論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
自己肯定――南悟さんの「講座」レポート(その2)
 暑中、お見舞い申し上げます。
 汗を流しながら、水を飲みながら、互いにいまここを動いていきましょう。
 もう4週間もたってしまった6月29日の「講座」のレポートです。
 塩田敏夫さんの写真とともに、ごらんください。塩田さん、ありがとう。記録してくれて、ありがとう。
 南悟さんが持つのは、色紙。短歌31文字が5行で表記されています。定時制高校の生徒が指を折り折り、書きしるしました。その自筆のオリジナルの色紙です。
 南さんは、暗唱しています。30年間に1000首生まれた「魂の歌」。その8割は暗記しているそうです。この日も、色紙のオモテを私たちに見せながら、南さんは暗記朗詠します。

 昼休み氷張りつくため水で砥石取り出しのみを研ぐ 畑山義昭

 畑山君の気力が充実しています。研ぐ音だけが心に響きます。厳しい大工の修行。でも、全体として、どこか宗教画のようです(写真1)。

 気の流れは字に出ます。元ひきこもりの北山君が初めてのスーパーのレジ打ちにチャレンジします。ところが、彼、ドキドキして、1000円受けとったのに、10000円だと勘違いして、おつりを渡してしまいます。店長におこられ、弁償させられ、しょんぼり。パートのおばちゃんたちが1000円ずつ出しあって、カンパ。「がんばりぃ!」って(写真2)。労働によって、労働するひとのやさしさによって、ひとはひとと育ちあってゆきます。

 レジ打ちでお金もらい忘れ怒られてパートさんに慰められる 北山一樹

 俺は今大工の華咲く15歳足場に上がり破風板を打つ 山崎裕太

 破風板(はふいた)とは家の外壁と屋根の交わる三角部分に張り合わせる板。山崎君、中学校は学校へ行かず、遊びまわっていました。定時制高校に来て、大工の仕事を始め、学校も休まなくなります。はなを花でなく、漢和辞典を引いて「華」とした、“はな盛り”の唄です(写真3)。

 遠き日に手放したりし卒業の二文字追って夜学に通う 尾関浩一

 尾関君は34歳。高校3年のときに母子家庭の母が急死。弟と妹のために高校退学し、働きつめるのです。15年間続き、妹が結婚し、弟が独立したので、自分の生活を立て直そうと、1年生に入り直します。尾関君の話にクラスメートは静まりかえります。南さんも涙ぐみます(写真4)。

 工場の昼なお暗い片隅で毎日向き合うフライス盤 久保木和幸

 フライス盤とは切削加工をする工作機械。小さな平屋の工場の薄暗い片隅で、裸電球の下、黙々とフライス盤に向かい合っています。これもどこか聖画のようです。
 久保木君、授業ではしゃべりまくっています。私語です。何度も注意します。思わず、「いいかげんにしろ」と(写真5)。「さわるな」と言い返されます。
 南さんの右手の指先に油の匂いが染みつきます。「何の仕事?」と聞く南さん。「鉄工所や、そんなことも知らないのか」。
 当時、新任の南さん。具体的に何も知らなかった。久保木君の職場を訪問して、びっくり……。
 久保木君、2年かけて、この短歌をつくりました。多くの生徒は「全日制に行けなかった」と思い、「仕事していることを恥ずかしい」と思っています。
 この短歌が生まれたことで南さんのクラスの短歌づくりがキックオフ。「おお、オレもフライス盤や」という声が出はじめます。劣等感が減りはじめます。
 働くことで自分という存在の価値を見い出していく原形がここにあると思います。
 自己肯定って、自我肯定ではありません。生まれきた、自己のいのちを肯定して、受容していくってことです。
 どのいのちにも深みがあります。タテへ、ヨコへ、つながり深まっていく存在がいのちです。
 短歌を方便(ほうべん)として使い、働く自らの姿や生きてきた実相を写しだし、受認し、受容していく実践です。
 その実践の中心に対話があります。相互の自己肯定が始まり、深まっていく対話があります。
 全く無視のだんまりを決めている生徒に南さんが「ワンワンワン」と呼びかけ、「いきなりなんだ」と口を開かせる芸が心に残っています。南さんは楽しい。
 愛情をもって接しつづけていると、どこからか、急にヨコから自己肯定がやってくるのでしょう(笑)。
 親鸞は、それを横超(おうちょう)と呼んでいます。南さんがキーパーソンなんだけど、南さんを超えた、何かの動きがあって、いつの間にか、自らのいのちを受け入れ、他者のいのちも受け入れはじめるのでしょう。その実践に心が洗われます。

 震災で止まった時間今日からは変えてみせるぞ名に恥じぬよう 西山由樹

 西山君は神戸大震災で両親を失いました。39歳の父と31歳の母です。「自由に生きろ、大樹のように大きく根を張れ」と願った父です。「何で死んだんや」と恨んでも、両親は帰ってきません。恨みつかれた後に、それこそ横超のように、訪れてくる恵みです(写真6)。
 南さん、出会えてよかったです(写真7)。
 明子が当時住んでいた神戸市兵庫区の兵庫図書館で南さんの特集展示があることを教えてくれました。神戸工業高校も、明子の旧住所の比較的近所でした。そんな縁で6月29日に来ていただきましたね。
 私は生徒の一人として南さんにずっと出会ってきたと思います。
 この世で出会えてよかったと思っています。その出会い、まるで横超のようです。

写真1 
写真1

写真2
写真2

写真3
写真3

写真4
写真4

写真5
写真5

写真6
写真6

写真7
写真7
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第108回)ひとつの瞑想(その3)――めざめのメディテーションから始まる
 いまの私にとって、必要なのは、めざめである。より深いめざめがいまの私には必要。
 個人として、社会として宿している、おそらく無尽蔵のゆたかさと可能性のめざめていくことが大切なんだ。
 もっと、もっと、そのゆたかさにめざめていくことを意識したいなあ。
 ブッダが菩提樹の下でなしとげた「めざめ」は、この世にやってきたひとのすべてにはその可能性があるのである。私もその一人なのだ。
 そのブッダの住まいと言われる「四梵住」(しぼんじゅうBrahmaviharas)が「めざめ」の具体的な方法であり、かつ、そのめやすでもある。
 慈(metta)。やさしい慈愛の気持ちのこと。
 悲(karama)。痛みを共有する。慈を行動に移す。
 喜(mudita)。他者の幸福を喜ぶのである。
 捨(upekkha)。平静であること。執着しなくなること。
 以上の4つの「四梵住」を頭の中でいくら念じていても、そんなことは画餅でしかない。
 わが知覚をとぎすませて、具体的に瞑想していかねば、何も始まらない。実感が湧かないし、イメージも深まってゆかない。浮かんだアイディアも定着しない。ほんとうの餅を、具体的な果実を得てゆきたいと願うのである。
 そのための「ひとつの瞑想」である。
 いきなり、説明ぬきで、7月10日、17日とコラムで書いてみた。びっくりさせたかもしれない。
 読むことによる瞑想。リーディング・メディテーション。その試みだ。
 リーディング・メディテーションなんていう用語があるかどうかも知らない。でも、5年前のタイのスカトー森林寺で修行していたときに、気づいた。本を読む。いったん他人(筆者)の頭で考えたことを私の頭で考え、心に定着させる。それがメディテーションなんだ、と。
 私にとっては、ライティング・メディテーション。書くことによる瞑想。その実践なのである。
 ひとつの星座のように、あの星とこの星、その星とが、結びあって、解読され、ある物語となって、その結果、めざめてゆけば、おもしろいのである。それが私の求めるメディテーションなんだ。
 きょう24日も、もうひとつの瞑想を書く。
 また、これからも、ときどき、書くね――。
 
 深呼吸をくりかえしてゆきましょう
 吐く息と吸う息だけになっている私に気づいてゆきましょう
 私が心から愛しているひとの顔が浮かんできます
 そのひとの名前を呼んでみてください
 そのひとへのいとおしさを感じてください
 それはエネルギーの流れのようにあなたを貫きます
 こんどは私がこのひとをどれだけ恐怖を味わせたくないかを感じてください
 そのひとが貪り、迷い、苦しみの原因から解放されることをどれだけ願っているかを感じてください
 その願いこそが慈愛にほかなりません
 温かいエネルギーを感じながら、家族や親しい友だちを思い浮かべてゆきましょう
 そのひとたちが私を取り囲んで輪をつくります
 ひとりひとりをよく見て、名前を呼んでいってください
 前と同じ慈愛の思いをゆっくり向けていってください
 その中には対立や緊張があるひとがいるかもしれません
 そのひとに、憎しみ、貪り、無知、執着からの解放を願っている私を感じてください
 次にもっと大きな輪(同心円)を思い描いて、いままでに出会ったすべてのひとびとを思い浮かべましょう
 時間をかけて、思い出し、これらのひとびとにも慈愛の光をそれぞれに当ててゆきましょう
 これらのひとびとについても、貪り、怒り、執着から自由になることを私がどれだけ願っているかを感じてゆきましょう
 こんどはさらにもっと大きい同心円に地球上のすべての存在が立ち現れてきます
 生きとし生けるもののすべての幸せをどれほど望んでいるかを感じてみましょう
 そして、彼らのすべてが迷いからめざめることを願っていることを感じましょう
 すべての死者たちへ、全宇宙へと思いを届けましょう
 やってみましょう
 恐怖と貪りから自由でいてほしいという願いをとどけましょう
 そのうえで、こんどは宇宙のかなたから、もういちど私たちのふるさとの地球へ戻ってきましょう
 宇宙の闇に浮かび、太陽の光を受ける青い水惑星の地球です
 その地球の、この場所の、今生に生まれきた私の体へと帰ってきます
 そのひとのことはきっと他の誰よりも知っています
 このひとがどんなことに苦しみや希望を感じ、どんなにか愛を求めているかを知っています
 この存在の顔を思い浮かべてください
 ニックネームで呼んでみまよう
 いままでと同じく強い慈愛のエネルギーを注ぎながら、恐怖や貪り、憎しみ、無知から自由であることをいかに強く望んでいるかを味わってください
 私と全存在が結ぶ慈愛のすべてが私自身に向けられます
 その力強さを味わってください
(7月24日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
自己肯定――南悟さんの「講座」レポート(その1)
 6月29日(日)の南悟さんの「講座」。
 4年ぶりの南さん。少しだけ、ふくよかに。でも、とっても元気そうだ。
 その講座をレポートする。題して、「うたが生まれる」という大切なひととき――。
 まずは「虫賀さん、明子さん、結婚おめでとう」「結婚後の最初の『講座』がきょう、光栄です」という挨拶から始まる。
 「われはもや安身児(やすみこ)得たり皆人の得難(えかて)にすといふ安身児得たり」。
 朗詠だ。その朗詠から南さんの祝福の、まっすぐな気持ちがまっすぐ伝わってくる。
 ありがたい。
 ありがとう。
 浜地弘子さん(パン・ド・ラディのパンをとってきていただいた!)から、アンケートが届いている。
 とってもいいアンケート。
 「つらいことや弱いことを、弱いままに(強がらずに)外にだせるのは、ものすごい強さです。子どもたちのつらさや不安を南さんの体が再現していました。南さんが御自身の体で子どもたちとむきあわれたことを感じました。」
 浜地さん、ほんとにそのとおり。
 スゴイこと。南さん、やってるんだ。
 それを私の言葉で表現してみるね――。
 まず南さんが基本的に自己肯定ができている。それが何よりの出発。その南さんの授業ぶりを生徒たちが聞く。味わう。
 今度は生徒たちが自分自身の体験を南さんに話しはじめる。聞いてもらいたい。外へ出してみたい(express)と思いはじめる。それを南さんがまっすぐ受けとめる。他者肯定だ。他者肯定されることによって、生徒たちは自らを肯定しはじめていく。南さんの自己肯定感が伝播していくのだ。
 生徒たちに生まれた自己肯定感は南さんにも戻ってくる。より深い自己受容になって再び伝播。そういう相互肯定の深まり――。
 自らの厳しい、辛い体験を全校生徒の前で発表し、共感の拍手を受け、「よくやってきたね」という驚嘆の言葉を受け、自己肯定しはじめていく――。そうい全校集会の体験も大きい。その実践活動の意味も深い。
 南さんと同じような考えを持った教師たちが存在しているんだ。全面的にバックアップして、生徒たちそれぞれの中の自己否定の思い(劣等感、孤立感、疎外感)をひっくりかえして、自己肯定へ向かって生きさせるのである。
 残念ながら、南さんのような教師はたいへん少数派。自己肯定のひとだって、たいへんな少数派。日本社会のおそらく最大の問題は、自己肯定。自己評価の低いひとが多いことだ。
 けれども、自己肯定こそがいのちの実相。ほんとうの姿。出発。
 育児も教育も結婚も、すべて、ココから始まる。あるいは、ココへ至る道だ。
 南さんは大切なひと。5回「講座」に来ていただいている。その大切な意味をいま自己肯定であると受けとりなおす。3週間考えて、そう思う。
 次の「その2」は、塩田敏夫さんの写真に沿って、具体的に述べる。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第107回)ひとつの瞑想(その2)――きっと私たちは危機を解くために生まれてきているのです
 深呼吸して、心を開いていきましょう
 遠い、遠い、遠い昔のことを想像するのはたいへんです
 やってみましょう
 私たちは恐ろしい時代のいまを生きています
 より大きな物語を味わうことによって、いまの恐ろしさを乗り切らせてくれるでしょう
 勇気が与えられるでしょう
 より大きな物語を思い出しましょう
 これは私たちが実際に歩いてきた物語です
 150億年前のことです
 ゆったりとした光速で広がりながら、時間と空間が生まれ創られていきます
 素粒子たちがぐるぐると踊りながら求めあいさまざまな原子をつくっていきます
 その原初の踊りのリズムを思い出しましょう
 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる
 100億年の年月を経て、美しい渦がひとつ生まれます
 太陽系です
 ぽこんと音をたて、太陽から地球が分裂します
 地球に触れてみてください
 あなたのあたたかい顔にさわってください
 あなたも地球ですよ
 地球にある日水が生まれます
 奇跡のように水が生まれます
 いのちの始まりです
 惑星としての私たちの半生を真夜中に始まる24時間に凝縮したとすれば、その日の午後5時になって、有機生命が生まれてきます
 いのちです
 はじめは水生生物
 いまも母親の胎内では痕跡のエラ、ヒレを発達させていますね
 海の塩分はいまなお汗と涙に流れています
 哺乳類が生まれたのは夜の11時半
 人間が生まれたのは真夜中24時の1秒前です
 この1秒を24時間に見立てましょうか
 真夜中から午後2時までは森と草原の境目で過ごします
 焚き火を囲んで、干し肉をつくり、かごや物語を編んでいきます
 いま最初の人類になって、森の縁に立ってみてください
 すでにあなたが未来の種子としてそこに立っています
 森を出て、寒さに立ち向かいます
 冒険の旅に出ます
 どんな厳しいときでも、飢えない程度の恵みが地球から与えつづけられます
 そのたびに驚き
 畏怖し
 感謝してゆきました
 11時59分に、天空の星座だけではなく、内面の星図を描きたいと願うようになります
 その熱意の執着の前に感謝をしだいに忘れてゆきます
 真夜中の6秒前にブッダがインドに登場し、すぐあとにナザレのイエスも登場してきます
 この2人の登場はそれだけの危機をすでに人類がかかえてしまっているということの証(あかし)です
 そしていまです
 私たちを終末の淵まで追い込んでいく危機を自らの内部が生み出してしまっています
 怖れや貪欲さをあおる内部の力が全生命体を脅かしています
 私たちの祖先たちは言うに言えない危機を乗りこえてきました
 けれどもいまのような危機に直面したことはありません
 いのちの継続が断たれるのです
 明日が消えるのです
 「生きろ」「生きよ」と寿(ことほ)ぎつづけた意識の喪失です
 この恐ろしい時代のいまに私たちは生まれてきています
 けれども私たちはきっと選んで生まれてきているのです
 これまで学んだすべてのことを試すために、この危機の時代を選んできたのです
 取り組みましょう
 より大きな物語の鼓動を思い出し、取り組みましょう
 もういちど最初の人類にあった、森の縁に立って、立ち向かっていきましょう
 いのちの物語全体からの贈りものを、もういちど気づきましょう
 その贈りものには「生きのびよ」と書かれてありますから
 死んではなりません
 生きるのです
(7月17日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第106回)ひとつの瞑想(その1)――生き残ったひとたちの祈りの対話がきっかけです
 深呼吸して、心を開いていきましょう
 遠い昔のことを想像するのはたいへんです
 22世紀の私たちはこれまで言うに言えない危険を乗りこえてきました
 当時の20世紀のなかばのひとびとは無知でした
 だまされやすく、危なっかしいほどに無知だったのです
 ことの始まりは戦争だと聞きます
 怒りの炎に火をつけてしまったのです
 とっても新しい、大がかりな殺人の方法を競いあって探しました
 その方法をついに見つけたのでした
 そうして原子核をこじあけてしまったのです
 核はさわってはいけない箱だったのに
 ある国のトルーマン、つまり「真実の男」という名の大統領がはじめて兵器として使いました
 その敵国の緑の島の、ふたつの美しい町の日常を焼き尽くしました
 生体実験でした
 一瞬にして焼き殺された以上のひとびとがしだいに病に倒れてゆきました
 当時は驕り高ぶっているひとたちが力をふるっていました
 力をふるえないひとたちは無力感にさいなまれていました
 暗黒の時代です
 核の危機の時代です
 物語はまだつづきます
 信じがたいことに
 原子核を発電に使いました
 太陽や
 風や
 波や水力や
 バイオマスと力を合わせることが
 どんなに楽なことか、私たちはふつうに知っています
 ところが、当時は水を沸騰させて蒸気にするのにわざわざ原子核を分裂させたのです
 なんということをやったのでしょう
 しかも平和利用と言われ、そのままに信じて――
 あるとき、その緑の島の核発電所が地震で崩れました
 いまも崩れたままです
 150年たっても核分裂は止まっていません
 病もゆったりと広がっていきました
 ひとつ
 ひとつ
 言うに言えない危機を私たちは乗りこえてきました
 その事故の直後は
 被害者だけがいて、加害者は逃げて、どこにもいませんでした
 被害者の中にも「害を被っていない」と言うひとだっていました
 ところが、すべてのひとたちが倒れていきました
 痛みと絶望があまりにも大きく倒れていきました
 いま22世紀に、こうした物語が残っていて、いま言葉を紡ぐことができるのは
 その暗黒時代に
 生き残ったひとたちが
 集まって対話しはじめたからです
 深呼吸をして、心をみつめていったからです
 そうしていまの私たちのいのちを当時のひとびとが思ってくれたのです
 それがきっかけです
 祈りの対話がきっかけでした
 「核は毒の炎だ
  火なのに燃えない
  燃えないでただ分裂しつづける、ひとの手では全くコントロールできない毒の火だ
  もはや兵器として私たちは持たない
  発電なんかにも私たちは使わない
  国家の所有を離れて共同管理するのだ
  そうして初めて見守ることが私たちはできる
  怖れや無力感――そんな魂の病気を克服し、監視することが私たちはできる
  やれるんだ
  注意をそらさず見守ることができる
  核廃棄物を10万年間見つめるのである
  やるんだ」
 いまでこそ当然自然な考え方ですけど
 当時は新しい発想でした
(7月10日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 19:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ときどき連載コラム「いのち――その断章」(第42回)衆生済度(しゅじょうさいど)――原発、戦争、戦争経済システムを乗りこえて
 5月21日から1か月半たった。
 福井地裁の大飯原発の差し止め訴訟の判決の日から、1か月半だ。
 樋口英明裁判長の文章にはいまも心が動かされている。原告団長が中嶌哲演さん。
 「ゼニよりもいのちだ」「民衆が根を下ろして生活することが日常」「自然を前にした人間の能力の限界」という基本的精神が判決文で述べられる。
 人間としての基本を受けとめ、基本に沿って、書いた判決文。ワシらがびっくりしてしまうのは、いかに基本からズレた政治経済が横行しているか、ということの現われ。
 引用してみよう。ほんのちょっとだけど。
 「電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(略)は、人格権の中核部分よりも、劣位に置かれるべきものである。」
 「人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない。」
 「原発の運転停止によって、多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失である。」
 いままでの膨大な敗訴の果ての、たった一回だけの勝訴(関電は控訴)。
 この勝訴を種にしよう。小さな幸福の種にして、水をやっていこう。
 原発事故は収束していない。溶け落ちた炉心すらどこにあるか、わからない。現場検証すら、できない。核災は今後もつづく。20年、50年、100年たっても、ずっとつづく。
 この事故をしっかり受けとめたのが、この判決。「原発事故はたいしたことがない」キャンペーンを張ったTV、新聞、国会、内閣と核マフィア(電力会社などの複合体)のなかで光。
 苦の種子に水をこれ以上やるな。幸福の種子に毎日毎日水をやりつづけよう。大木に育て上げよう。
 ティク・ナット・ハンは「大乗仏教は未だ『半大乗』のまま」と語っていたという(池田久代さんによる)。大乗仏教の悲願の衆生済度(生きとし生けるものの幸福)は、まだまだ半分。いや、きっと、半分の半分、半分の半分の半分……のままだ。
 これからなんだ。
 すべてがこれからなんである。
 宗派宗教の違いをこえて、原発、戦争、戦争経済システムを乗りこえて、衆生済度を求めよう。
 求めつづけたい。
(7月7日)
| 虫賀宗博 | いのち――その断章 | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第105回)生きてる毎日は奇跡、生きてることが奇跡
 ティク・ナット・ハンの『〈気づき〉の奇跡――暮らしのなかの瞑想入門』(春秋社、2014年6月、以下本書とする)が郵送されてきた。
 6月30日(月)に、訳者の池田久代さんからだ。
 「こんな出来事があるのだから、人生捨てたもんじゃない」という手紙を添えて。
 とってもおもしろい出来事――。
 その日、私と明子は御在所岳に登ってきた(6月19日のコラムを見てね)。近鉄の四日市、津を経て、八木(奈良県橿原市)まで辿り着いた。八木で京都行に乗り換える。
 夜8時である。疲れが出はじめ、私はしだいに眠くなっていた。
 そのとき。八木駅のホームの向こうのほうから、ある女性が歩いてくる。どこか、なつかしい女性。眼光は鋭い。黒い髪に赤い縁のメガネだ。
 え、え!? あ!
 池田久代さんだ。
 『小説ブッダ』『微笑みを生きる』(ともに春秋社)の訳者だ。びっくりだ。
 おもしろい。おもろい。
 何千万分の1の確率? 深い縁!
 でも、なんで、ここで!?
 職場(伊勢の皇學館大学文学部)からの帰りだということ。すごい遠距離通勤だ。
 こんなことって、あるんだね。
 さっそく池田さんに明子を紹介する。
 「ちょうど、きょう、御在所に登ってきた」「きょう、山行初めての明子を案内してきた」と伝える。「そうそう、オレたち、結婚したんです」とも言い添える。
 祝福していただく。
 うれしい。
 西大寺(奈良市)で池田さんと別れるまで、近鉄の車中でティク・ナット・ハンの仏教について、おしゃべり。
 ちょっと至福のひととき――。
 そして、本書が送られてきた。
 「私は虫賀さんの『アンパンマン』のような笑顔と明子さん(略)にパッと照らされて、最高に幸福な気持ちになりました」って。
 ありがとう。
 こんなありがたい祝福はあろうか――。
 「呼吸はいのちと意識をつなぐ橋のようなもので、体と思いをつなぎます。心がさまよいそうなときにはいつでも、呼吸の力を借りて、自分の心をとり戻すのです。」(本書P.22)
 何が起きるとしても、この基本中の基本を守っていこう。
 すこやかなるとき、やめるときに、この基本を守りつづけていこう。
 いまこそ、この基本を守って、改めて息の出入に集中していこう――。
 オレたちは実践していくつもり。
 「慈悲の瞑想――あなたをひどく憎み軽蔑する人のために」(同P.119)。
 「無知の苦しみ」(同P.120)。
 「執着なき行為」(同P.123)。
 これらの瞑想は、いまここで、より大切である。この時代のいまここで、とっても大切と思う。
 なぜか?
 ときの内閣総理大臣は執着のひと。「集団的自衛権」に執着し、秘密法に執着していたし、「慰安婦」問題は自虐史観だという概念に執着している。きっと大地主制も大財閥もすべて復活させて、戦後のすべてを否定するだろう。彼はその考え方の主(ぬし)というだけでなく、そういう考え方を持つ「私」という自我そのものに対する執着があるタイプなのではないか。
 批判があることも、その批判にはそのひとの人間の実存をかけた内実があることも、わからない。つまり、すべてをスルーして、聞き流してしまう。全く届かない。執着が厚いんだ。他者性がないんだ。
 もちろん公人として最低。資格はない。はやく腹痛になって、引退するほうがいい。
 でも、そんなひとは首相以外にもゾロゾロといる。身近に、いっぱい、いるんだ。ヘイトスピーチのひとや性犯罪者がそうだ。
 ひとは世界に生まれ落ちてくる。親子の間に相互肯定があってこそ、この世界を選びとっていくことができる。
 子どもは自らの内側から、イノセントの場所を解除して、自分の体がいい、男に生まれてよかった、女に生まれてよかったと、この世界を肯定していく。選びとっていく。執着なんて生まれようがない。
 それができないんだ。彼らにはできないんだ。相互肯定がなかったからだろう。自己肯定がないから、他者のイノセントな場所を平気な顔で侮蔑し凌辱するんだ。
 あんまり書くと、私まで彼らのことに執着してしまう。アハハ。
 彼らにこそ、呼吸瞑想が必要だ。
 ところが、彼らは決してしない。
 どうすればよいのだろうか。
 わからない。
 本書に散らばっている花のような言葉の中にヒントがあるんだろう。本書に出会ってよかった。
 池田さん、ありがとう。
(7月3日)
| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< July 2014 >>

このページの先頭へ