本政府は新憲法草案を提出している。明治憲法をほんの少し手直ししただけ。やる気はないのである。天皇の権利を制限するようなことは当時の日本人にはできないのである。そんな発想も勇気も根性も支配層にはなかったのである。ちょうどいま、原発事故の後も原発を全廃できないようなものなんだ。
 当時の中国、(旧)ソ連、オーストリアなどは天皇の戦争責任を強く主張。米国としては天皇家断絶を回避し、天皇を利用して、占領政策を貫徹する作戦。2月12日に日本政府に草案を提示し、まとめあげ、2月末の中国やソ連たちとの会議の主導権をにぎるつもり。ゆえに9日間で作成。すべてはトップ・シークレット。国家機密。
 ベアテは人権の小委員会に(なんと美しい運命!)。
 ベアテの日本語力は抜群で戦前の日本の女性の無権利の状況を熟知していた。全知をかたむけ、書く。
 「日本の国がよくなることは、女性と子供が幸せになることだと考えていた」(同書P.163、なんという幸運!)。
 現24条はベアテが書いたのだ。
 ベアテは通訳もしており、白洲次郎(白洲正子の夫)たちの日本側担当者たちが「男女同等とかは日本的でない」と文句を言うのに、「シロタさんのためにこの部分に同意してほしい」と米国側担当者が頼むと日本側は受け入れたという。ベアテの日本への自然な親近感を日米交渉担当のすべてが認めたのである。
 こういう奇跡のようなことが1946年2月の東京であったのだ。
 「ちょうど私がそこにいただけ」とベアテは後に語っていた。
 でも、ベアテでなくては実現しなかったことは、明歴々露堂々である(後編へつづく)。
(1月15日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第132回)食卓――いい時間をコトコト煮込む
 やってみれば、カンタンだった。
 料理の小品を、10分や15分で、ささあっと拵(こしら)えてしまえば、いいのである。
 とっても単純なことなんだ。
 私にとって、大きな気づき――。
 たとえば、「たたきごぼう」。
 ごぼうの土を洗い流す。私はごぼうの皮をむいたり、アクをとったりしない。皮もアクもうまみ。てきとうに切って、ゆでる。「水を5に、酢を1」――と料理本に書いてあったけど、そこはムシ。ただ、湯に入れ、「もう、いい」というころを見て、ザルにあげる。まないたの上、すりこぎで、ごぼうをたたく。たたくことによって、味がしみる。ドンドン。ゴンゴン。たたく。これがおもしろい。それに酢、みりん、だし(こんぶ、しいたけを水に入れておいたものを常備、以下「だし水」とする)、しょうゆにすりごまを入れる。
 以上、10分もかからない。実にカンタン。
 私はごぼうが好きだ。ゆであがるこぼうの香がいい。たたくのも、妙におもしろい。そして、うまい。
 いい時間が生まれ、つくられていくと感じる。
 たとえば、「味噌煮込みうどん」。
 雪が降るような夜にはこれだ、と思う。私は岐阜人。
 土鍋にだし水をどどっと入れ、温めはじめる。故郷・岐阜ではかしわを入れ、水たきのようにしてやりはじめるけど、私の好みでは、かしわも、きのこも、白菜も入れない。カマボコとか、そういうのも不要。欲しいのは太ねぎのみ。ほうちょうを入れると、ねぎ汁が出てくるような、ねっとりとしたねぎがいい。白いところも緑のところもすべて入れる。別の鍋でうどんをゆがく。ゆであがるのに15分もかかるような太うどんがいい。土鍋がグツグツしてきたら、「八丁味噌」(京都人は見向きもしないけど、この赤だしの味噌がないと、やっぱ、いかん、アハハ)を入れ、ゆであがった太うどんを混ぜ、八丁味噌とからませて、アフアフズルズルと食う。
 「幸福というのはとんでもなく遠いとこにあるのではない。目の前の、いまここにシンプルにある」と思えてくるのである。
 たとえば、「里芋のうま煮」。
 里芋を5、6個皮をむく。こんにゃくを太ぶりに切る。鍋に油を少し熱し、これらを入れていく。厚揚げも入れ、だし水を入れ、みりんとしょうゆで味をつけ、落し蓋をし、10分間コトコト煮る。
 これだけ。15分で完成。
 うまいのである。カンタンで深い。うまい。
 ああ、私、里芋が大好き。
 冬の蕪も蓮根も大根もそれぞれが好き。そういう意味でも冬は好きなのかもしれない。
 結局、料理って、何なのか。
 「あれ」とか「それ」とか、難しく考えすぎてはいけない。
 心や頭のぜい肉をそいで、カンタンにシンプルに調理すれば、いいのだ。
 こんぶだしにしても八丁味噌にしても梅干しにしても、先祖先輩がつくっていてくれている。ひとの暮らしと同じだけの食文化の歴史がある。深く感謝しながら、その先人たちの生きる力を、いまここの新鮮な時を生かして、食卓にささあっと載せればいいのだ。
 私は料理がおもしろいと感じはじめている。
 生の技術。生きる力。生きのびる底力。それが料理。
 外食が全くできなくなった。もともと魚食肉食をあまりしない(といってベジタリアンではない)。芋や豆、大根をいっぱい食べるとなると、自分でつくるのが、一番だし、それ以外に選択肢がない。
 結果的に、やっと、私は自分の人生の椅子にすわったのだ。
 1週間に1品ずつ料理を新たに覚えていこう。
 やわらかく、静かに、いい時間をコトコトと煮込んでゆきたい。
(1月8日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第131回)露堂々――平凡でしずかに
 2015年の新しい年の、新しい日の、新しい朝の光である。
 光に満ちている朝。クヌギの落葉の上や庭の寒菊の紅に、露がキラキラと、光ってる。
 「露堂々(ろどうどう)」。
 大石順教さん(1888〜1968)がよく書いていたという言葉(2014年12月14日、萱野正巳さんによる)。
 小さな水滴のひとつひとつ。堂々と存在し、根源的な光を発している。しだいに緑を成し、天に帰っていく水。再び露や雨、霜、雪となり、海や川を成し、巡っていく水。
 水の物語のひとつの断面を、「露堂々」と言う順教さん、スゴイと思っている。
 描かれていない色を見ていかないと何も見えない。
 聞こえない音を聞かないと何も聞けない。
 語られない言葉を読まないと何も読めない。
 私は見えているのか? 聞こえているのか? 読んでいるのか?
 そう思いながら、60回目、60歳の正月を迎えている。
 もっと、もっと、もっと、沈黙を聞きいってゆきたい。
 日の光。鳥の影。木々の静けさ。
 それらを聞きたい。聴いて、体に返し、体をくぐらせて、体に聴いた言葉を紡いでいきたい。
 才能なんてないこと、よくよく自覚している。
 知識なんてないこと、よくよく自覚している。
 自分自身の体に返し、体を通じさせると、何かの発見があるのである。その発見を辿るために、毎週綴っている。
 「虫賀さんのブログは心の支えになることも多く、いつも楽しみに読ませてもらっています。」
 こんなことを書いてくれる友人にはただ感謝。
 私、まずは自分自身のこころと体のために、せいいっぱい綴る。不器用に、「うーん」と唸りながら、ボールペンで書き記してみる。それしかできない。
 訂正だらけの読みにくい原稿用紙を楢木祐司さんがブログとして制作してくれている。ありがとう。
 それを読んでくれているひとがいて、ときどき、手紙をくれたりする。望外の喜びである。ありがとう。
 私たちは、無限――何日数えても数えきれないような、無数の相互依存的連係生起(dependent co-arising)の重なり――のかかわりの中で、生き、生かされている。
 何ひとつ孤立していない。みんな、つながっている。
 そのかかわりの中で、会うべきひとには会い、別れるべきひととは別れてゆく。会うべきひとには必ず会い、別れるべきひとには必ず別れるのである。
 出会ったひとが私を生かし、別れたひとが私を生かしてゆくのである。
 飛ぶクモも、暮れなずむ夕日も、笑っている北風も、すべてが堂々としており、ついでに私を生かしてくれている。
 世界は新聞が切り取っているのとは違って、屹立している。ニュースと呼ばれる日常の断片が私たちの歴史ではない。
 平凡であざやかな毎日こそが、価値。ニュース。
 真実というものは、思いのほかに平凡でしずかなもの。
 ゆったりとした時間をゆったりと生きること。
 それ以上の晴朗さは、ないのではないか。
 小さくて、光って、堂々としたものを、私は私自身を越えて、発見していきたい。
 そんな1日1日、いまここを生きてゆきたい。
(1月1日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 11:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
禍福一如――萱野正巳さんと大石晶教さんの「講座」レポート(後編)
 2014年のラストニュース。大石順教さん(1888〜1968)について。今年のまとめとしたい。
 幸いなことに、12月14日(日)の「講座」のときに放映した記録フィルムの写真を斉村康弘さんが撮ってくれている。許可をとって、のっけてみる。斉村さん、ほんとにありがとう。ありがと――。
 短く、年表にしてみる。改めて、まとめてみるね。
 1888年に大阪の道頓堀のすし屋に生まれる。本名よね。
 1899年、名取り(踊りの師匠)。
 1901年、中川万次郎の養女に。踊りの研鑽を積む(写真1――この写真の2日後に運命の時を迎える)。
 1905年に運命の「堀江事件」に会う。養父が嫉妬狂乱(妻が甥と出奔)。なんと一家6人が日本刀で切られる。ただ1人、両手を切られたまま、生き残る、(写真2は当時の新聞記事)。退院後、寄席の舞台に立って生計を立てる(写真3、当時は「見せもの」だったんだ!)。
 1907年、カナリヤのひなを育てるのを見て、「ハッ」とする。口に筆をとることを思いつく。精進。
 1912年、日本画家山口草平と結婚。一男一女の母となる(写真4)。
 1923年、上京。絵更紗帯を描き、生計を立てる(写真5)。関東大震災に遭遇。デパートの個展開催予定の作品の全部を消失。どん底。
 1927年、離婚。
 1933年、高野山にて出家得度。順教と改める。
 1936年、山科の勧修寺に「自在会」(後の仏光院、現在の可笑庵、付記参照)を設立。身体障害者への福祉活動に尽力(写真6、左から2人目は日本画家の南正文、順教の最後の弟子)。
 1955年、口筆般若心経、日展入選(写真7)。
 1968年、『無手(むて)の法悦(しあわせ)』(春秋社)の刊行(いまもロングセラーとなってるよ。図書館でリクエストしてね)。
 そして、死去。80歳。
 生ききったのである――。
 以下、順教さんについてのエッセイを短く書く。思ったまま、綴ってみる。何でもないことを、記す。
 「『無手、無学、無財』の三つの無が自分を幸福にしてくれた。」順教さんがよくこう語ったという。
 このことは繰り返し、思い浮かべ、考えたい。無がいのちがけで知恵を深め、有を生んでいくのだ。
 いくら手があっても、いくら学があっても、いくら財があっても、心がジャマをして、不安で不幸な日々を送っているひとは多い。妄念が働いて、「ない」ものを「ある」と誤認するんだ。相変わらず差別もいじめも殺人もあるのである。
 順教さんは手がふっとんだことによって、妄念もふっとんでしまった。ふっとばしたのである。その結果、発芽した仏心。誰にもある仏心が素のままに芽を出し、育ったのだ。
 私もペンを口でくわえて、書いてみた。5分もしたら、ヨダレが出て、たいへん。
 とてつもない、修行者だ。ブッダや老子のような覚者。こういうひとこそ、世の光。世のリーダー。そう思う。
 「ミヤコ蝶々のようなひとやった」と萱野さんは言った。「なるほど!」と思う。漫才師・司会者・俳優のミヤコ蝶々だ。五分の笑いに、五分の深い知恵に頭の回転の速さ。こういう庶民的で気高い器のひとに、ひとびとは慕い、従うのである。日本という国家は、こういう知恵深い太母をリーダーにして、初めて、治められる。平和で、賢い、国家になっていくのだと思う。これが私にとっての妄念妄想かもしれんけど(笑)。
 「手のない人はみ仏の手をいただき、眼のない人は心の眼をひらかなければならないのだよ。そして足の不自由な人は感謝の心でしっかりと大地を踏まなくてはならないのだよ。そうしなければ私達の救われる道はないのだよ」(略)「身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私達は“心の障害者”になってはいけないのだよ」(略)「世の中のために感謝と奉仕の心をもって“心の働き”を生かすのだよ」「両手を無くしたこと、なにもしらない無学なものであったこと、そして、お金にたよらずに貧乏をして来たことが、ほんとうに私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとそのしあわせを味わっているのだよ」(『無手の法悦』P.298〜299)。
 最後に、この笑顔(写真8)。
 私たちへの永遠のプレゼント。この笑顔をときどきupして。思い出して。
 仏の肩のゴミひとつ払う手はないけど、いつも「ありがとう」と心の掌(て)を合わせて生きぬいた順教さん。ありがとう。
 こういう生を心の中心にどーんと置いて、いまここをほほえんで生きていこう――。
 今年もありがとう。
 もういくつねると、お正月かな。またね――。

 付記。
 いま、可笑庵は無心庵とともに「いこいの家」になっている。毎月21日の10時〜3時、開いている。いちど、行ってみて。「順教尼をしのぶ会」をしている。
 私は11月21日に行った。映画『天から見れば』(2011年)を見せてもらった。日本画家南正文さん(このひとも両手がない)から見た順教さんの世界。おもしろかった。
 場所は勧修寺境内の北側(山科区勧修寺仁王堂町27-11)。無料。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 17:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
禍福一如――萱野正巳さんと大石晶教さんの「講座」レポート(前編)
 12月14日(日)の「講座」(第114回)から2週間が経つ。
 レポートが遅れたね。ゴメン。
 理由は天候。「不意をつく」という感じで16日(火)から真冬になった。雪が降った。トイレの水道が凍てついた。「90歳の家」が凍てつき、隙(すき)間に板を打って少し修繕したりしていた。「59歳の私」も冷えが入って、腰や肩がヒリヒリし、ヘロヘロに。銭湯へ避寒のために「逃走」したりもしていた。
 つまり、レポートを書く前にに休息をとっていたのだ(笑)。ゴメンネ。
 まずは「講座」についてのレポートを書く(前編)。
 次に、そのまとめとしての大石順教小論をほんのちょっと書く(後編)。それがことしのラストの「ほっとニュース」になる。
 では、まず、12月14日のレポートを――。
 参加者数は19人(もっともっと工夫と努力が必要だ! 「古い名簿」を刷新して新しいひとたちに出会っていこう! 出会うべきひとに会おう!)。
 名古屋から中口めぐみさんが参加してくれ、うれしかった。ありがとう。長野の関けさ子さんから料理が届き、岡山の武南克子さんから「みなさんで何かおいしいものを」とカンパがあった。田中武さんからもカンパが。それぞれ、ありがたいな。ありがとう。
 写真の記録をしてくれたのが、いつもの斉村康弘さん。斉村さんのおかげで、こうして海外へもこの日この時の雰囲気が伝えられる。ありがたいことだ。ありがとう――。
 さあて、12月14日の「講座」のポイントを、たった一行で、あえてまとめれば、これ。

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 順教さんのオリジナルの書だと、これ(写真1)。
 この日は、論楽社の部屋が、順教さんの書や絵に彩られた。床にも障子にも壁にも書や絵が置かれ、「順教ワールド」に包まれた。
 めったにない、ありがたいひとときだった(写真2)。
 両手を切られたのに、自然体でユーモアをもって、好奇心に満ちて、「前へ、前へ」と生きている順教さん、「禍も福も二つでない、一つなんだ」と言う。迫力もあるし、説得力もある。これが人生の醍醐味。
 萱野正巳さん(大石順教記念館館長)が言う(写真3)。
 「こっちが彼岸、むこうが此岸。そう思ってるだけ。ここが出発点、あっちが終点。そう思い込んでいるだけなんです。逆に『こっちが此岸、あっちが彼岸』『こっちが終点、あっちが始点』、そうでもあるんです。」
 「両手がないんです。自分を変えてゆくしかないんです。普通のひとは生涯で脳は2割しか使わないそうです。ある学者が言うには、順教さんは7割は使ったと言えます。使いに使ったのです。」
 徹底他力(たりき)。純粋他力。
 「自力か、他力か」なんていう議論は、ふっとぶ。手がないのである。ひとりではご飯を食えないし、お茶も飲めないし、風呂にも入れないのである。トイレはどうやって済ませるのか? 着物はどうやって羽織るのか?
 自力を、自我を捨てる以外に、選択肢がない。徹底した、純粋の、他力。
 そのまま、あるがままに受け入れてもらって、助けてもらう以外に、生の手立てがない。その極北。
 大石晶教さん(お孫さん、かなりや会代表)は言う(写真4、5――それぞれ右端)。
 「私たちもいちど手をくくってみたら、いいんですよね。子どもを育てるとき、どうやって洗濯するのか? どうやってお乳を与えるのか? どうやっておむつを変えるのか? 自分自身をとことんまで問い返していくんですね。手がないので、心を工夫していく以外に方法がないんです。」
 「(中川)万次郎さん(養父)がいなかったら、順教は単なる舞りの師匠です。あの人がいて、イヤな役回しで、順教の腕を切った。そのおかげで、順教というひとができあがったんです。『もう、いちど、生まれ変わっても、両手がないほうがいい』。そうまで、順教は言ってました。」
 まいった。
 いのちを信じとおしている。いのちの力に託しきっている。
 解説説明分析のすべてはふっとぶ。ウソっぽい信者面(づら)も、信心ぶりっこも、ふっとんじゃう。
 大石順教さんに出会った。
 ありがたい。
 萱野正巳さん、大石晶教さん、ありがとう。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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