論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第189回)絵本(その1)
 岡山のあるひとが、東京の思わぬひとの病死を知らせてくれる。
 びっくりである。
 「今年1月6日、双子の妹さんも天に召されてしまいました。さみしくなりました。有限の命を大切に生かさせていただきたいと願っています。虫賀さんもお大事に!」
 うーん。そうとは知らず、1月23日にも手紙を出している。そのひとへ。
 このひとも、夕日の向こうへ、行ってしまった。夕焼けの果てへ、隠れてしまったのだ。
 姿はあるのに、見えない。花はあるのに、花びらは散ってしまったのである。ううーん。
 エリザベス・キューブラー・ロスは死について、言っている(たとえば、傑作絵本『ダギーへの手紙』佼成出版社)。
 死とは「もともと住んでいた、本当の家(real home)へ帰る」こと。「ちょうどいい時期がくると(when the time is right)」、チョウがサナギからよいしょと抜け出るように、体から出て、自由になるんだ――と。
 こういう神との一体感は実にいい。安心感がにじむ。
 いいねえ、いいねえ。そう思う。
 たまにはこんな絵本を読もうか。
 しんしんと冷えるきょうのような日は、絵本を読もう。Picture book――。
 絵本は、太筆でざっくりと世界を捉え直す。ほんとはもっともっと複雑で繊細な世界をあえて、えいっと太筆で捉え直し、再構築する。

 『サンパギータのくびかざり』(文章は松居友、絵がフィリピン人のボン・ペレス、今人舎、2015年)を読んでみよう。
 主人公は少女のリン。でも、もうひとりの主人公が神。いや、精霊か。地霊か。それも女性。母なる存在だ。
 リンは貧しい少女。お父さんは家で出奔。お母さんは病気で寝ている。たったひとりで、サンパギータの首かざりを売って、生計を立てている。
 サンパギータはフィリピンの国花。小さな白い花で、甘い香りがするんだそうだ(私はまだ知らない)。
 ある日、リンはサンパギータが全く売れなくて、生活が立ち行かない。どっこいしょとアカシアの木の根元に腰を下ろしている。
 不思議な女のひとが現われ、すべてを買ってくれるのだ。こんなこと、あるんだ。
 ところが、その直後に唯一の支えのお母さんがなんと病死してしまう。
 たったひとり取り残されたリン。ひとりぼっちのリン。
 近所のひとたちが心配し、ごはんを出したり、「うちの子になったらいいよ」と言ってくれるひともいる(こういうところが日本だ違うんだな)。
 あるとき、リンはサンパギータの花を集め、お母さんが亡くなったベッドの上で首かざりをつくりはじめる。
 くびかざりを持って、友達の木のアカシアの木の根の上にすわる。そうして、疲れたリンはねむってしまう。
 不思議な女のひとが再び現われ、サンパギータの花を再び買ってくれる。その花は願いごとがかなうとフィリピンでは言われる。
 「母ちゃんのところへ行きたい」とリン。
 すると、その女のひとがするすると母ちゃんに变化(へんげ)。
 互いにだきしめる。
 互いに「会いたかった」。
 「いつもそばにいるから、あんしんして、生きていきなさい」と母ちゃん。いい言葉だ。
 翌朝、アカシアの木の根元でねむっているリンが発見され、ひとびとがかけよって、「心配したよ」「死んでしまったかと思ったよ」と――。
 リンの危機は救済された。もう、大丈夫。
 不思議な女のひとは精霊。日本では根こぎされてしまった。その精霊がおり、助け合う共同体がある。生活の場がある。こういう現実がひとの心の危機を現実的に救っていくのだ。
 いい絵本だあ――(つづく)。
(2月11日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 08:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第188回)札入れ
 選挙について、書く。
 2月7日に投票のある京都市長選挙。盛り上がっていない。私の心の中も、盛り上がらない。うーん。
 投票権を得てから40年間。何十回、選挙があったことか。
 選挙は好きである。小学生のとき、岐阜の村の選挙で伯父さんの選挙カーに乗って以来、ずっと好きだ。選挙は祭りなんだ。
 いちども棄権したことはない。
 選挙投票権を得るための先人たちの労苦を思えば、とても棄権なんかできない。
 坂本龍馬が夢見た「札入れ」だ。どんな生まれであろうが、人望のあるヤツが「札入れ」で選挙され、重責を担って、政治活動する。そんなシステムの実現に龍馬はどれほど胸を焦がしたことか。出生門地だけで人生が決定するなんて、どれほど苦しかったか。
 でも、そんな「札入れ」のような選挙がいまあるのか。
 2月7日の京都市長選挙なんか、「なんだ!?」と思ってしまっている。民主党が自民・公明と野合するなんて、どうかしている。
 投票率だって、相当下がると思う。
 もしも投票率がたとえば3割を切るような選挙をやるならば、その選挙自体を無効にして、やり直すべきだと、私は思っているのだけれども。
 ついでに、ちょっと書いてみよう。
 選挙そのものをシステムとして盛り上げるために、もっともっと真剣に考えたい。

 ・供託金を1万円ぐらいにとにかく低くする(出したいひとをどんどん出したらいい、いろんなひとの演説を私はとにかく聞きたい)。
 ・立会演説会を復活(同じ理由だ)。
 ・戸別訪問を日本もやったらいい(買収なんてやったら、即レッドカード、家の玄関で議論したらいいんだ、いつまで名前連呼するつもりだ)。
 ・投票日を平日のある日にして、公休日とする(投票って、聖なる行為なんだ、みんなで祝日にして、赤飯炊いていこう)。
 ・選挙投票権を理なく放棄するならば、それ相当の罰金(たとえば、1万円)を課す(同じ理由によって)。

 たとえば、以上のことを改正するだけでも、選挙は龍馬が願った「札入れ」に近づくと思う。
 いま、政治は民衆を暴れさせないように、眠らせたままにしておいて、自在にしようと為政者(治者)は考えている。民衆のみんなが沖縄のひとたちのように「日本が米国の植民地であること」という真実を知ってしまったら、大変だからだ。
 ゆえに「争点ぼかし」を繰り返し、暴れないように、低投票へ導き、白紙委任票を求めているんだ。
 選挙を変えなきゃいかん。
 基本を変えなきゃ、何も変容しないんだ。
 私はあきらめない。
 市長選にも棄権せず、投票所へ足を運ぶ。そして、苦しい決断をする。投票したいひとがいない。どうしよう。うーん――。

  民の笑いが神々の声であったとき
  毎日のすべてのことが詩になっていた
  夕暮れに烏飛ぶ川も
  かたむける大きなジョッキも
  札入れの言い争う声も
  田畑に沁みる雨の匂いも
  平和の笑いの詩であった

  いつ声が消えたのか
(2月4日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第187回)応答
 ケヤキ、クヌギの冬木が屹立している。どんなに厳しい寒さの朝も、まるで「冬はこうでなきゃ」と言うように、梢に朝の風光を集め、屹然と立っている。
 2016年のいちにち、一日一日をケヤキのように、生きてゆきたい。いまここに在ることを包みながら、生きてゆきたい。できることなら、そう生きていこう。
 願いながら、歩く2016年1月の日録。その抄録だ――。

  1月1日
 新しい年の、新しい月の、新しい日の朝。
 明子と歩いて50分の岩倉の森の中へ水を飲みにいく。

 「大きなことをしようと、強さを求めたのに
  小さなものの気持ちがわかるように、弱さを与えられた
  より大きなことをなそうと、健康な体を求めたのに
  より善いことをするように、病弱を与えられた
  たのしく楽に暮らせるように、お金を求めたのに
  生き生きと賢く生きるように、節約の生活を与えられた
  世のすべての人に誉められようと、権力を求めたのに
  真実に気づき従うように、地に生きる道を与えられた
  人生を楽しめるように、あらゆるものを求めたのに
  あらゆるものを受け入れ幸せになるように、生きる場を与えられた
  私自身気づかない心の叫びに耳を傾けていてくれた
  真実に背いていたにもかかわらず
  私の言葉にならない祈りは応えられていた
  この世界のすべての人の中で
  私は最も豊かに祝福されている」。

 いま、いちど「応えられた祈り」の詩の言葉を声にする(宮嶋望『みんな、神様をつれてやってきた』地涌社)。宮嶋さんの心訳だ。味わいたい。
  1月8日
 90歳の家ゆえに、「すき間」が多い。すき間がある。あきらめずに、カーテンを変えたり、すきま風対策のテープを張ったりする。
  1月15日
 奥田裕介さん(論楽社ホームスクールに9年間来たひと)から「父親になった」との知らせが入る。体の芯が暖かくなる。
 精神の近い、親しいひとが親になるということは、どこか私にとっての「孫」がうまれたような思いに、なるのだ。
 近しい女の子たちも2人目、3人目、4人目と生もうとしている。これもうれしい。
  1月21日
 楢木祐司さんの仙台のお母さん、危篤。そして、死去。
 汗をかいたり、香ったりするいのち。その非在。触れれば、暖かいいのちの非在。
 つらいね。
 夕日の向こうに行ってしまったいのち。
 悲の井戸水を汲み上げていってください。体の中のたしかな記憶の水を汲みつづけてください。
  1月24日
 青山哲也さん(ホームスクールに高校3年生から来てくれた)、家族で来てくれた。奥田さんと同じ理由で、芯からうれしい。ありがとう。
 12月8日にお母さんの浩子さんの葬儀だったね。5軒隣りの、隣人の青山さん。快活な笑顔で福を運んできてくれた。
 ここまで書いてきて、「そうだ」と思う。「応えられた祈り」の宮嶋さんの本のタイトルが「みんな、神様をつれてやってきた」に改めて、びっくりする。
 たとえ、その神様が福でないものをもたらしたとしても不運ではないのだ。きっと。それもすべて縁なのだ。人間認識の底を深めてくれるのだ。
 論楽社へ、「みんな、神様をつれてやってきた」のである。福を運んできてくれた。
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 18:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
辺野古の海を守れ――1月例会へ、ようこそ、ようこそ
 矢ヶ崎(やがさき)響(ひびき)さんだ。沖縄のこと、辺野古(へのこ)の海のこと、話していただく。1月31日(日)だ。
 一昨年9月(9月例会)以来の、2回目。この1年半の間の、辺野古の激動を、パソコンの映像を見ながら、話を聞こう。
 昨年11月にもこの1月にも、響さんは沖縄へ行ってる。最新の情報が生(なま)で伝わってくるか、と思う。
 1月31日(日)、足をはこんでいただけたら、うれしいな。
 でもでも、それでも――。
 なんで米軍の基地を新しく建造しなきゃならないのか。
 普天間の移転とかなんと言うけど、そりゃ、ウソだろう。最初から米国の親分のための出来レースと思う。
 ジュゴンの棲むサンゴ礁の海を潰して、米軍のためになんで日本の税金を使って、巨大な基地を新しく建築しなきゃならんのか――。
 沖縄の各選挙で民意は明白に表示されている。「イヤだ」「やめてくれ」と。
 なのに「唯一の解決法だ」と言って、なぜ無理強(じ)い、するのか。なんで米軍米国には、ポチのように物が言えないのか。日本政府はどうして、いつも服従隷属するだけなのか。なんで軍縮、基地縮小を提案主張できないのか――。
 響さんは算数教師。京都沖縄県人会事務局次長。両親はヤマトンチュウ(日本人)で、沖縄に生まれた――。
 そして、それから、2016年から「感話」をほぼ毎月1人ずつ行なうね(毎月ではないし、「講座」のときはないよ)。
 吉川文一さんに、まずお願いする。
 左京区で吉川眼鏡店を経営。両親を相次いで見送った。
 まるで前座のようで吉川さんに悪いけど、「感話」の予期せぬ言葉に心を耕してほしいと願う。
 いまここに感じることを5分か、10分、言葉にしていただく「感話」である。
 では、響さんと吉川さんの1月例会へ、ようこそ、ようこそ。
   2006年1月例会
 1月31日(日)、午後2時〜4時半。
 論楽社(京都市左京区岩倉中在地町148)。
 吉川文一さん、「感話」(6回目)。
 矢ヶ崎響さん(京都沖縄県人会事務局次長、算数教師)の「辺野古の海を守れ」(注)。
 参加費1000円。要申し込み(TEL 075-711-0334、論楽社と言えども私宅なので、事前に参加を申し込みしてください)。
 交流会5時〜7時(参加自由、自由カンパ制)。
 (注)「辺野古の海を守れ」とマジックでも墨でも書いて玄関先に張ってみよう。「アベ政治を許さない」(金子兜太・書)ほどの迫力がなくてもいいじゃないか。もっと、もっと、ヤマトでやれること、やっていこう――。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 19:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第186回)スプーン(その2)
 「アーン」と言ってごらん。そう言いながら食べものを食べさせてもらう暮らし。スプーン・フィード(spoon feed)の生活。
 問題はこのことなんだ。
 こういう暮らしを「よし」とする風潮が日本に蔓延。バブル経済のころから目立ち始めた。そうして1995年の阪神大震災とオウム事件以来、不安恐怖をいっそう深化させ、一方で日本社会を統合化・集団化させ、もう一方でスプーン・フィーディング化させていったのだと思うのだ。
 大震災は地震列島の宿命。それはそうなのに、どこかニヒリズムが生まれた。「日本では壊れない」と豪語されていた高速道路が落下したりした。オウムのサリン事件でパニックが加わった。
 オウムは布施の原則(社会の余りもので仏者は生きること)を無視した。たしかに。それでも、当時、ヨガ・瞑想という言葉すらも口にできなかったもの。とにかく邪宗門としてのレッテルをオウムに貼るだけ。臭いものにフタして、排除したい。真相・実相の究明にはほど遠い感じだった。とにかく「吊るせ」「吊るせ」の合唱の声だけがこだました。真相を明らかにしておかないと、また形をかえて、必ず起きる。ちょうど太平洋戦争の発生原因を明らかにしないと、再発するかのようになるんだ。
 ちなみに私の死刑についての考えは、明確に廃止。戦争と死刑、ともにやめたほうがいい。一歩譲って、たとえ死刑規定が残ったとしても、執行しないことが重要。「なんでこんなこと、したんだ」という考察、煩悶なしに、「国権の発動たる」暴力で処理抹消させるなんて、とんでもない。5年、10年……と執行停止がつづくことがとにかく大切。忍辱が大切。
 「早く吊るせ」と言っているひとには処刑現場に立ちあってもらえばいい。処刑情報も公開することが議論の前提でもある。暴力で解決、前進した懸案事案はひとつもないんだということ、気づいてほしい。
 ちなみに、日本の犯罪発生件数はこの10年で半減。殺人事件数も確実に減少している。殺人事件ピークの1954年(私が生まれた前年だ)の4分の1にまで減少しているんだ。
 このこと、もっともっと知られていい。コモンセンスにし、免疫力としていこうじゃないか。
 なのに、死刑判決は増えつづく。2007年にはなんと52回も言い渡されている。
 この20年間、オウム事件以来、「凶悪な顔のない悪魔が突然やってきて、理由なき殺戮を白昼堂々としている」なんて思っていたら、それこそ危ない。妄想だ。心の中の不安妄想が醸し出され、拡大しているだけなんだ。
 もともと日本社会は多民族多文化社会ではない。均質均一社会で、同調圧力がかかりやすい社会。少数派批判派が少ないし、大切にした経験もほとんどない。育てようという意識もほぼない。見下して、無視する習慣がつづいている。
 どんどん同調圧力が加わり、統合化、集団化が進み、監視カメラが不必要に増え、「味方か敵か」「白か黒か」という原理主義発想がはびこり、ギスギスし、底意地が悪くなっていっている。マッチョな政治家(米国には立ち向かわず、弱者だけいじる「はりぼて」男)なんかに拍手し、自らの実存を丸投げ。観客民主主義から、次第に投票場にも行かなくなっている。米国の核の下、食糧も石油も他国に依存。愛犬愛猫や「ゆるキャラ」に魅れながらも、隣国を仮想敵国に祭り上げ、「自衛のため、攻撃せい」とわめく。自省力のあるひとは自分を責めて、自問自閉し、あるいは自殺(減少しているとはいえ、2015年度は2.4万人)。自分の足がちょっとでも踏まれたら虎声で怒り、他人の足を踏んだって、全く猫なで声の平気の平左。
 保守化じゃない。統合化、集団化であり、「スプーン・フィーディング化」なんだ。その旗手が現首相。痴愚神王の時代の始まり――。

  神々の時代がかつてあった
  すべてのいのちがそれぞれに神々だったとき
  すべての言葉に平和の香りがした
  すべての繕いにも味つけにも平和の笑い声が染みていた

  神々の「逝きし世の面影」(注)が消えてから
  平和の匂いは消え、良きひとゆえに騙されつづけ、戦争をつづけた
  しだいにみんながみんな偉くなくなり
  偉くないことによって、神々に戻っていったのはほんとうか

(注)渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)
(1月21日)

(付記)以上の「無事」「スプーン(その1)」「スプーン(その2)」で、2016年の年頭の挨拶とする。
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:51 | comments(1) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第185回)スプーン(その1)
 スプーン・フィード spoon feedという言葉がある。
 「さじで食べさせる、甘やかす」という英語だ。
 「いまはどんな時代か」になると、識者論者は「右傾化、保守化」という用語を決まって使う。
 違うんじゃないか。
 「スプーン・フィーディング化」、あるいは「統合化」「集団化」とかをもっともっと使ったほうがよいのではないのか。
 そう思うのである。
 保守主義は、ひとの進歩発展に懐疑を持つ。「きょうもまた箒とる手のうれしさよ」という態度。態度は肉体化された思想だ。国土の破壊や戦争、原発にも自然と懐疑を持つ思想である。
 そういう保守主義化じゃ全くない。
 「左傾化」(これも公安用語だろう)ではない、つまり「反・左傾化」程度で、保守化と言っているのだろうか。
 いまは違う。全く異なる。じゃあ、なんなのか――。
 誰かの手でスプーンをもって、食べさせてもらっている生活。Spoon feedの生活。遺産を含めて株や資産の運用で、汗水流さなくてもよい生活。金利生活。
 そういう暮らしぶりが、バブル経済のころから、この30年間蔓延してきている。日本の歴史で初めて富裕層が誕生したのだ。
 そのひとたちは、他のひとの貧困不運によって富を形成したとは考えない。いまあるゼニに執着。しがみつく。
 20年前の地下鉄サリン事件や、その後の拉致事件でも領土問題でも、発生したときのTV・新聞報道を想起してほしい。異常に不安恐怖を喚起させた。国じゅうがパニックになった。隣国たちを仮想敵国に設定し、内向きには厳罰化を徹底させ、統合化・集団化をはかっていった。
 産業を空洞化させても、原発事故が起きても、何とも思わない。統合化・集団化をはかっているわりには、相互の信頼感は喪失し、相互に意地悪になっていき、しだいにヘイトスピーチもストーカーもネット右翼も陰惨に蔓延。
 論理を嫌う。基盤となる知識を嫌う。また、その基盤となる歴史的体験をも嫌う。オモニやおばあの涙、古典の味読を憎み、対話も拒否。ひとの話は聞かず、一方的に言いまくる。「やらねば、やられる」と思い込んで、執拗に攻撃しまくる。
 この代表例が残念ながら、現首相。高名な政治家三代目。いまも支持率は低くはない。安保法を通しても、低くなってはいないんだ。「スプーン・フィーディング時代」の首相なんだ。「スプーン・フィーディング化」がますます進化しているのではないかと思っている。
 ひとは、優しい、穏やかな、甘えた表情で、平気でひとを殺すことができるのである。もう少しの縁の深まりによって、戦争が始まるかもしれない、とさえ思う――。
 自らの心を鎮めるために、短い詩を。
 ヘタクソでいいから、小さな偈(げ、ガータ)を。
 やってもやりかえされるだけ。「悪の連鎖」を鎮めるためには、ひとりでつぶやこう。
 鎮めるために。鎮めるために。

  黙って身をさらし
  朝の光を受けとめ立っている
  冬のケヤキの梢の姿
  これほどの真実が他にあるだろうか

  ひとは妄念なんかで生きてはいない
  風景を生きている
  大地に立って無骨に生きたひとたちの世界の像が
  風景なんだ

  きょう君は土の上を足で踏んで歩いたか
  きょうあなたは冬木のケヤキの落葉の上に立ってみたか
  大地に両足で立ってごらん
  開かれた風景に風が吹いている

(この項、つづく)(1月14日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 14:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
会費2016年
 2016年度の会費、募ります。
 ひとくち1000円です。
 「潰れるなよ、虫賀くん、ふんばれ、大丈夫だ」と送ってください。ドーンと。

  論楽社 郵便振込口座 01060-0-33737

 「講座・言葉を紡ぐ」の100回目が森崎和江さん、吉永小百合さん、アーサー・ビナードさんと続いて、昨年は里みちこさん、池田久代さん、そして本田哲郎さん(本田さんでひとつのピークでした)。月例会も285回。毎月毎月、月刊誌を刊行するかのように、運営できています。感謝します。
 ただ参加者が減っています。10年前に20人だったのがいま13、14人という感触でしょうか。
 もしも興味関心があえば、「久しぶりに行ってみようか」と再考捉え直しをしていただきたいと願っています。
 というのも、「講座」や月例会の運営は、みなさんの参加費とこの会費の助けによって、自主的になされているからです。
 どこからか補助金が出るわけではありません。内発的な支えだけが頼りなんです。
 この「ほっとニュース」があれば、論楽社の思い・動きは十分に摑(つか)むことができます。それで十分なんだけれども、会費で応援するのも考えてみてください。
 特典や割引があるわけではありません。ただ直接に支えるだけです。直接に手紙がときどき届くだけです。
 それも、いまどき手書きの、読みにくい字の、「ああだ」「こうだ」と書いたプリントやチラシが不定期に、年に2〜3回届くだけです。コラムや本の紹介文、新聞記事を同封し、ていねいに通信を送るつもりではいますけれども。
 ホームスクール(家庭学校)を含め、「ともに歩む道、いっしょに生きる道」を探し、論楽社の動きをつくっていきたいです。道はあると思います。
 引きつづき、直接に支援していただければ、うれしい。感謝いたしております。
| 虫賀宗博 | 会費の呼びかけ | 19:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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