正月休みに、加藤典洋さん(文芸評論、早大教員)の2冊を読んだ。
『さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて』と『3・11――死神に突き飛ばされる』(ともに岩波書店)である。おもしろかった。
「講座・言葉を紡ぐ」(1990年2月25日)に来てもらっている。『アメリカの影』(河出書房新社)、『君と世界の戦いでは、世界を支援せよ』(筑摩書房)は、いまでも好きだ。
こんなことがあった。
ある野良猫を加藤さんが拾った。「論楽社で飼ってくれないか」と埼玉県志木市の自宅から車で論楽社まで運んで来てくれたことがあった。
当時論楽社に甘夏(あまなつ)という猫がいた。甘夏もちょっと前まで野良だったのに、「なんだ、この新入りめ」とその猫にやたら警戒した。ウーウーと鳴いた。加藤さんに電話し、「ちょっとムリか」と伝えた。1週間後に再び車で来て、引きとってくれた。
その猫はクロと名づけられて、加藤さん宅で天寿を全うした。
「この野良のために、加藤さん、京都と2往復か」と思ってながめた満開の桜がなぜか忘れられない――。
その後、『敗戦後論』(講談社)があった。
加藤さん、それこそ、なぜかトーン(tone)が高かった。「どうしたんだ」と思った。
加藤さんの論に受け皿がない。そう思った。
当時「護憲勢力」と言っても3人に1人いるか、いないか。「国民投票」という勝負に出られない状況だった。
そして、私はどの「勢力」とも距離があった。左翼のどの「勢力」とも、縁がなかった。私は私を代表させる以外に方法がなかった。
「誰も受け手のないところに打たれた千本ノックのようなものだった」(『さよなら、ゴジラたち』P.117)。
痛切な思いで、いまここで、加藤さんの、この言葉を読む。
戦後日本は「ねじれ」と「矛盾」に満ちている。その「ねじれ」と「矛盾」を生きる以外にないのさ。
その「ねじれ」ゆえに、ときどき妙に正直な作品を残している。
映画『ゴジラ』がそうである。南太平洋の海底で眠るゴジラの居場所から、なぜか正直に日本だけに向かってやってくる。核実験で目ざめた恐竜のようなゴジラ。放射能を持った亡霊である。
その亡霊たちが、戦後自分たち戦死者を見捨てた日本社会(天皇も靖国神社も入る)に繰り返しやってきて、破壊していく――という加藤さんの見立てがよかった。
その見立ては、戦後のワシらの風景をすっきりとさせる。
私たちは戦死者にうしろめたさをどうしようもなく抱えて生きている。私もおじ(父の弟たち)にが2人戦死している。
米軍はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下。国際法違反は明白。日本政府は正式に抗議することはなく、米政府の謝罪もいちどもない。何も言挙げすることなく、66年も過ぎている。それどころか「投下が戦争を終結させた」と米政府は言い、みんな、いまだにそのプロパガンダを信じている。
被爆者は占領下でも占領後でも放置された。差別されていた。当時孤立していた被爆者たちが内発的に「死の核兵器」ではなく、「生の原子力発電」へと夢を積極的に託して祈念してきたことが、『3・11』で明らかになった。とても、つらい。
「平和利用」なんていうのもプロパガンダ。合法的なプルトニウム製造工場でしかない原子炉であった。被爆者たちも、他の国民も、つけこまれて、だまされていった。その「ゆがみ」「ねじれ」「祈念」を抱え、フクシマの原発はついに2011年水素爆発していったのだった。
原発の目的は発電ではない。プルトニウムによる核兵器である。
現在のところは日本は核兵器は持っていない。しかし、50トンのプルトニウムを抱え、核兵器製造能力と持っている。いざとなれば、1日か半日かで製造できる技術能力があり、その準備もちゃんとあるのだ。
戦後日本は米国の核の傘に入った。安保条約を結び、米軍を国内に置き、核兵器も持ち込まれた。まるで属国のようである。沖縄の米軍基地のひとつも減らすことも自主的にできない。自発的な外交力も失ってしまっている。
でも、「いざとなったら、核兵器をもつぞ」という一点によって、属国の屈辱は支えられていたのだ。その一点において、米国に対し、ガマンしているのだ。
でも、そんなガマンは、もう、それは妄想でしかない。空(むな)しいではないか。
日本も米国も核兵器を使用することはできない。使ったら、すべてがオシマイ。廃業する以外に生きのびれないのだ。
核抑止政策を日本は放棄すべきだ。生きのびる道を次の世代に残さねばならない。
(1月19日)