論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第126回)湯気――祝福される光へ
 11月21日(金)に京都の山科の勧修寺の「いこいの家」に行った。
 毎月21日、大石順教さんの命日(1968年4月21日)をしのんで、集まっている。
 奈良の浦田幾子さんに再び誘われて、行った。順教さんの孫の晶教さんに会うこともできた。順教さんのお墓に手を合わせることもできた。
 順教さんが勧修寺の境内に1947年仏光院を設立。身体障がい者の相談所を兼ねた、仏道修行場だ。
 それの現在ヴァージョンが、「いこいの家」。小栗栖街道沿いにある小さなホーム。
 その「家」に入った瞬間に、思った。
 「あっ! 長島愛生園の何かと同じ匂いだ」「湯気が立ってる!」と感じたのである。
 その「何か」って、何か――。
 具体的に暖かい汁物のだしの香りがした、ということがたしかにある。
 たしかに、それはある。いのちの香りはする。
 でも、それだけじゃない。
 私が直観した「何か」を言葉にすれば、こうだ。
 「生と死の巡礼」ということだ。「その巡礼の場所」ということだ。
 生は死を背景にしないと発光しないのではないのか。
 生は死(あるいは病)を伴ってしか立ち上がれないのか。
 生は死を抱え込むことによって、二重に三重に光輝くのである。きっと体の明度が高まっていくのである。
 たとえば、手のないひとは、上着のボタンひとつを足の指とか使いきって、「えいっ!」と掛けるのである――。
 手がなかったり、指が不自由だったら、泣いてもしかたがない。「よし!」と、針金で道具をつくって、やっちゃうのだ。
 人間にはすさまじいまでの能力が備わっているのだ。そういう深い、深ーい存在なのである。
 そう、痛感するのである。
 星を見て、風に触れる。生きもののぬくもりを知る。それを通じて、何か大きな世界を知る。
 そのために、すべてのいのちは生かされ、生きている。
 深く、生かされてあるのである。
 これが生きることの実相なのだ。
 ひとの役に立つ、立たないなんてことは、もはや、いのち本来の価値とは全く関係ないのである。「障がい者」という概念すら、ぶっ飛ぶのであろう。
 いまここに1枚の写真があり、何日も繰り返し見入っている。
 『この人たちに光を』(国立ハンセン病資料館、2014年)の「朗読を聞く」(栗生楽泉園、1966年)。
 撮ったひとは、趙根在さん(チョウ グンジュ、1933〜1997、注)。
 ひとりの盲目の老人の男。寒い冬の朝、何かの朗読を聞く。すべての動作を静止させ、全身が耳になっている。白くて薄い髪の毛。閉じた口。白いヒゲ。丸メガネ。手に持ったままの湯呑みから立ち上がる湯気。それらが逆光でひかっている写真である。
 静謐な宗教画のようだ。そのとき、そのところに満ちる気を写しとっている。とてつもなく、美しい。
 ハンセン病に、失明。苛酷だ。近藤宏一さん(1926〜2009)のように、本名を名乗る権利も、子どもを持つ権利も、ふるさとを持つ権利も、仕事につく権利もすべてを奪われたのである。
 でも、近藤さんが言っていたように、「被害者ではあるけど、(人生の)敗北者ではない」のだ。
 この老人も決して敗北者では決してない。たとえ、どんな重い病を得ようとも、たとえ、どんなに短い生涯であろうとも、夜空の星を眺めたり(あるいは感じたり)して「いまここ」を感じるのならば、そのひとは生まれてきて良かったのである。生かされてきて、良かったのだ。たとえ、どんなに差別されたとしても、世界はその生を祝福しているのである。
 そう、「いこいの家」で直観した。
 (注)生活のために15歳から炭鉱夫。しだいに光ひとつない闇の地底の暮らしに恐怖を持ち、地上に上がる。縁あって出会ったハンセン病療養所に、同じ闇を見て、写真をとりはじめる。深い闇ゆえの深い光を得るひと。――その写真展が2014年11月16日から2015年5月31日まで、国立ハンセン病資料館で開かれている。無料。場所は、東村山市青葉町4-1-13。見てみたい。
(11月27日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
いのちとくらしを育(はぐく)む森――メキシコのオルギンさんと中村隆市さんの「講座」へ、ようこそ、ようこそ(大切な付記を添える)
 第113回の「講座」である。11月25日(火曜日)だ。
 遠くメキシコからレオナルド・ドゥラン・オルギンさんを迎える。
 8月に声をかけてくれたのは、(株)ウインドファーム(http://www.windfarm.co.jp)の中村隆市さん。
 オルギンさんはメキシコの森林農法、協同組合のリーダー。
 コーヒー栽培。森をすべて伐採し、大規模農園にするのが、一般的。オルギンさんの森林農法は、いのちを育む森を残し、コーヒー以外のさまざまな作物や果樹とともに、コーヒーを育てる。農薬や化学肥料は使わない。
 有機コーヒーを育て、フェアトレードし、日本と10年以上信頼関係を築いてきている。
 その森は熱帯雲霧(うんむ)林とも呼ばれ、生物多様性に満ちている。
 いったいどんな豊かな森なんだろうか? 香りや土の味は味わえないけど、11月25日に映像を見てみたい。
 オルギンさんの組合の名前は、トセパン協同組合。組合員数は3万人。先住民に代々受け継がれてきた「分かちあい」や「連帯」を現在(いま)に生かした組合である。
 オルギンさんは市民バンク(銀行)の「トセパントミン」をかたちづくり、「みんなの学校」(幼稚園プラス小学校・中学校)の校長でもあるんだ。文化も人間も、育てている。
 ところが、それらのすべてを破壊しようとする鉱山開発計画が生まれている。阻止したい――。
 オルギンさんの話に耳をかたむけよう。
   講座・言葉を紡ぐ(第113回)
 2014年11月25日(火曜日)の午後6時〜8時。
 論楽社(左京区岩倉中在地町148、TEL 075-711-0334)。
 レオナルド・ドゥラン・オルギンさん(メキシコのトセパン協同組合)と
 中村隆市さん(ウインドファーム代表)
 「いのちとくらしを育(はぐく)む森」
 参加費1500円(要申し込み)。交流会は8時〜9時(自由カンパ制、「軽く」やって9時には終わるね)。通訳あり。
 中村さんは松下竜一さんの弟子のひとり。
 有機コーヒーフェアトレードの(株)ウインドファームを設立。
 ナマケモノ倶楽部や非原発運動も展開。
 「講座」へは3回目。
 久しぶりに、友人に、会える。
 11月25日(火)、来てほしい。
 ようこそ、ようこそ。

 大切な付記。
 重要な記録。
 5月、6月の「講座」。その終わりかけ、あるいは交流会のとき、申し込みもしていないひとが突然来て、厭(いや)がらせの発言を唐突にして混乱させることが起きた。
 そのため、7月以降「講座」や月例会の案内をするのを控えた。「なぜなの?」「なぜレポートだけなの?」と思っておられたのかと思う(そういう意見も聞いた)。
 その案内お知らせを今月から再開する。
 それに当たって、私の見解を述べる。短く述べようと思う。
 次の3点に分けて、伝えたいと思っている。
 その1。まず論楽社について。論楽社という存在は世の中の流れの中で、あってもなくてもよいものである。小さな、小さな営みである。私の体から、まだ湧きあがるものがあるので、続けている。きっと聞き手のひとびとの中にも湧きあがるものがあって、遠くからでも忙しくても参加してくれているのではないか。湧かなかったら、誰も来ない。何があるのか? 危機を乗り越えようとする知恵のようなものが在るのである。私というものを越えた共同性のようなものが在るのである。それは誰かがつくるものでなく、誰かが所有するものではない。縁あって参加して出会っているみんなが醸し出す何かなのである。微細な対話と手作業の結果、恵みとして授かるものなのである。
 そういう平和な和合のひとときを、乱入者によって潰されたことに私は立腹した。論楽社の試みは私の自宅を開放して行っている。いままで2回不快なことがあった。ゆえに「要申し込み」にしているのである。不法侵入を許してよいのか――。
 でも、私が間違っていた。怒りを内面化してしまったのである。自性のないものをあるものとして、掴(つか)んでしまったのである。「塩田敏夫さん、内面化しちゃあ、いかん」と言いながらねえ(笑)。
 警察や弁護士を使う用意も準備もあるけど、いまは止め、そのひとに立ち向かおう。怒らず、内面化せず、逃げず、対峙(じ)しよう。諸仏のような参加者の助けも借りよう。そう思っている。
 その2。そのひとは20年以上も前から論楽社に来てくれたいた。私もずいぶん世話をしたし、私が酔っぱらったときに世話をしてくれたりしてくれたひとである。そういう最も可愛がったひとから予想できなかった行為をされても、立腹してはいけないのだ。ここでも私は怒りを内面化してしまった。そういうひとの行為と私の心とは切り離さなくてはいけない。私が間違っていた。私は分析的な瞑想をするのを怠っていたんだ。心を静止させる瞑想に戻りつつ、「なぜ、そんなに怒ったのか?」と分析せねばならなかった。もっともっと智慧を養っていけば、「禍福一如」と気づいたはず。
 どうか、そのひとのいのちのことを祈ろう。そのひとの無明に光がさし、内的なしあわせに満ちますように。
 そのひとよ、思い出してほしい。レフ・トルストイの民話「火の不始末は大火のもと」だ。「ワーニャ、ぐずぐずしねえで、出かけるがええ。火は初めのうちに消さねえと、燃え上がったら――手がつけられねえぞ」(北御門二郎訳)。
 その3。直接に関係ないけど、前妻について。いまは「禍福一如」と思っている。毎日供養している。ただ念仏あるのみ。よき縁もあしき縁もないのである。すべてが同じ縁である。ちょうどよいときに出会い、ちょうどよいときに別れるのである。その前妻が好きだったひとについても、そして、いまここで書いているひとについても、全く同じ。出会いはお与えなのである。ありがたい。
 以上の3点を書く。
 付記する。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 19:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第125回)本願金剛――いのちの根の声を聞く
 11月15日(土)、晴。毎日仰ぐ比叡山(848メートル)に、明子と登ることにする。
 11月5日(水)の高野山(比叡山と全く同じの848メートルだね)に引き続く、霊山である。
 朝6時45分、出発。修学院離宮の雲母(きらら)坂から登り始める。
 京都の山なんだからあたりまえのことだけれども、登り坂のいろんな所から京都盆地が見下せる。岩倉盆地が見渡せる。すると、群衆の中から親がわが子を見つけ出すかのように、自然とわが家を探し出すもんだね。おもしろいね。「ああ、岩倉病院、北山病院(論楽社のすぐ近くの精神病院)も見える」と思う。
 「この地で生息し、生活し、生かされているんだ」とも思う。
 縁があって、京都へ40年前に岐阜から出てきた。当時の私、東京や名古屋じゃ、絶対になかった。結果的に西へ、京都だったんだな。
 京都、差別と因襲の街だ。天皇制文化の本地の町だ。
 そうだけど、その地で必死に、ひょっこりひょうたん島のような小さな、小さな居場所をつくってきた街でもあるんだ。
 「ああ、第二の故郷なんだあ」とそのときに思った。そんな思いが湧いた。
 40年かあ――。
 いろんなことを思い出す。
 40年前最初に登った。同じ11月の末だ。同じ雲母坂を上って、下りた。そのとき、途中から雪が降った。登山靴じゃなかったので、雪が染みて、足の指がキンキンに凍えたことが忘れられない。下山途中からしだいに暗くなり、心も凍えていき、大声を出して気合を入れ下りたことも忘れられない。
 きょう11月15日は、のんびりとゆっくりと明子と登る。
 おもしろいことに気づく。ランニングして登っているひとがけっこう多い。京大柔道部を始め、軽装でみんな走っている。走って登り、走って下るのである。「下るとき、滑って、けがをしないのか」と思ったりする。私は山の霊力を見て、聞いて、味わって登るのがいい。ま、好みやけどね。
 マウンテンバイクで上ってきているひとにも会った。そのひと、良くない気を出していたな。ま、自由やけど。自転車やバイクで山に入るのは禁止してほしいな。
 モミジ、ケヤキ、シデなどの広葉樹林の紅葉黄葉は散り初め。赤の明度も高い。いまをさかんに燃えてる。
 秋の日差しの木もれ陽もやわらかい。やさしい。
 コゲラ(キツツキ)がドラミングを深く響かせている。鳥が多いね。
 9時20分に、ケーブルの比叡駅に出る。もう、登りはない。小休止。
 京都盆地を改めて一望する。朝日に盆地も青空ものんびりと輝いている。
 そして、少し下って延暦寺へ入る。
 東塔と西塔の堂塔をのんびりと回る。4時間半かけて、見る。
 とりわけ、「親鸞聖人修行の地」と記してある碑と同じく「法然上人修行の地」と記された碑に、頭を下げた。
 少しずつ、少しずつ、信心(しんじん)というものに気づいてきているんだといま感じている。
 最近、こんな夢を見た。
 《過去のさまざまな問題がそれぞれ仏画となって、黄金色に光輝いている。その光の中、なぜか田植えが始まり、同時になぜか村祭りが始まる。知らない誰かが、「本願金剛なり!」とびっくりするくらいに大きな声で言う。「おお!」と私が答えている。その誰かの顔が、笑ってるダライ・ラマになり、笑う法然になっている》――。
 なんでダライ・ラマが出てきて、なんで日本語で「ホンガンコンゴー」と言うのか、わからない(笑)。わからないけど、俗なる私の中の、どこか聖なる部分がそんな姿になってきたのではないのか。
 私はそれを素直に受け入れる。
 本願とは、ある宗派の用語では決してない。宗教は何でもよい。いのちの根源の願い。「生きつづけよ」との声。人類生類のすべてに共通の願いである。
 その願いが、原発事故が代表するような多層危機の噴出によって、いま潰(つぶ)されようとしている。
 どんな物質主義のひとだって、気づきはじめている。
 いまが最後のチャンスではないのか。
 若狭の原発が地震で炸裂すれば、ワシらのいのちのすべてが潰される。
 たとえどんな俗なる、卑なるひとにも聖なるいのちがある。その部分を太く、ず太くしていかなきゃいかんのではないか。
 間にあうのか。
 間にあわせなきゃ、潰れる。
 潰しちゃいかん。
 本願金剛ナリ。
 そう念じて、2時半には下山を始めた。明子とともに。
(11月20日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第124回)心の障害者になるな――大石順教さんからのメッセージ
 誘われて、11月5日(水)に和歌山の九度山と高野山へ、明子と行った。
 九度山は「くどやま」と読む。高野山の手前にある。表参道の玄関口の小さな町だ。
 小さいけど、ひとびとの歩みの音を聴いてきた道が連なってあり、とってもいい。空も広くて、のびやか。
 その九度山に萱野(かやの)正巳さんがいて、「大石順教尼の記念館」を5年前から開いているから、行ってみることになったんだ。
 誘ってくれたのは、奈良の浦田幾子さん。大石順教さん(1888〜1968、以下順教さんとする)を教えてくれたのも、浦田さん。縁をつくっていただいた。ありがとう。
 実は浦田さんの夫の実家が萱野さん宅からほんの近所。5年前のあるとき、いつものように墓参りに帰ると、「記念館」が生まれている。「あれ!?」と思って、入ってみた。
 初めて順教さんの実存に出会う。
 順教さん、17歳のときに養父によって両手を日本刀で斬り落とされている。
 なのに、私などでは考えられないことに、養父を恨んでいない。全く。許しきっている。――この出発点からしてスゴイ。ひょっとして、「内的な宗教心を開花させるために養父がいて、日本刀を持たしたの?」ということかもしれないと思うほど。とにかく、スゴイ。
 「無手。無学。無財。この三つの『無』が私をしあわせにしてくれた」――と晩年の順教さんは語っている。
 無文字の順教さんは19歳のとき、カナリアがくちばしでひなに餌を与えるのを見て、両手がなくても口で筆を使えることに気づく。
 「あいうえお」から、とにかく寸暇を惜しんで、筆の練習を重ねつづける。その結果、見事な筆さばきの書が「記念館」に残る。書は心の軌跡。いかに自由であったか。
 長島愛生園の近藤宏一さん(1926〜2009)の点字舌読やハーモニカ演奏に匹敵するスゴサ。
 順教さん、身体の障害者のひとたちに、繰り返し繰り返し、「心の障害者になるな」と言いつづけたひとだった。
 まあ、希有なひとである。
 萱野さんに会った。のびやかな、オープンマインドのひと。
 「順教尼はおばあちゃんのようなもんやった、私は孫のようなもんやったなあ」と静かになつかしそうに語る。
 祖父の萱野正之助が順教さんの出家の菩提親。
 1933年高野山にて得度したのである。順教さん、45歳のとき。
 萱野さんのファミリーは、順教さんと格別の縁があったのである。
 「記念館」を辞し、高野山へ登る。
 1953年に建立された腕塚(うでづか、かないづか)に手を合わせるため。奥之院に、48年間ホルマリン漬されていた順教さんの両腕が納骨されている。
 高野山。848メートル。残念ながら、今回も足では登らない。ケーブルを使って、上がる。
 カエデ、ケヤキの葉はほぼ散っている。風はない。
 しかし、深山の濃厚な気に満ちている。山は標高ではないね。
 同行の浦田さんとゆっくりと話す。しずけさのあるひと。いっしょにいて、気持ちがいい。
 私の知らない空海(774〜835)について、ポツリポツリと教示していてくれる。
 腕塚があった。奥之院に入って比較的すぐのところ。わかりやすいところにある。
 手を合わせる。心の中でなぜか「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」が浮かんできたので唱える。
  衆生無辺誓願度
  煩悩無盡誓願断
  法門無量誓願学
  仏道無上誓願成
 弘法大師御廟に着く。浦田さん、五体投地をしている。「おおー」と思いながら、私は私でもういちど、心のなかで「四弘誓願文」を唱える。
 見上げると、月。
 十三夜の月。
 ぽっかりと浮かび、他に雲もない。音もない。
 気はあくまでも澄んでいる。
 とってもゆたかに、何かから祝福されているかのような気分に満ちる。
 《それぞれのいのちを生き抜け、いのちをやり遂げろ、それだけで祝福!》という思いに溢れる。
 順教さんからのメッセージかもしれない。
 《手があってもなくても、学があってもなくても、財があってもなくても、心の障害者にならず、いのちを祝福していこう。》
 そう思った、小さな旅。
(11月13日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第123回)親様(おやさま)――人間というものの本質に気づいていく
 何回も書いていることだが、両親が妙好人(みょうこうにん)のような念仏者だった。縁である。
 岐阜の実家の毎日の朝夕のおつとめ。鉦(かね)のチンの音(ね)。線香のにおい。「なまんだ(ん)ぶ」という父の声。
 18歳のとき家を出て京都へ行く私に、「(何かつらいことがあったら)これからは親様をたのみとしろよ」という父の言葉。
 親の、親の、親の、親の……親。つまり、人間存在の根源を「親様」と表現していたんだ。北陸東海地方ではいまでも言っている。いまは「おもしろい安心(あんじん)の言葉」と思う。
 当時の私は反発していた。納得していなかった。
 ところが、20年以上たって、私はいくら自力努力を重ねても、どうにも歯が立たないことに直面。
 そのとき、父の声が遠く聞こえてきた。親鸞の『歎異抄』を、父が音読している声がしたのである。幻聴ではなく、確かな生の声として、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」と心に響いたのである。
 父の、親の、親の、親の……親の願いの声を初めて感じたのだと思う。
 毎日毎日の念仏の時の重なりを、私は18までずっとずっと聞いていたのである。その親様――ふつうは阿弥陀仏という――が「ワシらに親様が手を合わせて拝んでおられる」「ありがたいのお、生かされているんじゃ」と父はひたすら帰依していたことの記憶の蓄積があったのである。
 私は「助けられた」と思った。無意識に「なまんだぶ」と出た。
 そこで、私は親様を発見した親鸞に再会――。
 ところが、意識すると、「なまんだぶ」とは私は言えないのである。
 東本願寺への反発は大きい。戦争責任の罪深さはいまだに深い。
 どの宗門宗派であろうがピンと来ない。ウソぽいのだ。
 そんなことよりも、私自身が納得して、「なまんだぶ」と言えないのである。それが私の最重要課題。得心し、わが人生の何たるかに納得し、死にたいのである。
 易行(いぎょう)である。ただ称名(しょうみょう)さえすれば、いいのである。そんなカンタンなことが、できないのである。
 できないので、しない。しないならしないで、そのことに納得して、死にたいのである。
 ブッダを読み、法然を読み、親鸞を読んでいった。再び20年の長い年月をかけて、読んだ。タイのワットパー・スカト―にも行ってみた。
 短く、まとめてみよう。
 法然、親鸞は龍樹以降の大乗仏教だ。
 それ以前のブッダそのものの足跡、思想のテーラワーダ(上座部)仏教は全くのところ、日本に入ってこなかった。
 ブッダは「苦しみを解く」「心の悩みを消す」という治療者マインドのひと。そういう豊かな知恵が日本には入ってこなかった。これって、カレー粉の入ってないカレーライスではなかったのか。
 そのブッダの心を直接的に知らぬまま、中国で浄土教が生まれた。カレー粉がないのに中華スープを加えたカレーライスだ。中国浄土教の思想史がいまだよくわからぬまま、「なまんだぶ」とはやはり言えないのは、あたりまえ。無心に「なまんだぶ」は称えられない。
 私たちの仏教をもういちど大河小説にたとえてみよう。大河小説の第二部の「大乗仏教編」からいきなり読まされてきたのではないか? そう考えたら、どうか?
 第一部の「ブッダ編」が秘されたままに、「えい、やあ!」と第二部の漢訳仏典を読まされつづけたのである。
 チンプンカンプンだったのではないのか? 主人公のAとBとCと……との関係など、第一部を知らずしてよくわからなかったと思う。理由を誰もわからぬままに、「考えるな!」「ひたすら座れ!」「念仏を称えろ!」と教えられてきたのだと思う。
 第一部と第二部をていねいに統合させていって、第三部をこれからみんなでつくっていかなければならないのだと思う。そう思うまでになった。
 そういう歴史的な制約がありながらも、親鸞はスゴイとしだいに思うようになってきた。ブッダを知らないのに、ブッダの治療法へ親鸞は至ったのではないか――。
 そして、そう実感しながら、私も毎朝、「なまんだぶ」と口にするようになってきたのである。
 もちろん無教会派のひとりの仏教徒として、であるが――。
 親鸞がおもしろいのは、当時の歴史の現場に立っていることである。そして、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(「唯信鈔文意」)という実感が親鸞に湧いたんだと思う(これを書くのが親鸞85歳の、最晩年だ)。
 漁師。行商人。狩人。差別されていた。
 武士も差別されていた。
 癩者もいた。
 そういうひとのことを当時悪人と言ったんだ。
 「戒律を守ってみよう」なんて思うはずがない。他力以外にありえない。そういう小さくされたひとのことを悪人と呼んだのだ。
 その膨大な悪人を救うという一点で突破する。まず一点でブレイクスルーするんだ。結果的に生きとし生けるもののすべてを救う。何万年かかってもやるんだ。そこにブッダが生きていたんだ。そう気づいた。
 「あっ!」と思った。「イエスといっしょ」と思った。親鸞はイエスと同じ境地に立ったのだ。
 涙、涙、涙の被差別民からまっ先にイエスも親鸞も救っていくのである。
 親鸞の祈りは被差別民の海の中から生まれていったのである。
 念仏者を弾圧した連中も、その悪人に最晩年に入れ、救済している。済度している。
 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)の意味がわかりはじめてきたとき、自然と「なまんだぶ」と言えるようになってきたのがおもしろい。
 「なまんだぶ」と称えるとき、親様との親密さが増し、青空が広がるのをいまここで感じる。毎日、白雲や黒雲は浮かぶ。でも、雲は消えるもの。青空から、雲を見ているだけ。親様を方便として、青空の広がりを知ることが大切なのだ。青空が実際に、いまここにある。その感じを大切にしていこう――。
 宗教は無用とするひとはそれで何も問題ない。すべて縁なのである。私には未知の世界を冒険して生きるための光になっている。
(11月6日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
感話――それぞれの話がいのちへと流れてゆく(その2)感話――それぞれの話がいのちへと流れてゆく(その2)
 毎月毎月、講座や例会を開くことができている。
 ありがたい。
 それは、改めて言うまでもなく、話し手があって、聞き手(参加者)があって、成立している。
 そして、そういう論楽社を遠くで見守ってくれているひと―見守り手―たちも加勢され、成立している。
 次のようなハガキが届く。うれしい。
 「『言葉のパス』の試みということで、ご期待申し上げます。これは言葉を豊かにしていく挑戦でありましょう。(略)豊かな言葉が交わされ、関係性が回復し、社会の破れ目がつづられる、その確実な第一歩に、この度の会はなるのだと思います。」
 手書きの、読みにくい私のチラシのFAXに、「社会の破れ目が…」に反応。涙が出る。ありがたいひと。まるで安江良介さんのように、人間の精神への信頼が厚いひと。ありがとう。
 こういうひとたちのおかげで、成立しているのである。
 話し手も聞き手も見守り手も、諸仏のひとりずつなのである。そう思っている。
 互いに「人間に生まれてきてよかったなあ」ということを示しあっていこう。
 みんな、それぞれ「自己」を生きねばならない。屁ひとつだって、貸し借りができない。
 その「自己」を開いていこう。生きのびて、開いてつながっていけば、「ああ、生まれてよかった」と思えるのではないか。
 そう思う10月例会だった。
 ありがたかった。
 ありがとう。

 さてさて、11月は遠くメキシコからオルギンさんが来る。森林農法の「講座」。
 12月は大石順教さんについての話。両手がない仏者の「講座」。
 新しく出会っていこう。ワシらがいまここで立っている場所(トポス)を浄土にしてゆこう。

 そう、そう。10月例会のあと、掃除していて玄関のカンパ箱を見たら、3000円が入っていた。10月例会のどなたかからだ。どなたかわからねども、ありがとうね――。
 じゃあ、またね。お大切に――。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第122回)地雷――生きとし生けるものが幸せでありますように、苦しみから解放されますように
 「あーあ、まだまだ未熟もんなんや」と思う。
 詳しくは書けない。デッサンだけ、少し、描く。
 あるひとが、突然に、強烈なネガティヴ・エナジーを発し始める。そんなことがあった。
 そのひとの内部で長い年月かけ、独特のアディクション(addiction、中毒のような傾倒)が醸し出される。
 その執着。むさぼり。怒り。そして、その表出。
 最初、「おいおい」と驚く。「アホか」とも思う。しまいには「いいかげんにしいや」「何をやってるのや」と立腹してしまったのや、と思っている。
 つまり、内面化してしまったんだ。
 失敗した。
 人生は不如意。皆苦。生きるということは私の思い通りには行かないということ。
 私は自分の人生で、身に沁みている。
 なのに、そのひとが自らの息苦しさを暴発させようとするとき、私は知恵を働かせなかった。慈悲を発動させなかった。私とそのひととの距離を埋めることができなかったんだ――。
 悪かったな、と思う。
 そう、いま、思っている。
 そのことが、ときどき、ふと気になる。
 チラリと、チクリと刺さっているトゲのように感じる。
 トゲは抜きたい。内面化してしまったトゲを抜きたい。
 わが身の愚かさ、頼りなさを見つめて、納得していこう。
 それができれば、目に見えない大きな力にゆだねる心も、もっともっと湧こう。
 こんなことを知った(偶然手にした東本願寺の『同朋新聞』2014年9月、10月号)。東ティモールのひとたちのことだ。
 映画『カンタ! ティモール』(広田奈津子監督)、私はまだ見ていない。見たいと思っている。
 その映画の中で、こんな歌がうたわれるとか……。

  ねえみんな
  ねえ友人たち
  僕らのあやまちを大地は見ているよ
  小さな者たちを言葉が惑(まど)わす
  大きな者を追って踏み外しちゃいけない
  足は大地についている
  もう指導者はいらない

 東ティモール。武力併合しようとしたインドネシア軍によって、人口の3分の1が殺されたのである。
 それでもなお、「彼らのあやまち」「やつらのあやまち」と言わない。「僕らのあやまち」と言う。
 あなたのあやまちは、私のあやまちなんだ。
 なんという品性の高さ!
 相手に仕返しをしたら、それは自分にやることと同じなんだ。
 復讐せずに立ち向かい、捕らえたインドネシア兵を生きたまま帰している。「やめろ!」と説得し、ついに撤退させる。
 スゴイ。
 水を送りつづけてくれる山。食べものを恵んでくれる大地。それらは神。それらを人生の中心に置いて、先祖の眠る大地をただ守るために、武力攻撃に体を張っていたのである。
 ああ、なんという魂の深さだ――。
 また、こんなことも知った(これまた偶然手にした『サンガ ジャパン』18号、2014年9月)。
 カンボジアのマハ・ゴサナンダ(Maha Ghosananda 1929〜2007)。不覚にも、私はこのひとを知らなかった。ふと手にした冊子で、ふと目にしたコトバ。気品のある顔写真。

  カンボジアの苦しみは深い
  その苦しみから大きな慈悲が生まれるのです
                 ――マハ・ゴサナンダ

 ポル・ポト政権の自国民へのジェノサイド。人口の5分の1、4分の1を殺す。とんでもない。ムチャクチャな破局。
 僧侶マハ・ゴサナンダさんも姪の2人を除くすべての親族が死に絶えてしまった。
 それでもしっかりと慈悲と許しをマハ・ゴサナンダさんは説く。
 「この地雷をよく見なさい。これがここにあるのは、私たちの心の中に地雷があるからです。心の中に地雷があるから、心の外にも地雷があるのです。(略)心の中に地雷を持たずに歩き続けなさい。心の地雷は、(1)憎しみ、(2)むさぼり、(3)妄想です。(略)寛大な心を大きく育てていくことです。そして慈しみによって、憎しみの地雷を取り除きます。そうして、寛大さ、慈しみ、哀れみでわたしたちの心の中を満たすと、その安らかさは外にもあらわれて広がっていくのです。」
 うーん。身に沁みる。
 スゴイ。
 憎しみは憎しみによって消えることは全くないんだ。
 もう、明快に、自らが寺となって、対応していこう。
 そのひとの吐く、真っ黒なネガティヴな煙を私も吸おう。
 吸って、私のほうから、黄金の煙にして、そのひとへ差し出そう。
 そんな瞑想を毎日やってみよう。
 そのひとの苦しみが解かれますように。そのひとが幸せになりますように。
 私も内面化してしまった苦しみから解放されますように。私が幸せになりますように。
(10月30日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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