論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第146回)現場へ
 4月の上旬に、岡山の長島愛生園へ行ってきた。私にとって、大切な現場だ。今回も現場に照らされる体験を持った。
 なたね梅雨の、春の雨の2日間。対岸の小豆島は、靄(もや)で霞んで見えない。
 桜、れんぎょう、さつき、木蓮、山吹、桃が咲く。いっしょに行った明子とはゆったりと花見。
 初めて行った明子には、愛生園のある地名の「虫明(むしあげ)」が心に残ったようだった。たしかにおもしろい地名だなあ。
 2年ぶりだった。縁あって出会ったひとびとは、人生のラスト・ステージに立っていた。ハンセン病を得て――病いを得たら、「たいへんですね」とふつうは声をかけられるのに逆に――、とてつもない侮辱をうけてきた。ツバを吐きかけられながら、90歳まで生きのびた。これは、奇跡なのだと思う。
 通常人の何倍もの労苦を経て、乗りこえてきたのだ。
 やっぱ、祝賀すべきなのだと、改めて思う。
 金泰九(キム・テグ)さん、宇佐美治さん、阿部はじめさん+北島かね子さんの4人に会ってきた。その近況だ。
 金さん。89歳。指も、足も不自由に。目も、けっこう不自由。全体としての身体反応が遅くなっている。けれども、私たちの結婚を祝ってくれた。ゆっくりと祝ってくれた。うれしい。
 宇佐美さん。89歳。私を「親しいひと」とわかってくれるけど、具体的に誰かと認知できない。「難波(なんば)さんかと思った」と宇佐美さん。講演会などの外出時に介護役で同行していた難波さんに間違えてる。そして、急に「さあ、戻らんといかん」とあわてる。全体として、小さくなってしまい、体が三分の二になった宇佐美さん。さみしいな。
 阿部さん+北島さん。大動脈瘤(りゅう)の手術から回復した阿部さん。91歳。少しずつ明るくなっていく感じがある。妻の北島さんのやさしい明るさが伝播(ぱ)しているのか。「夫婦の会話が健康にいいんでしょうね」と私。北島さんは「そんなん、わかりません。フウフ、ふうふ、フウフウ、ふうふうと言って、暮らしとります(笑)」。私たちの結婚も祝っていただいた。ありがたい。
 「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ、何処にも光がない」という愛生園の明石海人(1901〜39)の言葉は、いまもハンセン病回復者を励まし、私たちをもしっかりと励ます。
 とくに金さんたちは、生きて、生きて90歳まで辿り着いたのである。自らの内部に火を灯(とも)しながら、「ふうふう」と言って、登ってきたのである。
 いろんなひとに、いまからでも愛生園へ行ってほしいと願う。
 長老たちが生きている間に、会っていってほしいと思う。
 「近くに来たもんで、ちょっと寄ってみました」なんて言って、訪ねてほしいと想う。
 以上のことを切に願った――。
 もうひとつ、思ったことがある。書いてみる。
 私が足を運んでいない2年間で、新しく建てた建造物が2つもあって、職員のひとたちが出入りしていた。「何の建物か?!」という疑問を私はかかえ眺めていた。
 樹を切っていたのも、びっくりしていた。「何でいまここの樹を切るの!?」と思ってしまうのである。
 奇妙な感じが突然湧く。
 愛生園という存在が、もういまや宇佐美さん、阿部さんの手を離れてしまい、職員たちの仕事場でしかないのではないか。
 そんな我ながら奇怪な感慨である。
 「入所者ゼロの日」。いつか、必ずやってくる。奇妙でシュールな日。その日も、「職場としての愛生園」に就職したひとたちは新改築した建物から日常業務をこなしに動いている。それはそれでいいのだけど、「愛生園は本当にそれでいいのか」という思いが湧いてくるのである。
 愛生園の少年舎や愛生学園があった所を奥へ登っていく道を相愛(そうあい)の道と呼んでいた。牛や豚を飼ったり、小さいながら新田開発していた道だ。戦時期を想起される道である。
 その道に看板が新しく立てられ、説明書きがあって、「相愛の磯まで1キロメートル」とある。行ってみることにした。半世紀以上前の、食料増産時の愛生園の姿が偲ばれる道だ。
 その道沿いにゴミがじゃんじゃん捨てられてある。不朽のプラスチックのゴミが残ってる。何か、怒りのようなものを感じるほどに捨てられて、まるで「目に見える放射能」のように、いまもある。
 底知れぬ、激しい怒り。
 「こんな所にいられるか!」という感情。
 消え去らない怒り。
 愛生園は深い。わかったつもりでいたら、何も見えない。新しい実相を示して愛生園が迫ってきた。
(4月16日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第145回)カンボジア(後編)
 1975年にベトナムは自力で米国軍すべてを撤退させた。それまで大言壮語していた最強軍が、民族自決のベトナム軍によって敗北させられたのである。
 その同じ年、隣国カンボジアではロン・ノル軍部政権が倒れた。米軍のパペット(あやつり人形)のロン・ノルが消えるのは、自然。カンボジアのひとびともホッとしたはず。
 ところが、その軍事パペット政権に代わったのが、摩訶(まか)不思議な軍事独裁政権。
 「米軍からの解放」を喜んだのもつかの間、首都プノンペンから地方の農村へ、なんと全員を強制移住させるのである。その命令は強硬。手術後の入院患者でさえ、徒歩で移動させた。逆らう者のすべてが銃殺された。
 市場も貨幣も廃止され、都市生活も近代文明も否定される。家族も大人たちもメガネのインテリも否定される。従来の思想に「毒されていない」子どもが大人を管理すべきであるとされる。共産党(「組織」をカンボジア語で「オンカー」と言うので、以下「オンカー」とする)の教育を受けた子どもに村々を管理させるのである。子どもが両親を密告し、隣人同士が密告しあい、互いに棍棒で殴り殺されていったのであった。
 その軍事政権はクメール・ルージュ、民主カンボジアという。当時中国は文化大革命派が内戦を仕掛けていた。内戦の犠牲者が2000万人(ある説によると)。その文革派の影響を受け、支援も受け、農民中心の国家を目指したのであろうが、やってることの実態は執着の極み。狂気である。都市の暮らしでちょっとオシャレを――小市民の喜びのすべてを「反革命的」として殺してしまうのであるから、ムチャクチャ。
 オンカー、オンカーと呼ばれる党組織。極端な秘密主義と机上の子どもぽい空論から下してくるオンカーの命令。それに、ほんの少しでも不満や反発を持つひとは、次の日から村に姿はない。思想恐怖政治の極み。その死者の数は当時のカンボジア国民の5人に1人の、150万人と言われる。
 その政権が1979年に崩壊。ただし、1991年のカンボジア和平パリ協定調印までの12年間も、内戦が続くのである。三派が生きのびたのは、欧米、日本、中国の支援だった。
 その間に、よくわからなかったとはいえ、民主カンボ(プ)チア三派へ、私は送金してしまったのであった。わずかとはいえ、私は私で恐怖した。当時「ベトナム憎し」の米国や中国の意思はきわめて強く、謀略戦・情報戦を展開していた。それは現在でも全く同じように、CIAその他の連中も蠢(うごめ)いているにちがいないのである。撹(かく)乱させる謀略戦だ。
 その後、マハ・ゴサナンダ(Maha Ghosananda、1929〜2007)というひとを知った。その活動を知って、目を見張った。「会いたかった」と思った。
 カンボジアは仏教への信仰の厚さで有名。いまここをほほえむ表情で知られていた。
 ところが、僧侶は「社会の寄生虫」として蔑まれ、強制還俗させられた。経典は焼かれ、寺は壊されていったのである。仏教は徹底的に破壊つくされていたのか、もう消えたのかに思われた。
 ところが、マハ・ゴサナンダがいた。姪二人だけを除いて親兄弟姉妹のすべてが死に絶えていた。そのゴサナンダが虐殺から逃れた僧侶の1人として、タイ国境の難民キャンプに1978年の終わりに立ったのである。
 サフラン色の袈裟(けさ)をもっと見ようと、ひとびとは興奮してゴサナンダに走り寄ってきた。4年間禁止されていた「仏法に帰依する者の象徴」の袈裟だ。ただし、辛い記憶によって、様子をうかがっていたという感じ。
 ゴサナンダは頭陀袋から、よれた紙の束を取り出し、難民たちひとりひとりにていねいにおじぎして、手渡していったのである。メッタ・スータ(慈経)のコピー。慈悲と許しを説くお経。
 難民たちは大声で泣き叫びながら、ひざまずいて大地にひれ伏したと聞く。味わった巨大な悲苦がそれ以上の巨大な慈悲に溶け合ったのである。

 「クメール・ルージュは仏教を殺せると思いました。でも、仏教が死ぬはずがない。」
 「カンボジアの苦しみは深い。その苦しみから大きな慈悲が生まれるのです。」
 「この地雷をよく見なさい。これがここにあるのは、私たちの心中に地雷があるからです。心の外にも地雷があるのです。」
 「ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。一歩一歩が瞑想です。一歩一歩が祈りです。」

 『微笑みの祈り――智慧と慈悲の瞑想』(春秋社、1997年)を読んだ。これらの一行一行がしみわたった。
 恨みを持って、当然。なのに、その恨みを捨てていったのである。その見本がゴサナンダ。ゴサナンダが全身で表出して、カンボジア国内を歩きに歩いたのである。「憎しみの地雷」をカンボジアのひとびとの心から取り除いたのである。生きのびる希望を見つけ出していったのである。
 そして、いま、「カンボジア人が無知だった」「仏教の外側だけをまね、ブッダの教えが心の中に浸透してはいなかったのでは」(ゴサナンダの弟子の発言)と反省し、発展させていっている。
 「日本はどうなんだ!?」「心の中に浸透しているのか!?」と思ってしまう。もしも日本にブッダの教えを生きているひとがいるならば、いま、動かざるを得ないのではないのか。
(4月9日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第144回)カンボジア(前編)
 1987年8月に「講座・言葉を紡ぐ」を始めた。
 きっかけは、私のミスである。
 どういうミスか――。
 1980年代前半の当時、京都に「カンボジア難民救援会」があって、活発に活動していた。
 日曜日ごとに四条大橋に立って、「カンボジア難民を救おう」と学生や主婦が声を出していた。制服姿のノートルダム女学院や聖母学院の生徒たちも四条大橋で通行人に声をかけていたのである。
 その活動の中心人物は、Oさん夫婦。その夫は当時同志社大学の教師。
 当時論楽社は(左京区)北白川にあった。ホームスクール(家庭学校)を始めていた。宮沢賢治の『ツェねずみ』『クねずみ』を劇にし、ちょっとだけ成功(北白川幼稚園の大部屋を超満員にするという程度だけども)。その収益金8万円を、私の判断で「カンボジア難民救援会」へ送ってしまった。
 「難民」のタイ国境のキャンプから、ある日、礼状が来た。
 うれしい。でも、何かが、変。その手紙そのものが奇怪。よくよく見ると、同じ内容。それが30通もある。手なれた大人が、さささっと綴っただけ。「えっ!?」という手紙だ。
 手紙も書けない環境なのか。あるいは、適当で、いい加減な方針なのか。とにかく「なんだ! これ?」という感じだった。
 そのうちに、その難民キャンプが民主カンプチア三派だとわかってくる。つまり、大虐殺のポル・ポト派。王党のシアヌーク派。米軍(軍部)の残党ソン・サン派。ただ反・ベトナム(ベトナム憎し)で野合した三派のこと。この三派を、日本も米国も中国も、国連も承認していた。
 当時はカンボジアの国土のほとんどがベトナム派が掌握。駆逐された三派がタイ国境において、ポル・ポト軍の虐殺から逃れた住民たちを、まるで人質のようにして、ポル・ポト軍が立て籠って、無理やりに「国家」に仕立てている感じであった。
 その民主カンプチア三派を、わずか8万円とはいえ、支援してしまったのである。
 ポル・ポト軍による大虐殺がおきていることをちゃんと認識しておりながら、確認を厳しくチェックできずに、なんと子どもたちの劇のお金をポル・ポト派に結果的に渡していたのだ。
 そのことを知って、子どもたちに「悪かった」と表明し、参加者たちにも説明文を配布した。「申し訳がない」とあやまった。
 4、5人の友人と「カンボジアを考える会」をつくって、「おかしいんじゃないの?」と声を出した。いろいろと調べると、Oさんはポル・ポト派の有力な支援者。Oさんたち西側先進国の支援によって、ポル・ポト派は生きのびている――という状況が伝わり、私はゾオッとした。謀略だったのである。
 当時の新聞各紙は「カンボジア難民を救え!」と連日報道していた。だからこそ、制服姿の女子高生も四条大橋に立って、声をからしていたのだ。
 そういうもろもろの善意が、地獄を深めていったのである。内戦を激化させていったのだ。
 「新聞はほんとうのことを伝えない」ことは身にしみているのに、再び「新聞がこう書いているんだから」と安易に、身をまかしてしまったのである。必要な情報が切断されているのである。
 自分でちゃんと確かめながら生きていかないとと思った。「情愛のある知らせが断たれている」「情断なんて冗談じゃねえ」と痛切に泣き笑ったのであった。
 その後、縁あって、岩倉へ移舎。そして、意を決して、「講座・言葉を紡ぐ」を始めることにした。
 生きた現場に立つひとの、生きている言葉を、チャルカ(糸車)を回して糸を紡ぐように、紡ぐのである。そういう言葉に出会いたいのである。処理された情報は、もう、いい。
 無明とは、わかったことにしている暗さ。思い込んでしまっている闇。
 それが私。
 1993年に島田等さんの縁で中村哲さんに出会ったときは、最初は申し訳ないけど、疑ってかかった。哲さんが人件費を募金からとっていないことがわかって、「スゴイ」と思った。あとは自らの直観だ。「哲さんで行こう」と思った。
 でも、そう思わせたのは、「カンボジア難民救援会」。
(4月2日、次号にて完結)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
潰れるなよ
 2015年分の会費、募ります。
 ひとくち1000円です。
 「潰れるなよ!」とばかりに、ドカーンと送っていただければ、うれしいです。

  論楽社 郵便振込口座 01060-0-33737

 「講座・言葉を紡ぐ」は99回目が中村哲さん、100回目が森崎和江さん。吉永小百合さん、A・ビナードさんと続き、114回目が大石順教さん、菅野正巳さん。115回目が里みち子さん。
 「月例会」も、270回を数えます。
 まるで月刊誌を発刊するように、毎月毎月運営できています。
 これらの運営は、みなさんの参加費と、この会費によってのみ、行われています。どこからかの補助金があるわけでもありません。
 内発的な支えを、本年2015年もドドーンとお願いいたします。
 氏名、住所、電話番号を明記し、郵便局から振込みください。
 ときどき、不定期に、私のほうから通信(いまどき、手書きチラシや手書きエッセイにプリントなど)をお送りしますね。「読みにくい」というウワサの私の手書きの丸文字の通信です。
 もちろん、この「ほっとニュース」で、論楽社の動きや流れはつかめます。「ほっとニュース」で十分。読んでいただいて、ありがたい。
 でも、会員になって、直接的に具体的応援することも、よかったら、お考えください。
 論楽社の会費のこと、思いのほかにご存知のないひとが多いので、書きました。
 まあ、よろしかったら、ほんの少し、お願いします。
| 虫賀宗博 | 会費の呼びかけ | 06:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ユーモア
 「楽しい論楽社のホームスクール(家庭学校)」を私は目指している。
 教育行政について、文句がある。批判がある。でも、たとえ理屈をいくらこねてみても、その学校へ通っている子どもたちが現前にいるのである。
 現実が砂漠とする。「砂漠を緑化するために、こうしよう」と呼びかけるのも必要。でも、いまの子どもにもっと必要なのは、水。生々とした水。「水よりもおいしい飲みものはない」というように、ゴクゴクと飲んでもらおうと、私は心がけている。
 学校が終わってから、来てくれるのである。「よく来たね」「いらっしゃい」と迎え、「きょうもよく来てくれたねえ」「また来週ね」と別れたい。
 生きものどうしの挨拶。いまここで生きてることを喜びたい。挨拶としての言葉を交わしたい。それが、水だ。ゴクゴク水だ。水を飲んでいってほしいと思っている。
 具体的にはなるべく笑ってもらえるようにする。何気ない対話の、何気ない問答において、なるべくクスクスとほほえむことを即興で入れてみる。ダジャレは子どもを疲れさせる。笑いのための笑いでない。子どもがAと言う。「そう、Aなんだ」という返答がユーモア――人間喜劇なんだ――の回路をくぐってゆけば、それでいい。受容してゆけば、いい。「そうか、Aだね」という肯定がしずかな微笑を生むものなのだ。小さな、おだやかなほほえみを、滑稽を大切にしてゆきたい。
 本気でユーモアの態度で接していけば、本気で受容してゆけば、点数だって、80、90…とふしぎに採れるものなのである。
 入試なんか、一人たりと失敗しないのである。
 もういちど言おう。滑稽、挨拶、即興。この3つを大切にして、子どもを支えるのである。
 そう考えれば、ホームスクールは進学塾でもない(進学はできるけど)、補習塾でもない(学びはちゃんとやるけど)。人間塾なんだ。私も学び、子どもも学ぶ「人間についての塾(スクール)」なんだ。どこにもない塾なのである。「いちど見学してみて」と思っている。
 いま、中学生・高校生・大学生が来ている。――なぜか大学生が来て、「教えてくれ」と。いま、「水俣病」「ハンセン病」「沖縄(主に阿波根昌鴻)」について集中講義している。人間存在を語っている。
 小学生、中学生、高校生の新しいひとの参加を待っている。新しいメンバー、参加してほしい。
 電話ください(週日、時間、回数はいくらも相談できます)。それに、桂教室は終わりました。関口靖章・香奈恵さん、ありがとうございました。
 ところで、ある日、ホームスクールの卒業生(OB)が宅急便を配達に来てくれて、「びっくりうれし」だった。
 男兄弟3人が参加してくれていた「S三兄弟」の長男。「おしょう」と呼ばれていたひと。その彼が荷物を運んできてくれるのである。
 いま、もう40歳かな。22年ぶりの再会だ。なんとも言えず、うれしく、なつかしく再会した。
 「人生の親戚」なんだ。彼は。
 そう思った。
 論楽社ホームスクールは、そんな場所。出会いと育ちの場所。


岩倉チラシ
(チラシの画像をクリックすると大きく表示されます)
| 虫賀宗博 | ホームスクール | 06:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第143回)歴史の種子
 八紘一宇(世界ぜんたいが本来は一つということ)。王道楽土。五族共和。
 これらの用語は、ご存知のように「大東亜戦争」(当時)のスローガン。プロパガンダ。
 これらが本当であったら、どうなっていったか。ホントだったら、どうか。ちょっと想像してみようか――。
 欧米列強の植民地支配からアジアを解放。それぞれの民族がそれぞれに独立。中国、朝鮮(もちろん統一)、チベット、ウイグル、フィリピン、ベトナム、インド、インドネシア……と。それぞれがそれぞれに交流交易し繁栄していく。欧米各国はしだいに恥じ入る。「こんな立派な国々を武力侵略してしまったこと」に。アジア各国の繁栄する姿に、自らの帝国主義を脱皮させ、世界から植民地やドレイ(的状況)が消え去っていく――。
 これは夢の夢でしかない。
 「近代の超克」(座談会)は机上の空論でしかなかったのである。
 事実として、ひとつでも、旧満州において、「五族共和」や「王道楽土」の実現があれば、よかった。でも、そんな話、私は知らない。聞いたことがない。
 「ない」ことを「ある」として聞こえることを、幻聴という。「ない」ものが「ある」として見えることを、幻覚という。「八紘一宇」は虚偽だったのである。
 なのに、幻聴を聞き、幻覚を見る政治家がいまだに後を絶たない。幻覚を見るひとたちに限って、「植民地支配には良い面もあった」「日本も鉄道やダム、道路や港をつくった」と発言する。戦後70年繰り返されてきている。これらの発語を、妄言という。
 植民地支配とは、そういうものだ。鉄鉱石や石炭を収奪するために、最低限の設備投資をまずやるものだ。それだけのことだ。自らの私欲のためにやったことを、いまだに言うなんて。なんというシミッタレ。
 ところが、いま、知りはじめている。当時の日本人の中にも全くの例外的に、「同じ目線で日常的に生きたひと」がほんの少しいたということにびっくりしている。
 たとえば、宮崎滔天(とうてん、1871〜1922)のように、孫文の革命を深く支援したひとが、いたんだ。
 滔天の『三十三年の夢』(平凡社・東洋文庫)の種を育ててゆきたい。日本の近代史では、この種がひとつ、コロンと目前にあるだけ。「日本人も中国人も同じ人間」という熱い視線がなければ、発芽はしない。発芽させていけば、win-winという関係が東アジアで生まれてゆく。そう思わせる滔天だ。
 たとえば、映画『KANO(カノ)――1931海の向こうの甲子園』(台湾、マー・ジーシアン監督、2014年)を見た。びっくりした。この映画にも種が一つあった。
 台湾側から見た「対等な目線」がテーマ。
 日本の植民地統治下の台湾。その南部の嘉義(チアイ―、かぎ)という町。その嘉義農林(略して嘉農)の野球部が、いままでひとつも試合に勝ったことがなかったのに、急に連戦連勝しはじめ、甲子園大会に初出場し、なんと準優勝までしたのである。1931年のこと。
 なんで、こんな奇跡が起きたのか。
 ある日本人監督が奇跡を起こすのだが、理由が2つある。1つは、この日本人にふしぎと民族的な偏見(先入観)がなかったこと。体育会系のオッサンなのに、「台湾人(漢人)は打撃力がある、台湾先(原)住民は足が速い、日本人は守備に長じている」と見抜いて、混成チームをつくっていったこと。部員たちをわが子のように面倒見ていき、信頼が生まれていったこと。対等な目線がすべて。
 2つ目は、身体性。泥のこと。土のこと。部員が初めて甲子園の黒い土を手にし、びっくり。監督が土をひとつかみし、自らの白いシャツにつけ、「土は土だ、台湾の土と変わらん」と一喝。嘉義の白い粘土の泥のグランドでの猛練習を想起し、ふんばっていく。小さな差異は、乗り越えられ、通じ合えるのである。象徴的。土は土なんだ。大地に立つ。そのことによって、すべてが対等。差別ではないんだ。
 投げる。打つ。走る。単純なスポーツ。その単純だけど、趣きのある身体性。それらに呼び起こされるように成立した平等性。奇跡のような種があったのだ。
 それとほぼ同時代の1930年の霧社事件。侮辱された台湾先住民が蜂起。日本人134人が殺された。日本人警官たちの「上から目線」が引火させたこと。もちろん忘れてはいけない事実。
 歴史は種。種をどう育てるか。それは私たちにかかっている。
(3月26日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
三たび感話――中つ火(セントラル・ファイア)の回りへ、ようこそ、ようこそ
 論楽社を始め、はや、34年。
 〈問題〉の現場に立っている(あるいは、そういう思いを持つ)ひとを招いて、語っていただいている。
 〈問題〉とは、問い。大切なのは、その問いだ。問いかけだ。
 その問いによって、鍛えられる。育てられる。
 解決を目指すけれども、容易ではない。
 けれども、その問いを保って、努力している間に、知恵が湧きあがってくる。
 問いを大切にしたい――。
 以上の手作業を毎月毎月、行っている。
 それが、論楽社の講座であり、月例会である。
 その講座も月例会も、話し手がいて、聞き手がいる。
 両者があって、初めて成り立つ。
 話し手はもちろん、あるときから、聞き手も「諸仏なんだ」と思うようになった。
 私たちの前には苦がある。その苦に敏感に反応し、その苦を「苦ではないもの」に変化(へんげ)させてしまおうと、ともに努力する「諸仏」。
 その「諸仏」に、いまここでいちばん感じ入っていることを話してもらいたい。言葉を紡ぎたい。そうお願いする「感話」。その3回目が、3月29日(日)に――。
 その日、もしもポオッと空白の日ならば、岩倉へ足を運んでやってください(ただし、要申し込みを、TELを)。
     2015年3月例会
 3月29日(日)、午後2時〜4時半。論楽社(京都市左京区岩倉中在地町148、TEL075-711-0334)。
 テーマは、「感話――いまここで私は何を感じているのか?」。
 次の3人のひとに、語っていただく(アイウエオ順)。
  杏さだ子さん(左京区吉田、竹内浩三の生の証を語る――竹内浩三は「戦死やあわれ(略)とひょんと死ぬるや」と詩(うた)ったように、23歳でフィリピンにて戦死)
  落合祥堯さん(左京区一乗寺、長年の編集者生活を経て、心の底・耳の底に留まった言葉の数々について語る)
  岸野亮哉さん(左京区岩倉、秘密保護法に抗議するために四条大橋に立ち、被災地の岩手へ通う僧侶が語る)
 参加費1000円。
 要申し込み(論楽社と言えども、私宅なので、準備のため)。
 交流会5時〜7時半(自由参加、自由カンパ制)。
 論楽社、もっともっと脱皮してゆきたい。新しく、深く、伸びてゆきたい。しずかに、帰っていきたい。還ってゆきたい。
 場所が主人公。中つ火(セントラル・ファイア)を囲んで、車座になって、〈問い〉を語りあう。知恵を出しあう。慈悲に気づきあう。
 終わったら、ノーサイド。まとめなんか、ない。みんなで考えた後は、ひとりになる。ひとりに帰る。深呼吸し、出発しはじめる。歩き出す。
 私という人間は、そんな場所を支えている掃除係。連絡役。食事係。司会役。
 3月29日(日)、来てほしい。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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