(10月例会における呟きのつづき)中塚智彦さん、考えてみれば、現代の私たちの生そのものが晒されている、受身の、受動の、無抵抗である——と思っています。
核兵器や原発の暴発ひとつを考えてみれば、良いのです。いかに晒されていることか。
化学肥料が火薬に、毒ガスが農薬に、トラクターが戦争に、自在に変容されていく時代を私たちは生きています。農はひとにとって生きていくうえで必要。だからこそ、食糧を戦略物資とし、支配の道具にしています。農の風景は激変しています。何が何だかわかりませんね。いわば味噌と糞とを区別することは全く不可能である、と思うのです。
諦観が必須に生まれてくるのです。
諦観という漢語が持つ「あきらめる」の奥には「明らかに観る」という意味が宿っています。明晰に観ていきたいですね。
その地平に立たないと、抵抗すら生まれないのではないでしょうか。
不必要な自我感情の表出、悪あがきは気やすめでしかありません。いのちの浪費は良くありません。
そうじゃなく、最大をよく知り欲しながらも最小をていねいに生きていく知恵が——そう、古代人の知恵が現代にこそ、必要なんですよね。「ワンランク上の暮らしを」なんていう広告に騙されていくドレイ根性、洗い捨てていきたいもんですね。
negative capabilityなんていうイギリス語が生まれたのも、同じ地平です。同じ地上から発芽したものです。
negative capabilityにはまだうまい訳語がありません、「答えの出ない状況を受け入れ、耐えていく力」と仮に訳しますね。
「目がかすみ、耳も遠くなり、足腰も弱った」という老境の状況を「老人力が付いた」と赤瀬川原平が以前表現したよね。老人力という言いかた、negative capabilityに似ているかもしれませんね。どうでしょうか。
negative capabilityを私は「待つ力」と訳したいと思います。
中塚さんが10月13日(日)に歌ってくださった詩(連載コラム「いまここを生きる」2019年1月17日付「夕映えの山」)とおんなじ言葉を訳語に置いてもよいかもしれません。
いのちの問いかけに
ただ待つこと
私から問い直してみたって
いのちの問いかけが湧く場所には
届かない
ただただ待って生きて往(い)きていこう
思いのほか人生は短い
いまここを故郷にし
希望を掟(おきて)として
歩いて歌っていこう
——待つこと
私たちひとりひとりのいのちは向うのいのちの世界から、必要があって、この世に放り込まれてやってきました。
やってきたこの世は戦争と戦争経済に満ち満ちて、ひとびとを「ドレイ」として扱います。「ドレイの主人」にする道もあります。この道を「アメリカン・ドリーム」と呼びます。でも、ドリームのイスが用意されているか、空いているかはいささか疑問です。
ひとをモノ扱いしてくる各メーカーの戦略にも晒されます。
中塚さんも化学メーカーによって、晒されています。
大変な苦労です。
この状況、負の状況——この世のものさしで言えば、「負」なんです——を、耐えている時に、現代を越えた、遠く古代人のような知恵が湧くのだと思います。どこかブッダのような、negative capabilityが湧くんだと思っています。待っていけば、体に気づき(サティ)が入っていき、脱中心化した視点(思考、感情に対し)が生まれるのです。長島愛生園の近藤宏一さん、島田等さん、伊奈教勝さんがそうでしたもん。
(10月24日)