論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第125回)本願金剛――いのちの根の声を聞く
 11月15日(土)、晴。毎日仰ぐ比叡山(848メートル)に、明子と登ることにする。
 11月5日(水)の高野山(比叡山と全く同じの848メートルだね)に引き続く、霊山である。
 朝6時45分、出発。修学院離宮の雲母(きらら)坂から登り始める。
 京都の山なんだからあたりまえのことだけれども、登り坂のいろんな所から京都盆地が見下せる。岩倉盆地が見渡せる。すると、群衆の中から親がわが子を見つけ出すかのように、自然とわが家を探し出すもんだね。おもしろいね。「ああ、岩倉病院、北山病院(論楽社のすぐ近くの精神病院)も見える」と思う。
 「この地で生息し、生活し、生かされているんだ」とも思う。
 縁があって、京都へ40年前に岐阜から出てきた。当時の私、東京や名古屋じゃ、絶対になかった。結果的に西へ、京都だったんだな。
 京都、差別と因襲の街だ。天皇制文化の本地の町だ。
 そうだけど、その地で必死に、ひょっこりひょうたん島のような小さな、小さな居場所をつくってきた街でもあるんだ。
 「ああ、第二の故郷なんだあ」とそのときに思った。そんな思いが湧いた。
 40年かあ――。
 いろんなことを思い出す。
 40年前最初に登った。同じ11月の末だ。同じ雲母坂を上って、下りた。そのとき、途中から雪が降った。登山靴じゃなかったので、雪が染みて、足の指がキンキンに凍えたことが忘れられない。下山途中からしだいに暗くなり、心も凍えていき、大声を出して気合を入れ下りたことも忘れられない。
 きょう11月15日は、のんびりとゆっくりと明子と登る。
 おもしろいことに気づく。ランニングして登っているひとがけっこう多い。京大柔道部を始め、軽装でみんな走っている。走って登り、走って下るのである。「下るとき、滑って、けがをしないのか」と思ったりする。私は山の霊力を見て、聞いて、味わって登るのがいい。ま、好みやけどね。
 マウンテンバイクで上ってきているひとにも会った。そのひと、良くない気を出していたな。ま、自由やけど。自転車やバイクで山に入るのは禁止してほしいな。
 モミジ、ケヤキ、シデなどの広葉樹林の紅葉黄葉は散り初め。赤の明度も高い。いまをさかんに燃えてる。
 秋の日差しの木もれ陽もやわらかい。やさしい。
 コゲラ(キツツキ)がドラミングを深く響かせている。鳥が多いね。
 9時20分に、ケーブルの比叡駅に出る。もう、登りはない。小休止。
 京都盆地を改めて一望する。朝日に盆地も青空ものんびりと輝いている。
 そして、少し下って延暦寺へ入る。
 東塔と西塔の堂塔をのんびりと回る。4時間半かけて、見る。
 とりわけ、「親鸞聖人修行の地」と記してある碑と同じく「法然上人修行の地」と記された碑に、頭を下げた。
 少しずつ、少しずつ、信心(しんじん)というものに気づいてきているんだといま感じている。
 最近、こんな夢を見た。
 《過去のさまざまな問題がそれぞれ仏画となって、黄金色に光輝いている。その光の中、なぜか田植えが始まり、同時になぜか村祭りが始まる。知らない誰かが、「本願金剛なり!」とびっくりするくらいに大きな声で言う。「おお!」と私が答えている。その誰かの顔が、笑ってるダライ・ラマになり、笑う法然になっている》――。
 なんでダライ・ラマが出てきて、なんで日本語で「ホンガンコンゴー」と言うのか、わからない(笑)。わからないけど、俗なる私の中の、どこか聖なる部分がそんな姿になってきたのではないのか。
 私はそれを素直に受け入れる。
 本願とは、ある宗派の用語では決してない。宗教は何でもよい。いのちの根源の願い。「生きつづけよ」との声。人類生類のすべてに共通の願いである。
 その願いが、原発事故が代表するような多層危機の噴出によって、いま潰(つぶ)されようとしている。
 どんな物質主義のひとだって、気づきはじめている。
 いまが最後のチャンスではないのか。
 若狭の原発が地震で炸裂すれば、ワシらのいのちのすべてが潰される。
 たとえどんな俗なる、卑なるひとにも聖なるいのちがある。その部分を太く、ず太くしていかなきゃいかんのではないか。
 間にあうのか。
 間にあわせなきゃ、潰れる。
 潰しちゃいかん。
 本願金剛ナリ。
 そう念じて、2時半には下山を始めた。明子とともに。
(11月20日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第124回)心の障害者になるな――大石順教さんからのメッセージ
 誘われて、11月5日(水)に和歌山の九度山と高野山へ、明子と行った。
 九度山は「くどやま」と読む。高野山の手前にある。表参道の玄関口の小さな町だ。
 小さいけど、ひとびとの歩みの音を聴いてきた道が連なってあり、とってもいい。空も広くて、のびやか。
 その九度山に萱野(かやの)正巳さんがいて、「大石順教尼の記念館」を5年前から開いているから、行ってみることになったんだ。
 誘ってくれたのは、奈良の浦田幾子さん。大石順教さん(1888〜1968、以下順教さんとする)を教えてくれたのも、浦田さん。縁をつくっていただいた。ありがとう。
 実は浦田さんの夫の実家が萱野さん宅からほんの近所。5年前のあるとき、いつものように墓参りに帰ると、「記念館」が生まれている。「あれ!?」と思って、入ってみた。
 初めて順教さんの実存に出会う。
 順教さん、17歳のときに養父によって両手を日本刀で斬り落とされている。
 なのに、私などでは考えられないことに、養父を恨んでいない。全く。許しきっている。――この出発点からしてスゴイ。ひょっとして、「内的な宗教心を開花させるために養父がいて、日本刀を持たしたの?」ということかもしれないと思うほど。とにかく、スゴイ。
 「無手。無学。無財。この三つの『無』が私をしあわせにしてくれた」――と晩年の順教さんは語っている。
 無文字の順教さんは19歳のとき、カナリアがくちばしでひなに餌を与えるのを見て、両手がなくても口で筆を使えることに気づく。
 「あいうえお」から、とにかく寸暇を惜しんで、筆の練習を重ねつづける。その結果、見事な筆さばきの書が「記念館」に残る。書は心の軌跡。いかに自由であったか。
 長島愛生園の近藤宏一さん(1926〜2009)の点字舌読やハーモニカ演奏に匹敵するスゴサ。
 順教さん、身体の障害者のひとたちに、繰り返し繰り返し、「心の障害者になるな」と言いつづけたひとだった。
 まあ、希有なひとである。
 萱野さんに会った。のびやかな、オープンマインドのひと。
 「順教尼はおばあちゃんのようなもんやった、私は孫のようなもんやったなあ」と静かになつかしそうに語る。
 祖父の萱野正之助が順教さんの出家の菩提親。
 1933年高野山にて得度したのである。順教さん、45歳のとき。
 萱野さんのファミリーは、順教さんと格別の縁があったのである。
 「記念館」を辞し、高野山へ登る。
 1953年に建立された腕塚(うでづか、かないづか)に手を合わせるため。奥之院に、48年間ホルマリン漬されていた順教さんの両腕が納骨されている。
 高野山。848メートル。残念ながら、今回も足では登らない。ケーブルを使って、上がる。
 カエデ、ケヤキの葉はほぼ散っている。風はない。
 しかし、深山の濃厚な気に満ちている。山は標高ではないね。
 同行の浦田さんとゆっくりと話す。しずけさのあるひと。いっしょにいて、気持ちがいい。
 私の知らない空海(774〜835)について、ポツリポツリと教示していてくれる。
 腕塚があった。奥之院に入って比較的すぐのところ。わかりやすいところにある。
 手を合わせる。心の中でなぜか「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」が浮かんできたので唱える。
  衆生無辺誓願度
  煩悩無盡誓願断
  法門無量誓願学
  仏道無上誓願成
 弘法大師御廟に着く。浦田さん、五体投地をしている。「おおー」と思いながら、私は私でもういちど、心のなかで「四弘誓願文」を唱える。
 見上げると、月。
 十三夜の月。
 ぽっかりと浮かび、他に雲もない。音もない。
 気はあくまでも澄んでいる。
 とってもゆたかに、何かから祝福されているかのような気分に満ちる。
 《それぞれのいのちを生き抜け、いのちをやり遂げろ、それだけで祝福!》という思いに溢れる。
 順教さんからのメッセージかもしれない。
 《手があってもなくても、学があってもなくても、財があってもなくても、心の障害者にならず、いのちを祝福していこう。》
 そう思った、小さな旅。
(11月13日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第123回)親様(おやさま)――人間というものの本質に気づいていく
 何回も書いていることだが、両親が妙好人(みょうこうにん)のような念仏者だった。縁である。
 岐阜の実家の毎日の朝夕のおつとめ。鉦(かね)のチンの音(ね)。線香のにおい。「なまんだ(ん)ぶ」という父の声。
 18歳のとき家を出て京都へ行く私に、「(何かつらいことがあったら)これからは親様をたのみとしろよ」という父の言葉。
 親の、親の、親の、親の……親。つまり、人間存在の根源を「親様」と表現していたんだ。北陸東海地方ではいまでも言っている。いまは「おもしろい安心(あんじん)の言葉」と思う。
 当時の私は反発していた。納得していなかった。
 ところが、20年以上たって、私はいくら自力努力を重ねても、どうにも歯が立たないことに直面。
 そのとき、父の声が遠く聞こえてきた。親鸞の『歎異抄』を、父が音読している声がしたのである。幻聴ではなく、確かな生の声として、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」と心に響いたのである。
 父の、親の、親の、親の……親の願いの声を初めて感じたのだと思う。
 毎日毎日の念仏の時の重なりを、私は18までずっとずっと聞いていたのである。その親様――ふつうは阿弥陀仏という――が「ワシらに親様が手を合わせて拝んでおられる」「ありがたいのお、生かされているんじゃ」と父はひたすら帰依していたことの記憶の蓄積があったのである。
 私は「助けられた」と思った。無意識に「なまんだぶ」と出た。
 そこで、私は親様を発見した親鸞に再会――。
 ところが、意識すると、「なまんだぶ」とは私は言えないのである。
 東本願寺への反発は大きい。戦争責任の罪深さはいまだに深い。
 どの宗門宗派であろうがピンと来ない。ウソぽいのだ。
 そんなことよりも、私自身が納得して、「なまんだぶ」と言えないのである。それが私の最重要課題。得心し、わが人生の何たるかに納得し、死にたいのである。
 易行(いぎょう)である。ただ称名(しょうみょう)さえすれば、いいのである。そんなカンタンなことが、できないのである。
 できないので、しない。しないならしないで、そのことに納得して、死にたいのである。
 ブッダを読み、法然を読み、親鸞を読んでいった。再び20年の長い年月をかけて、読んだ。タイのワットパー・スカト―にも行ってみた。
 短く、まとめてみよう。
 法然、親鸞は龍樹以降の大乗仏教だ。
 それ以前のブッダそのものの足跡、思想のテーラワーダ(上座部)仏教は全くのところ、日本に入ってこなかった。
 ブッダは「苦しみを解く」「心の悩みを消す」という治療者マインドのひと。そういう豊かな知恵が日本には入ってこなかった。これって、カレー粉の入ってないカレーライスではなかったのか。
 そのブッダの心を直接的に知らぬまま、中国で浄土教が生まれた。カレー粉がないのに中華スープを加えたカレーライスだ。中国浄土教の思想史がいまだよくわからぬまま、「なまんだぶ」とはやはり言えないのは、あたりまえ。無心に「なまんだぶ」は称えられない。
 私たちの仏教をもういちど大河小説にたとえてみよう。大河小説の第二部の「大乗仏教編」からいきなり読まされてきたのではないか? そう考えたら、どうか?
 第一部の「ブッダ編」が秘されたままに、「えい、やあ!」と第二部の漢訳仏典を読まされつづけたのである。
 チンプンカンプンだったのではないのか? 主人公のAとBとCと……との関係など、第一部を知らずしてよくわからなかったと思う。理由を誰もわからぬままに、「考えるな!」「ひたすら座れ!」「念仏を称えろ!」と教えられてきたのだと思う。
 第一部と第二部をていねいに統合させていって、第三部をこれからみんなでつくっていかなければならないのだと思う。そう思うまでになった。
 そういう歴史的な制約がありながらも、親鸞はスゴイとしだいに思うようになってきた。ブッダを知らないのに、ブッダの治療法へ親鸞は至ったのではないか――。
 そして、そう実感しながら、私も毎朝、「なまんだぶ」と口にするようになってきたのである。
 もちろん無教会派のひとりの仏教徒として、であるが――。
 親鸞がおもしろいのは、当時の歴史の現場に立っていることである。そして、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(「唯信鈔文意」)という実感が親鸞に湧いたんだと思う(これを書くのが親鸞85歳の、最晩年だ)。
 漁師。行商人。狩人。差別されていた。
 武士も差別されていた。
 癩者もいた。
 そういうひとのことを当時悪人と言ったんだ。
 「戒律を守ってみよう」なんて思うはずがない。他力以外にありえない。そういう小さくされたひとのことを悪人と呼んだのだ。
 その膨大な悪人を救うという一点で突破する。まず一点でブレイクスルーするんだ。結果的に生きとし生けるもののすべてを救う。何万年かかってもやるんだ。そこにブッダが生きていたんだ。そう気づいた。
 「あっ!」と思った。「イエスといっしょ」と思った。親鸞はイエスと同じ境地に立ったのだ。
 涙、涙、涙の被差別民からまっ先にイエスも親鸞も救っていくのである。
 親鸞の祈りは被差別民の海の中から生まれていったのである。
 念仏者を弾圧した連中も、その悪人に最晩年に入れ、救済している。済度している。
 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)の意味がわかりはじめてきたとき、自然と「なまんだぶ」と言えるようになってきたのがおもしろい。
 「なまんだぶ」と称えるとき、親様との親密さが増し、青空が広がるのをいまここで感じる。毎日、白雲や黒雲は浮かぶ。でも、雲は消えるもの。青空から、雲を見ているだけ。親様を方便として、青空の広がりを知ることが大切なのだ。青空が実際に、いまここにある。その感じを大切にしていこう――。
 宗教は無用とするひとはそれで何も問題ない。すべて縁なのである。私には未知の世界を冒険して生きるための光になっている。
(11月6日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
感話――それぞれの話がいのちへと流れてゆく(その2)感話――それぞれの話がいのちへと流れてゆく(その2)
 毎月毎月、講座や例会を開くことができている。
 ありがたい。
 それは、改めて言うまでもなく、話し手があって、聞き手(参加者)があって、成立している。
 そして、そういう論楽社を遠くで見守ってくれているひと―見守り手―たちも加勢され、成立している。
 次のようなハガキが届く。うれしい。
 「『言葉のパス』の試みということで、ご期待申し上げます。これは言葉を豊かにしていく挑戦でありましょう。(略)豊かな言葉が交わされ、関係性が回復し、社会の破れ目がつづられる、その確実な第一歩に、この度の会はなるのだと思います。」
 手書きの、読みにくい私のチラシのFAXに、「社会の破れ目が…」に反応。涙が出る。ありがたいひと。まるで安江良介さんのように、人間の精神への信頼が厚いひと。ありがとう。
 こういうひとたちのおかげで、成立しているのである。
 話し手も聞き手も見守り手も、諸仏のひとりずつなのである。そう思っている。
 互いに「人間に生まれてきてよかったなあ」ということを示しあっていこう。
 みんな、それぞれ「自己」を生きねばならない。屁ひとつだって、貸し借りができない。
 その「自己」を開いていこう。生きのびて、開いてつながっていけば、「ああ、生まれてよかった」と思えるのではないか。
 そう思う10月例会だった。
 ありがたかった。
 ありがとう。

 さてさて、11月は遠くメキシコからオルギンさんが来る。森林農法の「講座」。
 12月は大石順教さんについての話。両手がない仏者の「講座」。
 新しく出会っていこう。ワシらがいまここで立っている場所(トポス)を浄土にしてゆこう。

 そう、そう。10月例会のあと、掃除していて玄関のカンパ箱を見たら、3000円が入っていた。10月例会のどなたかからだ。どなたかわからねども、ありがとうね――。
 じゃあ、またね。お大切に――。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第122回)地雷――生きとし生けるものが幸せでありますように、苦しみから解放されますように
 「あーあ、まだまだ未熟もんなんや」と思う。
 詳しくは書けない。デッサンだけ、少し、描く。
 あるひとが、突然に、強烈なネガティヴ・エナジーを発し始める。そんなことがあった。
 そのひとの内部で長い年月かけ、独特のアディクション(addiction、中毒のような傾倒)が醸し出される。
 その執着。むさぼり。怒り。そして、その表出。
 最初、「おいおい」と驚く。「アホか」とも思う。しまいには「いいかげんにしいや」「何をやってるのや」と立腹してしまったのや、と思っている。
 つまり、内面化してしまったんだ。
 失敗した。
 人生は不如意。皆苦。生きるということは私の思い通りには行かないということ。
 私は自分の人生で、身に沁みている。
 なのに、そのひとが自らの息苦しさを暴発させようとするとき、私は知恵を働かせなかった。慈悲を発動させなかった。私とそのひととの距離を埋めることができなかったんだ――。
 悪かったな、と思う。
 そう、いま、思っている。
 そのことが、ときどき、ふと気になる。
 チラリと、チクリと刺さっているトゲのように感じる。
 トゲは抜きたい。内面化してしまったトゲを抜きたい。
 わが身の愚かさ、頼りなさを見つめて、納得していこう。
 それができれば、目に見えない大きな力にゆだねる心も、もっともっと湧こう。
 こんなことを知った(偶然手にした東本願寺の『同朋新聞』2014年9月、10月号)。東ティモールのひとたちのことだ。
 映画『カンタ! ティモール』(広田奈津子監督)、私はまだ見ていない。見たいと思っている。
 その映画の中で、こんな歌がうたわれるとか……。

  ねえみんな
  ねえ友人たち
  僕らのあやまちを大地は見ているよ
  小さな者たちを言葉が惑(まど)わす
  大きな者を追って踏み外しちゃいけない
  足は大地についている
  もう指導者はいらない

 東ティモール。武力併合しようとしたインドネシア軍によって、人口の3分の1が殺されたのである。
 それでもなお、「彼らのあやまち」「やつらのあやまち」と言わない。「僕らのあやまち」と言う。
 あなたのあやまちは、私のあやまちなんだ。
 なんという品性の高さ!
 相手に仕返しをしたら、それは自分にやることと同じなんだ。
 復讐せずに立ち向かい、捕らえたインドネシア兵を生きたまま帰している。「やめろ!」と説得し、ついに撤退させる。
 スゴイ。
 水を送りつづけてくれる山。食べものを恵んでくれる大地。それらは神。それらを人生の中心に置いて、先祖の眠る大地をただ守るために、武力攻撃に体を張っていたのである。
 ああ、なんという魂の深さだ――。
 また、こんなことも知った(これまた偶然手にした『サンガ ジャパン』18号、2014年9月)。
 カンボジアのマハ・ゴサナンダ(Maha Ghosananda 1929〜2007)。不覚にも、私はこのひとを知らなかった。ふと手にした冊子で、ふと目にしたコトバ。気品のある顔写真。

  カンボジアの苦しみは深い
  その苦しみから大きな慈悲が生まれるのです
                 ――マハ・ゴサナンダ

 ポル・ポト政権の自国民へのジェノサイド。人口の5分の1、4分の1を殺す。とんでもない。ムチャクチャな破局。
 僧侶マハ・ゴサナンダさんも姪の2人を除くすべての親族が死に絶えてしまった。
 それでもしっかりと慈悲と許しをマハ・ゴサナンダさんは説く。
 「この地雷をよく見なさい。これがここにあるのは、私たちの心の中に地雷があるからです。心の中に地雷があるから、心の外にも地雷があるのです。(略)心の中に地雷を持たずに歩き続けなさい。心の地雷は、(1)憎しみ、(2)むさぼり、(3)妄想です。(略)寛大な心を大きく育てていくことです。そして慈しみによって、憎しみの地雷を取り除きます。そうして、寛大さ、慈しみ、哀れみでわたしたちの心の中を満たすと、その安らかさは外にもあらわれて広がっていくのです。」
 うーん。身に沁みる。
 スゴイ。
 憎しみは憎しみによって消えることは全くないんだ。
 もう、明快に、自らが寺となって、対応していこう。
 そのひとの吐く、真っ黒なネガティヴな煙を私も吸おう。
 吸って、私のほうから、黄金の煙にして、そのひとへ差し出そう。
 そんな瞑想を毎日やってみよう。
 そのひとの苦しみが解かれますように。そのひとが幸せになりますように。
 私も内面化してしまった苦しみから解放されますように。私が幸せになりますように。
(10月30日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
感話――それぞれの話がいのちへと流れてゆく(その1)
 10月例会は10月19日(日)。おだやかな秋晴れ。テーマは「感話」。
 「いまここで何を感じているのか?」。
 「それを話してもらおう」と思った。
 話すことは放つこと。パスを放ること。受けとめて、生かす能力が私たちにはあるだろう。やってみよう――。
 そう思った。
 縁あって、電話が通じた次の5人のひとに頼んでみた。
 斉村康広さん、田中武さん、寺元健二さん、永田純子さん、浜地弘子さん(アイウエオ順)。
 ありがたいな。ありがたいです。
 いただいた「感話」を順々にレポートしてみよう。
 発表順はくじ引きで決めた。
 それぞれ、感話のエッセンスを記してみよう(文責は私)。
 なお、写真は斉村康広さん。ご本人の感話のときの写真がないのが、残念。
 斉村さん、ありがとう。いつも、ありがとう。
 1番目は、田中武さん(写真1、2)。
 「私は1歳のときに東京大空襲を体験。引っ越した兵庫の尼崎でも再び空襲を体験。両親とも苦労しました。戦争はイヤです。」
 「6年前に論楽社で、『9つの鐘』を発案しました。『5月3日や8月15日の正午とかに、寺院や教会の鐘を9回鳴らそう』という思いです。9条のことを思って、です。」
 町中に村中に9つの鐘が鳴り響いてほしい。憲法の誕生日、敗戦の出発日には不戦・非戦の祈りの鐘が鳴ってほしいな。うるさいくらいに(笑)。
 2番目が。寺元健二(ポコ)さん(写真3、4)。
 「3・11直後から斎藤(洋さん)と岩手へ行ってます。もう、17、8回通ったかな……。心配しています。地元のひとたちが『そんなもん、いらん!』と反対しているのに、無視して、巨大防波堤や高速道路がどんどんつくられているからです。行政への、みんなの声が全く届かないのです。」
 「福島だって、まず最初に『新幹線は止めない』という結論があったのです。『放射線管理区域』以上の線量を計測していても、『安全だ』と言っています。政治も新聞TVも、おかしいです。なんでなんやろう。おかしいのです。」
 何百万人、何千万人というひとびとが、何かの魔力の前に、目や耳、口が潰され、隷従している姿を想像してしまうな。
 隷従してボケーッとしている間に福井・若狭に地震が炸裂しないことを祈りたい。
 3番目は。斉村康広さん(写真なし)。
 「(学生のときから通っている私の原点である)水俣旅行をしてきました。塩田敏夫さんたちといっしょです。チッソは『ねこ実験』をして原因が有機水銀だと明らかにわかってからも何年も何年も廃液を出しつづけていました。被害が広がっていきました。その間、患者さんたちは『奇病』とか言われ、差別され、苦しみました。
 福島だって、20年、30年にしてやっと『放射能が原因』と公認されるかもしれません。
 それまでは、どれだけ、苦しまなければならないか――と思います。」
 9条。岩手と福島。そして、水俣。パスしながら、自然に深まる「感話」。それぞれがそれぞれの人生を掘って、耕して、深めていく。すると、いのちの地下水に至る。個別的ないのちが普遍的ないのちにつながっていくのだろう。おもしろいなあ。
 4番目は、永田純子さん(写真5、6)。4時半、だんだん時間がなくなっていく。
 「今年の4月にガンを宣告されました。『余命半年』と告げられました……。なので、行ってみたかったブータンへ旅してきました。スマホとかも普及し、現代文明の荒波がやってきています。ブータンには老人ホームがありません。老人はお寺へ行って、来世の安寧を祈るという大切な仕事があります。また、『土地がない』とか生活上の不安や相談を、直接国王に訴えることができます。国王が何キロも歩いて、その相談者のところまで行って、話を聞いて、打開策をさぐります。そういう統治がブータンには在るのです。それが土台としてちゃんと存在していることが大きい。」
 永田さん、4か月ぶりに会ったけど、「目が澄んでいる」と思った。免疫力が高まり、数値もぐんぐん良くなっているとか。うれしいな。
 最後の5番目は浜地弘子さん(写真7、8)。もう5時、ますます残り時間が少なくなる。
 「右手を骨折する――という体験をしました。右の手が動かない。指も動かない。感じない。まるで『死んだ』ようです。それで、逆に『生きている』『動いている』というスゴサを感じ入りました。」
 「いま実母の介護をしていて、キリスト者で厳格な母の『弱さ』を知りました。『あっ!』と思いました。」
 「感話」のラストはいのちへ帰っていった。深まっていった。
 実におもしろい。私はそう思った。
 生かされるいのち。強さを支える弱さ。弱さを支える強さ。そのふしぎさ。
 それぞれの「感話」がつながりあっている。バラバラなのに、ひとつへ、いのちへの流れている。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第121回)ノーサイド――映画『60万回のトライ』の魅力
 ある友人から、「見てみたら。京都シネマでいまやっているよ」と言われても、結局、見ることができなかった。
 その半年後に、別の友人から、もう一度、「見てみたら。立誠シネマでいまやってるよ」と言われた。そのシネマは、元・立誠小学校の教室を利用した、たいへん小さな映画館。ラグビーシャツ着用で1000円だとのこと。
 おもろいではないか。
 2回も電話で誘われる。縁があるのだ。
 よし、行ってみることにした。
 朴思柔(パク・サユ)監督の『60万回のトライ』(コアプレス、2013年)だ。大阪・東大阪にある朝鮮高校ラグビー部の3年間のドキュメンタリー映画である。
 大阪朝鮮高級学校。略して、大阪朝高(ちょうこう、以下は朝高とするね)。そのラグビー部の物語だ。
 朝高、ラグビー界では有名。「勇気溢れるタックル」で昔から知られている。
 1952年に創立された朝高を、60年たっても日本の文部科学省はいまだに高校として認めていない。
 したがって、ラグビーの公式戦へも、長年出場すらできなかった。「出場できない(差別されている)という悔しさ」を練習試合に朝高のラガーマンはぶつけていた。練習試合が彼らにとって公式戦だったんだ。
 ラグビーは防具を付けない(高校ラグビーはヘッドキャップ、マウスピースが必要やけど)。グラウンドに立つと、正直言って「恐い」という感覚に襲われると思う。
 つくづくと「オレの身体だけを頼りに立ち向かうのだ」ということを痛感するのである。
 突進してくる相手選手の膝下に瞬間的に入り、両手で締め付け、倒す。上手なタックルを決めると、ストンと倒すことができ、思いのほか「タックルする側」も「される側」も痛くはない。ところが、そんな容易に膝下には入れない。恐怖心を消すことができないからだ。失敗すれば、救急車が呼ばれることにさえなる。それがタックル。ラグビーの華。
 ゆえに、「勇気あるタックル」を繰り返すチームや選手へは、文句なしの拍手が送られる。敵味方は関係なし。たとえチームが敗北したとしても、心の底から「よくやったぞ」と称賛される。敬意を持たれる。
 朝高は、そういうチーム。気力のチーム。
 1991年、朝高は公式戦に参加することになったのである。「例外的に」と文科省はなんと認可。多くのラグビー関係者の尽力があった。
 全国大会に2003年に初出場。
 ベスト4を二度、ベスト8を一度経験。全国制覇だって、もはや夢じゃない。強豪校であることは、間違いなし。
 その朝高のラグビー部の活躍を監督の朴さんは偶然に知る。ソウルから来て、韓国の放送局の海外レポーターとして働いていたときだ。
 そのとき、これまた偶然にも朴さんに乳ガンが発見される。
 朴さん、京都の宇治のウトロ地区(戦時期飛行場建設工事のために連行された朝鮮人たちの集落)に滞在。オモニたちの温かいご飯を食べながら、ガンの手術、抗ガン剤治療を受けることに――。
 そういう旨のナレーションが根岸季衣さんの声で入り、映画が始まるんだ。
 見始めて、すぐ気づく。この映画は「私(わたし)ドキュメンタリー映画」なのである。客観に徹するドキュメンタリー映画ではない。
 飛んできたボールに当たって、カメラがふらつく。チームのエースのCTB(センターバックス)の権裕人(コン・ユイン)にやさしくラグビー・コートをかけられ涙ぐんだりして再びカメラがゆれる。
 そんな朴さん自身の「私」をそのまま撮っている。おもしろい。
 その「私」はソウル出身で、日本の「在日」のことを知らない。日本人の多くも、「在日」のことを知らない(知ろうともしない)。
 朴さんの「私」の目線を通して、ラグビー部の選手たちの礼儀正しさやしっかりと「私」を見据えるまなざしを知っていくことになる。
 結局、あの選手、この選手のファンになっていくんだな。
 「堂々とした生きる姿」をしだいに知るからである。
 砂ぼこり舞う土のグラウンド。水道水で体を洗う姿。夏合宿での部員同士のケンカ。
 これらの風景を撮りながら、ラグビーが選手たちに示していく。そのことに気づいていく。「逃げ場のないフィールドで、生身の凡夫の人間たちがひたすらボールを追う。工夫しながら必死に、ひとりひとり勇気をもって、責任を果たす。それ以外に、チームは勝利を得られない」ということを――。
 おそらく朝高ラグビー部は日本人の2倍練習しているであろう。ラグビーを真剣にやりながらも、「無償化」を求める署名活動をしたりして、まっすぐまっすぐ、非暴力的に日本社会へ訴える。
 選手たちは生きてあるのである。
 歴史上ある帝国では、その内部にある共同体が服従し、納税すれば、自治的な諸権利をイヤイヤながらも保護してきた。
 日本は帝国ですらない。大国ではない。在日の朝鮮人に対して、日本は納税だけはさせておいて、選挙権も何も全く与えていない。朝鮮語を学ぶ権利も保証していない。ヘイトスピーチして「殺せ!」と言う連中すらを守っている。
 これでいいのか。
 『60万回のトライ』は、在日60万人の朝鮮人たちのトライという意味。「こんな日本でよいのか」と無言で日本人社会へチャレンジのボールをパスしている。
 ただパスされたそのボールを受けとろうではないか。
 日本が主体的に変わっていかねばならない。
 ノーサイドを求めよう。日本が求めよう。
(10月23日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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