論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第121回)ノーサイド――映画『60万回のトライ』の魅力
 ある友人から、「見てみたら。京都シネマでいまやっているよ」と言われても、結局、見ることができなかった。
 その半年後に、別の友人から、もう一度、「見てみたら。立誠シネマでいまやってるよ」と言われた。そのシネマは、元・立誠小学校の教室を利用した、たいへん小さな映画館。ラグビーシャツ着用で1000円だとのこと。
 おもろいではないか。
 2回も電話で誘われる。縁があるのだ。
 よし、行ってみることにした。
 朴思柔(パク・サユ)監督の『60万回のトライ』(コアプレス、2013年)だ。大阪・東大阪にある朝鮮高校ラグビー部の3年間のドキュメンタリー映画である。
 大阪朝鮮高級学校。略して、大阪朝高(ちょうこう、以下は朝高とするね)。そのラグビー部の物語だ。
 朝高、ラグビー界では有名。「勇気溢れるタックル」で昔から知られている。
 1952年に創立された朝高を、60年たっても日本の文部科学省はいまだに高校として認めていない。
 したがって、ラグビーの公式戦へも、長年出場すらできなかった。「出場できない(差別されている)という悔しさ」を練習試合に朝高のラガーマンはぶつけていた。練習試合が彼らにとって公式戦だったんだ。
 ラグビーは防具を付けない(高校ラグビーはヘッドキャップ、マウスピースが必要やけど)。グラウンドに立つと、正直言って「恐い」という感覚に襲われると思う。
 つくづくと「オレの身体だけを頼りに立ち向かうのだ」ということを痛感するのである。
 突進してくる相手選手の膝下に瞬間的に入り、両手で締め付け、倒す。上手なタックルを決めると、ストンと倒すことができ、思いのほか「タックルする側」も「される側」も痛くはない。ところが、そんな容易に膝下には入れない。恐怖心を消すことができないからだ。失敗すれば、救急車が呼ばれることにさえなる。それがタックル。ラグビーの華。
 ゆえに、「勇気あるタックル」を繰り返すチームや選手へは、文句なしの拍手が送られる。敵味方は関係なし。たとえチームが敗北したとしても、心の底から「よくやったぞ」と称賛される。敬意を持たれる。
 朝高は、そういうチーム。気力のチーム。
 1991年、朝高は公式戦に参加することになったのである。「例外的に」と文科省はなんと認可。多くのラグビー関係者の尽力があった。
 全国大会に2003年に初出場。
 ベスト4を二度、ベスト8を一度経験。全国制覇だって、もはや夢じゃない。強豪校であることは、間違いなし。
 その朝高のラグビー部の活躍を監督の朴さんは偶然に知る。ソウルから来て、韓国の放送局の海外レポーターとして働いていたときだ。
 そのとき、これまた偶然にも朴さんに乳ガンが発見される。
 朴さん、京都の宇治のウトロ地区(戦時期飛行場建設工事のために連行された朝鮮人たちの集落)に滞在。オモニたちの温かいご飯を食べながら、ガンの手術、抗ガン剤治療を受けることに――。
 そういう旨のナレーションが根岸季衣さんの声で入り、映画が始まるんだ。
 見始めて、すぐ気づく。この映画は「私(わたし)ドキュメンタリー映画」なのである。客観に徹するドキュメンタリー映画ではない。
 飛んできたボールに当たって、カメラがふらつく。チームのエースのCTB(センターバックス)の権裕人(コン・ユイン)にやさしくラグビー・コートをかけられ涙ぐんだりして再びカメラがゆれる。
 そんな朴さん自身の「私」をそのまま撮っている。おもしろい。
 その「私」はソウル出身で、日本の「在日」のことを知らない。日本人の多くも、「在日」のことを知らない(知ろうともしない)。
 朴さんの「私」の目線を通して、ラグビー部の選手たちの礼儀正しさやしっかりと「私」を見据えるまなざしを知っていくことになる。
 結局、あの選手、この選手のファンになっていくんだな。
 「堂々とした生きる姿」をしだいに知るからである。
 砂ぼこり舞う土のグラウンド。水道水で体を洗う姿。夏合宿での部員同士のケンカ。
 これらの風景を撮りながら、ラグビーが選手たちに示していく。そのことに気づいていく。「逃げ場のないフィールドで、生身の凡夫の人間たちがひたすらボールを追う。工夫しながら必死に、ひとりひとり勇気をもって、責任を果たす。それ以外に、チームは勝利を得られない」ということを――。
 おそらく朝高ラグビー部は日本人の2倍練習しているであろう。ラグビーを真剣にやりながらも、「無償化」を求める署名活動をしたりして、まっすぐまっすぐ、非暴力的に日本社会へ訴える。
 選手たちは生きてあるのである。
 歴史上ある帝国では、その内部にある共同体が服従し、納税すれば、自治的な諸権利をイヤイヤながらも保護してきた。
 日本は帝国ですらない。大国ではない。在日の朝鮮人に対して、日本は納税だけはさせておいて、選挙権も何も全く与えていない。朝鮮語を学ぶ権利も保証していない。ヘイトスピーチして「殺せ!」と言う連中すらを守っている。
 これでいいのか。
 『60万回のトライ』は、在日60万人の朝鮮人たちのトライという意味。「こんな日本でよいのか」と無言で日本人社会へチャレンジのボールをパスしている。
 ただパスされたそのボールを受けとろうではないか。
 日本が主体的に変わっていかねばならない。
 ノーサイドを求めよう。日本が求めよう。
(10月23日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第120回)課題――「最後のひとり」までという誓願
 「ちょっと会えないか?」という電話が10月10日(金)の朝、突然にあった。
 甘蔗(かんしゃ)珠恵子(たえこ)さんからだ。
 福岡の龍国寺のひと。いや、『まだ、まにあうのなら――私の書いた いちばん長い手紙』(地湧社)のひと、と言ったほうがよいかも。
 待ち合わせ場所が、「トスカ」。京大の農・理学部の門の東ヨコ(左京区北白川追分町)。オペラの「トスカ」のファンなんだ、と思って聞いてみたら、違った。姉妹の名前から付けたんだそうだ。「ともか」と「あすか」から。おもしろい。
 「トスカ」は3年前の秋にオープン。オーガニック野菜と自然調味料のレストラン。
 福島からの原発避難者が経営――とは聞いていたけど、その日、そのあたりのことが少しわかってきた。
 その両親とは、橋本宙八(ちゅうや)さん、ちあきさん。
 甘蔗さんの親しい友で、よき相談相手のよう。
 ちあきさんは他用で席を立ったので、宙八さんと話すことができた。その内容を書き留めておきたい。ほんの少しだけどね。
 心に染みたんだあ――。
 「福島県いわき市の山の中の原野を買って、家を建て、そこで暮らしてきました。原発から24キロメートルのところです。〈半断食による身心改善法〉を考案し、セミナーを開いてきました(www.macrobian.netを見てみて)。」
 「40年セミナーを開いてきて、そのまま終わるつもりでした。ところが、原発事故があって、京都へ避難してきました。」
 「京都へ来たのは、『仏像を見よ』という意味があるのではないか? そう思っています。いま、『食』は卒業し、仏教を学びたいと思っています。」
 「原発も、ガンも感染症も(これらの難題はすべて)、(仏から与えられた)課題なんですよ。すべての課題が、甘蔗さんの本のタイトルのように、『まだ、まにあうのなら』なんですね。乗りこえ、乗りこえていって、(仏の恵みが)70億人の最後のひとりまで満ちていったときこそが、その『まにあう』ときなんじゃないでしょうか?」
 宙八さん、さらっとスゴイことを言う。
 私は「いますでに聞く」という言葉を思っていた。
 「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」(三帰依文)である。「ああ、いまここで、聞いた」と思った。
 課題――なんだ。最後のひとりまで――なんだ。
 そう思った瞬間、私の中に「無量寿経」がパアッと浮かんだ。
 「無量寿経」という経典をよんだことがあるだろうか。
 そこに、世にも美しい誓いの言葉が48番連らなっている。
 その18番目の誓いが法然を変え、19番目と20番目の誓いが親鸞を変えていったのである(いまは、具体的な説明を略する)。中世末の乱世を生きた彼らはその経典を命をかけて読んでいた。
 試しに、1番目を読んでみようか。
 「設我得仏、国有地獄餓鬼畜生者、不取正覚」(『浄土三部経(上)』(岩波文庫、P.155)である。「わたくしの仏国土に、地獄や畜生、餓鬼のひとたちがいるようでしたら、悟りはいりません」(私訳)だ。
 現地球上は、わが祖国上は、地獄を生きるひと、阿修羅を生きるひとたちの山脈。そのひとりひとりの苦しみが解(ほど)けていく。最後のひとりまでが、解き放たれていく。「それまでは悟りを得ない」と仏(ブッダ)が明言するのである。けれども、現実の仏(ブッダ)は正覚を得た。「悟りを得ない」と言っているひとが、「得た」のである。ということは仏国土からいずれ必ずやひとりひとりの畜生(動物界)のひとたちが解放されていくのである。――そういう弁証法を持つ。
 膨大な時空、はるかかなたの時の流れの中で得る弁証法。「間に合うか、合わないか」を超えて成り立つのである。
 私はそう思っている。
 以上のことが、宙八さんの話に、パアッと反応した。
 私たちの課題。地震にも火山にも耐えて、核廃棄物を何年も何十万年も守りつづけていく課題。書き残し、伝えつづける課題。成功成就しかない課題。「いのちを大切に」「いのちを守れ」という誓願。最後のひとりまで救うという誓願。
 あたたかい、忘れ得ぬ仏法話に全身が呼応している。
(10月16日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 05:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第119回)アフガン戦争――ひとりの力を信じきるか
 何度も言う。大切なことは繰り返して言わねばならない。
 ひとりの力は大きい、ということ――。
 ひとりのいのちが「これは大変!」と思うことを直接100人のいのちに伝える、とする。
 その100人が友人の100人にそれぞれに伝える。間接的に10000人(1万人)に伝わるではないか。
 その100人が再び友人の100人にそれぞれに伝える。間々接的に1000000人(100万人)に伝わるではないか。
 もう1回、同じことをすれば、間々々接的になんと1億人ものひとたちへ伝播していくのである。
 スゴイことではないか。
 もちろん、現実は違う。ひとりが伝えるべきひとがひとりもいなかったり、あるいは、逆にひとりが何人ものひとを傷つけて、「マイナス力」の伝播なんて、あるだろう。
 それでも、ひとりの力は深いんだ、と言いきっていきたい。
 日本の野のチョウの羽の一振りが縁深まりインド洋の大海の大いなる風になっていくのである、と言いきりたい――。
 何を言いたいのか。
 きょう10月7日は、何の日か。アフガニスタンに米・英国が空爆を開始した日なのである。
 すでに13年の歳月が過ぎたね。
 2001年9月11日の米国中枢へのテロリズム。
 その復讐。殺された3200人の、何十倍の復讐。実際に13年かけて百倍返しの復讐を米国はやっているのである。
 それが「やっていた」に変わる。
 年内をメドにして、米国軍・EU軍はアフガニスタンから退却するのである。
 米国も日本もEUも自らは言わないけど、この退却はどう考えても、敗戦。
 米国はイラクについで、アフガニスタンでも敗北していくのである。
 アフガニスタンは19世紀にイングランドを、20世紀に旧ソ連を、そして21世紀に米国を退却させている。それぞれの最強軍を敗退させている。スゴイと思う。
 スゴイけれども、アフガニスタンとして、したくもない、しなくてもよい戦争をさせられてきただけ。毎日毎日、無人機を飛ばされ、無辜(むこ)のひとびとが数百人ずつ殺されつづけたのである。
 たしかにワシら日本人にとって遠いし、中村哲さんと縁が生まれていなければ、私だってピンと来ないと思うけども、それでも「え!? まだ戦争やってんの?」という反応はあんまり。ニュースに出ないからといって、忘れてはいけない。
 日本は後方支援してきたのだし、米軍の命令で、米軍のパシリとして戦費を出しているのである。
 そういえば、東ティモールのときも、イラク戦争のときも、やはり日本がゼニをほとんど出しているのである。
 ワシらのゼニで、アフガニスタンのひとびとは殺されているのである。
 劣化ウラン弾だって、ポンポンと撃っているのである。きっとね。
 参戦していることを忘れてはいかんと思う。そりゃ、あんまりのこと――。
 世界中にとてつもない「マイナス力」を伝播させてきたのである。
 ワシらの思考や思想も「マイナス力」によって錆(さ)びてしまったのではないか。
 自省(力)のない暴力、ゼニへの信心は恐ろしい。
 米国は13年間何をやってきたのか。日本は膨大なゼニを使って何をやっているのか。
 日本はひたすら世界最強の軍事国家を支持し、常にポチの役割を果たしてきた。勝ち馬に乗ることだけを考え、「主流」「強い側」の言い分に追随してきた。だから、日本が「名誉ある地位」を得られないし、友国がひとつもないのは、自然の理ではないか。
 ワシらひとりひとりは「世を汚してやろう」「皆殺しにしてやるぞ」と思っているわけではない。小さな、現世の幸せを求めている。
 それはそれでいいんだけど。
 でも、そのことが、すでに始まっている破局を生んでいるのではないか。
 つまり、自省力のない暴力の行使やゼニへのあくない信心を自ら疑うことなく、依然としてちょっとした幸せを求めているからではないか。
 2001年10月7日、空爆が始まったアフガニスタンで中村哲さんは誓う。「(米・英・日軍によって)何の罪もないひとたちが殺されている。復讐したい。ただし、暴力じゃない。干ばつで苦しむ大地を、緑の村を取り戻すという方法によって、復讐したい」と。水路を通し、緑の村を実際取り戻している。
 ひとりの力はかくも大きい。
 その哲さんを支えたのは、「三度のメシを家族といっしょに故郷で食いたい」という農民たちの執念である。その執念が結果として米・英・日軍を退却させたのである。
 戦争を止める方法は何か? みんながみんな、反対すれば、やめさせられるのである。
 生きる現場で「イヤだ」と言うのである。
 ひとりで、まず、声を出す。
 ひとりひとりが、暴力やゼニに頼りきらない暮らしを送る以外にないのではないか。
 ひとりの力を信じきるのである。凡夫であることを自覚しながらも、生かされてある自らのいのちに信を置くのである。
(10月9日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 05:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
あきらめないで――圧倒的な強者に勝ちぬく方法だ(その2)
 9月21日(日)のスピーチのとき、新居万太さんがある詩を紹介した。
 宮尾節子さんの詩「明日戦争がはじまる」だ。
 この詩も宮尾さんも、知らなかった。

 「まいにち/電車に乗って/人を人とも/思わなくなった/インターネットの/掲示板のカキコミで/心を心とも/思わなくなった/虐待死や自殺のひんぱつに/命を命と/思わなくなった/じゅんび/は/ばっちりだ/戦争を戦争と/思わなくなるために/いよいよ/明日戦争がはじまる」

 私はこう思う。
 夜明けに気づく。目が覚める。そのとき、「光が満ちる」と「闇は去った」とは、同時に認識されるんだと思う。
 つらくて、寝れぬ夜に死を考える。死を強く考えるということは、同時にそれだけ「生きたい!」と願っていることでもあるのだと思う。
 つまり、「思わなくなった」という表現は「思っていた」という表現を同時に包み込んでいるのである。
 忘れてはならない。
 ずうっといのちは「思っていた」のである。
 きっと、自殺や他殺にうんざりしている記者の報道の文体が伝播し、もう、どこかうんざりしているのである。裸の生の現実を忘れたままに、確実にすでにうんざりしてしまっているのである。
 欲望の網の目に囚(とら)われているんだ。
 そう納得して、出発すればいいのではないか。
 あきらめてはいけない。
 いま、出発すれば、いいではないか。
 そう私は思う。
 9月21日(日)の朝の風景を見て。岩倉のいまここの姿。
 論楽社のザクロ(岡部伊都子さんの庭のザクロの2代目、写真1)。ヒガンバナにチョウ(写真2)。古木にヒガンバナ(写真3)。そして、比叡山と秋雲(写真4)。この4枚を見て。――斉村康広さんの写真だ。ありがたい。ありがとう。
 世界はかくも美しい。
 裸の生の美しさに満ちる。
 私はそう思う。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
あきらめないで――圧倒的な強者に勝ちぬく方法だ(その1)
 9月21日(日)の9月例会をレポートする。
 2週間も経過して、ゴメン。
 まず、矢ヶ崎響(やがさき ひびき)さん(以下、響さんとする)の発言から。
 幸いなことに、斉村康広カメラマンの記録があるので、いっしょに心にとめていこうね。見て――。
 斉村さん、ありがとう。
 沖縄の歴史、沖縄戦のことを知らねばならない。「県民の4分の1が沖縄戦で死亡」「日本軍は沖縄住民を守らなかった」なんてことは決して忘れてはならない(写真1〜6)。
 戦後の日本は沖縄を租借という植民地としてまず差し出した。日本列島全体も、憲法の上位に安保条約を置き、具体的な運用に「日米地位協定」を定め、安保条約のまた上に置いた。それ以来、米国の支持・指示のもとに日本政府が運営されている。
 実質的な植民地なのに、独立国家のフリをする自由が与えられた。そういう擬制が与えられた。フィクションなんだ。多くの国民はいまだにそのフィクションを信じてきている。
 大学にヘリが墜落しても日本は警察がはいることもできない(写真7)。少女が強姦されて多くの沖縄のひとびとが抗議しても(写真8)、無視される。
 普天間基地の移転なんていうのもフィクション(写真9)。最初から、移転のポーズをとりながらも、辺野古に新設するつもりだったのだ。移設なんて言ってるのは、本土だけ。
 その辺野古の8月15日〜17日の様子。響さんは現場にいた。
 非暴力の不服従の市民たちを、海上保安庁の小役人たちがどんどん現場から排除している様子だ(写真10〜15)。
 なぜ排除されるのか? 法は? 根拠は? 全く「ない」のである。
 「だんだん(無法の荒涼な領域が)広がっていくのがこわい」(響さん)。
 新居万太さんも、ずっと沖縄のことにも経ヶ岬のことにも心をいためている(写真16、17)。沖縄茶会では待合で阿波根昌鴻(あわごん しょうこう、1903〜2002)さんのDVDを上映。きめこまやかだ。
 辺野古もジュゴンのいる美しい海なのだが、近畿地方で最初の米軍基地が丹後半島の経ヶ岬にできるのである。ある日、突然に、「最も美しいところをねらっているんじゃないか」(塩田敏夫さん)と思えるところに基地をつくられる。
 万太さんの撮った写真に、塩田さんが話を添える(写真18〜21)。地元市民の心は、ここでも無視されて、どんどん強行されている。工事は進んでいる――。
 響さんの話の中に、「勝つ方法」があった。「あきらめないこと」なんだ(写真22)。これだあ。
 あきらめないで。
 歌をうたったり、休息をとったり、子どもを育てたりしながら、あきらめないで、すわりこむ。
 あきらめないで、ハガキ出す。投書する。手書きのチラシをつくって、友人たちに送る。
 この道しかない道を歩むんだ――。
 論楽社も、へこたれないで、やっていこう。あきらめないことだ。
 響さん、万太さん、塩田クン、ありがとう。それぞれの現場の風が吹いた。厳しいけど、とっても厳しいけど、すがすがしい風が未来から吹いてきた気がする。ありがとう。
 ともに、ともに、声かけあって、戦っていこう。ありがとう。

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| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第118回)二河白道――法然や親鸞を魅了する夢のようなたとえ話
 鈴木君代さんの『いのちの花を咲かせよう』(自照社出版、税別1200円、2014年8月刊、以下本書とする)。
 この本には精神の運動がある。「私は私でよかった」「私はかけがえのない私でしかない」という大切な精神の運動がある。
 「『よきひと』に出遇うことをとおして、狭い世界に入っている自分が破られてはじめて、『ああ、自分はこのことひとつのために生きてきたんだ』ということを求めていたのだと知らされます」(本書P.47〜48)。
 その「よきひと」はなつかしく、あたたかく、深いひとである。
 「よきひと」は偉そうじゃない。いっしょうけんめいで、ひたむき。いつも新鮮で、自分の感覚を信じ、心を耕しつづけている。
 耕している後姿が道なんだ。
 君代さんの場合、その「よきひと」は和田稠(わだしげし、1916〜2006)さん。
 本書は、ある意味で、「君代の和田稠論」でもあるんだな。
 ブッダ。龍樹(ナーガルジュナ)。善導。法然。親鸞。
 その精神史がちゃんとあり、いまに至っている。和田さんも、その流れの中に、いた。
 その和田さんの後に、佐野明弘さん(1958〜)がいる。
 その佐野さんのいる光闡坊(こうせんぼう)というお寺へ行ってみた。
 9月24日(水)から27日(土)まで、安居(あんご)がある。合宿だ。君代さんに住所・電話を聞き、思いきって、行ってみた。
 石川県加賀市。「加賀温泉」駅で下り、30分間てくてく歩く。丘陵へ登る感じ。
 しだいに、どこか、タイのスカトー森林寺へ修行合宿へ行ったときの気分が湧き上がってくる。
 辿り着いた光闡坊は、どこかなつかしい建物。蓮如上人御旧跡という土地に立つ寺。檀家のいない、聞法道場。
 初対面の佐野さんに挨拶。
 さっそく、講義が始まる。
 二河白道(にがびゃくどう)。これが合宿のテーマ――。
 「ひとありて西にむかひてゆかんと欲するに百千の里ならん、忽然として中路に二つの河あり(親鸞『教行信証』岩波文庫P.143、法然『選択本願念仏集』岩波文庫P.107もほぼ同文、もともとのところは善導の喩、たとえ話)。
 佐野さん、この一行になんと5時間、講義解説。
 ――目前にはるかに広がる大きな河が二つ。波立つ、洪水になんなんとする河と、火が上がりつづける炎の河。水と火。それらが相交しているかのような、とんでもない光景。悪夢の現実。
 その両河の中間に、細くて狭い、白道。長い、一本の白い道。
 他に道はない。
 誰も他にいない。歩くのは私一人。
 道の前から、後から、賊や獣が襲いかかってくる。
 どちらに向かって歩いても、あるいは、止まっていても、火と水によって道は崩れ、生きることはできない。死だ。
 遠く阿弥陀仏の声を聞いているときだけ、道は道たりえて、進むことができる。ブッダの声を耳にしてのみ、前進できる。
 その声が消えたら、道は消え、底のない河の中へ、私はジャボーン――。
 この感じ、私は身に沁みて、わかる。
 白道が生まれても、ちょっと誰かを怒ったりすれば(私自身のことを棚に上げてね)、少し欲望をかきたてたりすれば(ああ、煩悩熾盛なり)、すぐに消える。
 自分の抱えている問題に向かう。ひどく悲しい私だけど、その問題によってしか、大切なものは呼び起こされないんだ。
 生きることの困難さ。その困難こそが大悲の声に気がつかせる。わが困難性を生ききらなければ、生きることができない。
 佐野さんの講義。前半の二日間はわからない。まるで外国語のように聞こえる。あるときから聞きとれるようになる。後半の二日間やっとわかるようになる。
 御嶽山の噴火を見ていても、いつ若狭の原発が地震で壊れるかもしれないのだ。生きるのだけでも大変なんだ。もはや原発も米軍・日本軍などのすべての「雑行」を棄てて、「本願に帰」して、いまここを生きるいのちへ帰らねば、自滅してしまうのではないか。間に合わない。間に合わないならば、そうで覚悟し、抵抗しながら亡びてゆかねばならない。
 覚悟を定めて、白道を歩もう。非僧非俗の無戒律の親鸞の厳しい教えには、開かれた光があるのではないか。迷いの人間、弱い心の人間から歩むのである。
 そう思いながら、佐野さんの講義を聞いていた。
 君代さんの精神の運動のおかげで「よきひと」に出会った。
(10月2日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第117回)仏心――両腕のない大石順教さん
 9月17日(水)に、初めて種智院(しゅちいん)大学へ行った。空海(774〜835)を学ぶ、小っちゃい大学。周りがすべて田圃(たんぼ)。カフェもコンビニもない。いい環境。
 近鉄「向島」駅から歩いて10分。昔は池、今は水田。見渡す稲穂の海。もう、色づいて、穂が垂れはじめている。ヒガンバナの朱色がきれいだ。秋晴れの青空もいいなあ。
 そこで、大石順教さん(1888〜1968)の足跡展があった――。
 奈良の浦田幾子さんから案内のFAXが入り、「行こう!」と思ったのだった。
 浦田さんは1年半前の吉永小百合さんの「講座」のおりも20枚チケットを買っていただいた。『次の冬』(論楽社ブックレット)だって20冊は買っていただいている。こういうひとによって、支えられている。ありがたいと思う。
 その大石さんの『無手(むて)の法悦(しあわせ)』(春秋社、1968年、以下同書とする)も浦田さんからすでに送っていただいていた。気になっておりながらも、申し訳ないけども、読んでいなかった。ゴメン。
 大石さんの足跡を見た。そして、同書もいま9月22日(月)までに読んでみた。
 もう、びっくりぎょうてんの生があった、私は全く知らなかった――。
 大石順教(これは法名・出家名、本名は大石よね、以下大石とする)さんは1888年大阪の道頓堀のすし屋に生まれる。芸事が好きで、京都の山村流の名取り師匠に、なんと11歳でなる。
 17歳のときに、運命の日が来る。養父が酒に酔って、狂乱。一家六人が日本刀で切り殺されるのである。
 大石さんはただ一人生きながらえる。なんと両腕を切り落とされたまま、生き残った。無手(むて)になったのである。
 ある日養父の妻が養父の甥と出奔。手に手をとって家出。しだいに養父は深酒するようになり、ついに自暴自棄の逆上。狂乱狂気へ。
 事件は大石さんを底のない洞穴の中に投げ込んだ。闇の底へ放り捨てられたのである。たしかにそうなんだけど、同書を読むと、大石の宗教的資質の厚みの中へ投企されたと言ってもよいのである。すごい厚みの宗教心が泥の中から花を咲かせるのである。
 「もう駄目だと諦めた時、私の頭の中に、ふと阿弥陀様のお顔が、薄くぼんやり見えました。(略)無意識のうちに何ともいえない尊いお顔が、閉じている私の瞼(まぶた)の中に大きく見えたのでした。」(同書P.36)
 「すると、大きな手は今度は私の体全体を抱き上げて、その大きな掌(たなごころ)に私をのせてくださいました。」(同書P.41)
 いのちの危機のとき、きっとふだんは黙している仏心(としか言いようのないもの)が声を出して湧き上がってくるのだ。溢れ出してこそ、いのちは危機を脱するのである。
 事件の直後、ベッドの上で、こう語る。「お養父さんは決して悪い人ではありまへん。魔がさしたのだす」(同書P.64)と明言している。全くのところ明晰である。
 さあ、生きなければならない。寄席の舞台に立って生計を立てる。新しく「創造した人生」(同書P.83)を生きることになる。

  くちに筆とりて書けよと教えたる鳥こそわれの師にてありけれ

 カナリヤがヒナの口中へ餌を運ぶ姿を見て、「あっ! 口がある」と大石は思う。19歳のときである。手は無いが、口がある。筆を口にくわえて、文字や絵を書くのである。
 書(しょ)って、すべてが出てしまう。こわいものである。歪んだ心は歪んで出る。どんな恰好つけたとしても。
 17日(水)に見た書はいい。まっすぐな心で書いている。実にすがすがしい。
 心の美しいひとなんだ。
 「くちに筆とりて書け……」という歌に、スズメのやわらかい絵が添えてある。そのまま仏心画である。すばらしい宝の絵と思う。
 縁あって24歳で結婚。一男一女の母となる。
 ところが、腸捻転の激しい痛みに苦しむ夫を前に何もできない。妻として、女性として、つらい。しかも、わが子を抱くことができない双手なしの母親。ふつうの母親と同じように食をとることは「むさぼり(貪欲)」ではないか。しだいにブッダの言う三毒(貪欲の他に怒り、無明)に染まっているのではないか。私の道に帰っていこう。
 一日一食を断ち、その断った一飯を訪ねてくる障害者たちに供養することを始めていく。
 45歳のときに、ついに出家。自在会(いまの「身障者いこいの家」607-8226 山科区勧修寺仁王堂町27-11)を設立し、身障者の女性たちとともに暮らしていった。
 ひとりでごはんを食べることができない。ひとりで風呂にもトイレにも入ることができない。ひとりで電車にのることができない。
 すべて仏の慈悲(他力の本願)によってしか生きることができない。
 その自覚の深さ。心の手によって、仏心によって生かされていくのだ。
 無手が素晴らしい不幸と幸福を与えていった。禍も福も不二(ふに)。全く一つであった。
(9月25日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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