論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
『水と風の物語』――初めて作詞した歌
 その日の岩倉は雪が15センチも積もっていた。1年半前の2008年2月24日のことだ。
 インドからFAXが入った。インドを旅行中のグレゴリー・ヴァンダービルト君からだ。「昨日の日の出のとき、上島聖好さん(1955〜2007)の遺灰を、花とロウソクとともに、ガンジス川に流した」とのFAXであった。
 「そうかあ」と思い、庭の雪の白さをながめていた。すると、私としては珍しく、詩がコンコンと湧きあがってきた。
 その詩の一部を「川の物語」としてまとめた。手書きのプリントにして、縁あるひとたちに送った。
 鈴木君代さん(歌手+僧侶)にも送った。
 すると、あるとき鈴木さんが「曲をつけてもいい?」と言った。「えっ!?」と思っている間に、ほんとうに曲がつき、歌になったのだ。
 7月1日の雨の夜、西本願寺の聞法(もんぽう)会館において鈴木さんのコンサートがあり、その歌を聞いた。初めて聞いた。
 「いまが開く」。そんな身体感覚を味わった。「いまここ」が伸びやかに開かれてゆくんだ。ふしぎな、やわらかな初体験であった。
 ありがとう、鈴木さん。君代さん、ほんとうにありがとう!
 なお、私にはチンプンカンプンなのだが、「YouTubeで鈴木君代(すずき きみよ)と検索し、『水と風の物語』を見つけ出せば、聞くことができる」とか。やってみてね。

    水と風の物語
            詞・虫賀宗博
            曲・鈴木君代
      序

 川があった
 川のほとりに、樹があった
 樹の下に、汗するものたちが集まった
 汗するものたちは、息をした
 息するものたちには、心が育った
 心あるものは、息とだえることを知り、涙した
 その涙から、ことばが生まれ、物語が紡がれた

     一

 水は水と出会い、泉となる
 泉は泉と出会い、川となる
 そのように
 川は川と出会い、川の中を流れる
 川は海と出会い、海の中を流れる
 そのように
 生は死に出会い、死の中を流れる
 死は生に出会い、生の中を流れる

     二

 風は風と出会い、息となる
 息は息と出会い、生きものとなる
 そのように
 僕は君に出会い、ああ、いのち湧きあがる
 風が吹き君の息が、風に帰ったとしても
 そのように
 風は僕に出会い、君のいのちが流れる
 僕は君に出会い、風のいのちが流れる

 そのように
 そのように
 そのように
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 18:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第209回)北九州への旅――会いたいひとに会う(その1)
 生きてあることのいとおしさを感じる旅であった。
 「新幹線と特急が乗り放題、3日間で16000円」というポスターをJR京都駅で見つけた。定額給付金をあてこんだJR西日本の商品で、「西日本パス」というトクトク切符だ。
 うーん。博多への新幹線代が往復で12000円も安くなるではないか。
とたん北九州に住む、なつかしいひとたちの顔が次々にくっきりと浮かんできた。「道祖神のまねきにあ」ったのか。「西日本パス」の安さに引かれたのか。とにかく「会いたいひとに会う旅」に出ることにした。
 同道は塩田敏夫さん(毎日新聞記者、あるいは、「いとこの敏夫くん」)。男2人旅である。
 6月6日(土)、朝一番の新幹線に乗って、博多へ。午前11時にペシャワール会の総会の会場に着く。
 いちど総会に行きたかったのだ。16年来の会員として。
 会いたかった中村哲さんには残念ながら会えなかった。
 急きょ、帰国がとりやめになったからだ。アフガニスタン現地の集中豪雨への対処と米軍対策のためであった。
 でも、真赤っかに日焼けした哲さんのビデオレターの上映があり、“再会”することができた。「24キロメートルの用水路がついに完成!」というトップ・ニュースを祝い、総会で喜びを仲間と分かち合うことができ、私はとってもしあわせであった。
 着工は2003年3月19日。米軍によるイラク侵攻のちょうど前日であった。
 あれから7年。着工直後に植えられた岸辺の柳のなんと太いことか。DVD映像の伝える取水口あたりの柳はすでに大木である。勢いよく流れゆく水の両岸に、まるで古本のように堂々と立っている。深い緑の蔭をつくっており、小魚の群れを集めている。トンボが飛んでいる。女が水を汲み、子どもが笑っている。
 あたりまえの風景だ。でも、哲さんが始めなければ、何ひとつなかった。あたりまえでなかった風景だ。
 あたりまえでなかった水が、あたりまえのように流れる。とうとうと水が流れてゆく。
 その水の映像をながめていると、私の内部のいのち水までが湧きあがってくる。気がつくと、私は泣いていた。あったかーい涙であった。
 総会後、才津原哲弘さん(滋賀の能登川図書館の創設館長)の住む二丈(にじょう)町へ。
 博多から西へJRで40分。西へひと山越えたら、佐賀県だ。
 北には玄界灘が広がり、南には脊振(せぶり)山地がそびえる、はずだ。でも、梅雨の入りの小雨で、海は見えず、脊振の山脈も雲の中である。
 二丈町はなんとも言えずに、どことなくなつかしい土地だ。ひとびとの営みがさかんに香ってくる土地で、古墳もやたら多い。そういえば、ここは魏志倭人伝が記す「伊都」の国であったのだった。
 その古墳のひとつの近くに、才津原さんは6反(6000平方メートル)の田畑を借りていた。なんと1か所に4〜5枚の田んぼ、畑と雑木林(ビワが実っていた)をまとめて借りることができていたのだった。畑の一区画には、これから家を建てるそうだ。
 農業従事者として申請登録しているのだから、才津原さんはもう立派な農民、本百姓だ。
 帰農して2年。手や指、爪が、そしてなによりも表情がすっかり百姓だ。
 ああ、百姓。山形の真壁仁(まかべじん、農民詩人、1907〜84)が言った“百の生(いのち)を育てるひと”としての百姓。
 才津原さんは縁を深め、帰る場所を見つけたのだった。
(7月2日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
再び沖縄茶会――ひとつの発芽がありますように
 仕切り直しの沖縄茶会が、7月12日(日)にある。
 沖縄茶会が目指すことについてはすでに書いた(注)。繰り返さない。

 1人の死者を想えばよいのだ。私ならば、岡部伊都子さん(1923〜2008)。1人の死者を想うことによって、すべてが始まる。
 沖縄という総体、沖縄戦の全体を具体的に想うことは不可能である。たとえ誰かが想うことに成功したとしても、それが単なる観念の産物でしかなかったら、つまらない。
 ひとは観念では動かない。ひとが動くのははっきりとしたヴィジョンによってである。
 1人のひととの出会い。そのひとが体から醸し出したヴィジョン。それによって、心が耕され、心が魅せられ、自らのヴィジョンの芽も育ってゆくのである。その芽が成熟してゆけば、気がつくと宇宙が宿り、世界がつかめるようになるのである。
 沖縄茶会において、ひとつのヴィジョンの発芽があることを私は望む。
 世界は美しい。その美しさを「茶」によって気づき、発芽させたい。「茶」によって、心の縛りを解き放ちたい。
 「茶に政治を持ち込むな」という政治的言説も、解き放ちたい。「沖縄の現実を知らずして一切の発言をするな」という教条主義も、解き放ちたい。――私たちはいかに多くの「思い込みのガムテープ」によって身体がベタベタに縛られていることか?
 それらの縛りの「刀」の2本差しをいったん置き、「ガムテープ」をはがし、武装解除して、茶室に入ろうじゃないか。「いちゃりばちょーでぇー」(出会えば兄弟)ではないか。
 「一服いかが 茶も忘れて」(柳宗悦)。

   沖縄茶会――2009年7月例会をかねて
 2009年7月12日(日)の午前10時〜、正午〜、午後2時〜の3回。
 論楽社(TEL 075-711-0334)。
 山猫軒茶の湯研究会の社中のみなさんと参加者による新しい試み「沖縄茶会」。
 参加費900円。要・申し込み(午前10時〜か、正午〜か、午後2時〜かを選ぶ)。
 後片付け終了後に交流会(参加実費)。

 参加者への伝言板だ。
 「7月8月の論楽社の庭は、樹々の生命力が盛んです。緑のエロスに包まれます。そんなときこそ、小動物の動きも活発です。ハチ、チョウ、ガ、ムカデ、クモ、カ(蚊)、セミがいっぱいです。汲み取り便所には蚊取り線香をたきますが、くれぐれもご留意くださいね。
しかも、クーラーがありませんので、汗ふきタオルや扇子、着がえをご持参していただき、なるべく涼しい服装でお越しください。着物だと帯あたりがきっと那智の滝なのではないでしょうか。ただし、90歳の古民家には風の道がつくられておりますので、一陣の風がさあっと吹きぬければ、乗鞍高原にいる気分です。」

 なお、次の「講座」は7月26日(日)に池田久代さん(英文学者)。ティク・ナット・ハンさんの『小説ブッダ』『生けるブッダ、生けるキリスト』の訳者である。
 (注)ほっとニュースの「沖縄茶会――あなたがいて、私がいる」(2009年5月16日)などを参照してね。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第208回)全力疾走――ある孤独なラガーマンの生涯(その2)
 ちょうど20年前だ。1989年5月28日にラグビーの日本代表チームが、スコットランド代表チームに勝った。28対24であった。
 ラグビーの歴史でIRB(国際ラグビー連盟)の宗主国に勝ったのは、この1回だけ。
 なぜあのときだけ勝てたのか。当時38歳の宿沢広朗(以下、宿沢とする)の卓越した情報収集分析力と明晰な伝達力の2つゆえである。
 試合の前日5月27日の土曜日の午後、伊藤忠商事ビルの12階に、宿沢の姿があった。ビルの眼下に秩父宮ラグビー場があり、スコットランド代表チームが翌日のテストマッチ(国対抗戦)に備え、非公開練習をしており、双眼鏡でそれを偵察するのが宿沢の目的であった。宿沢はそこまでやった! その結果、明快に「明日は絶対に勝つ」と言い放った。
 なぜならば、スコットランドがFW(フォワード)でガツンガツンとぶち当たってくることが100%わかったからだ。
 ラグビー通のひとですら、誤解していることが多い。いちばんこわいのは180センチ、100キロのFW突進攻撃ではない。190センチ、90キロのBK(バックス)にトップスピードで走り込まれることだ。あれほどの恐怖はないのだ。日本はフランスやフィジーのようなBK攻撃に決定的に弱い。
 スコットランドは実のところ1.5軍(1軍半)チーム。主力選手を同時期のオーストラリア遠征のブリティッシュ・ライオンズ(ホームユニオン連合チーム)に出している。にわか仕立てチームとしてFWで無難にゲームを組み立てることが判明したのだ。
 宿沢はタックルが強い梶原、中島という無名選手をFWのフランカーに抜擢。ナンバー8のラトゥとともに、FW第3列に走り込みを徹底的に行わせ、タックル戦を準備。「失点を20点以内に抑えることができれば、必ず勝てる」と宿沢は言いつづけ、選手たちを納得させ、一体感と現実感を醸し出していった。
 「スコットランドはカバーディフェンスが遅い。必ず25点を日本は取れる」とも明快に話しつづけた。つまり、第二線防御がスコットランドは甘いのだ。ゆえに、平尾、朽木、吉田の日本のBKでスピーディに外へ、外へパスを回せば、抜けるのだ。必ず。
 そして、なんと5月28日、ほんとうに発言どおりに、作戦どおりに勝ってしまったのだった。当日の東京は梅雨直前。蒸し暑い晴天がスコットランドの選手の体力を奪ったという運もあった。でも、15人が前半後半と休むことなく低く鋭いタックルを繰り返しながら、機をとらえ走り抜け、5トライもあげるという快挙を生みださないかぎり、運もやってこなかったであろう。すべてが指揮者の指揮プランどおりの展開、勝利であった。
 その指揮者ぶりは銀行内部でも、十二分に発揮され、部下の才能を引き出し、的確な指示のもと、自在に腕をふるわせていった。実際、55歳で三井住友銀行専務取締役へ。「次期頭取は彼をおいて他にない」と言われていた男だった。
 ところが、宿沢はきわめて孤独だった。ずっと孤独だった。姉の由美子さんによると、「弟に親しい友人がいたかどうか、思いうかばないのですよ」(加藤仁『宿澤広朗』講談社)。
 身長が160センチであったことに対するコンプレックスや初恋の娘(こ)にふられたことも「かなり重い傷」(同書)で、「なにくそ!」という思いであったようだった。
 宿沢は「戦場としての世界」という世界観を持っていたのかもしれない。
 でも、ラグビーにとって、戦いは入口でしかない。出口はカマラデリィー(camaraderie同志愛)である。そのことを宿沢はよく知っていたはずだ。ノーサイドのあとにアフターマッチ・ファンクションがある。敵味方なくビールをのみかわし、裸踊りをし(笑)、カマラデリィーを深めるのである。
 宿沢は人生を全力疾走した。そして、人生のアフターマッチ・ファンクションをする前に倒れてしまった。すべてがこれからだったのに。
 世界は戦場でない。世界は友人であり、恋人だ。そうだろう、宿沢センパイ?
(6月25日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
二度生きる――そして、すでに生きている
 6月19日のきょう、丸坊主になることにした。
 いまから、床屋へ行く。
 丸坊主なんて、中学校の野球部時代以来だ。40年ぶりだ。
 1か月前の5月23日に「二度生きる」という手書きプリントを書いた。
 「いまから二度目の人生を生きる。そう意志したい。そう願うのだ。」そんな思いが湧きあがったのだった。
 1日1日を重ね、1か月がたった。
 ますます思いは深まっているのに気づく。
 けさ、庭でセミが初鳴きした。5年も土に潜っていたアブラゼミが柿の木に登り、「ジ、ジ、ジ」と三回鳴いた。しばらくして、「ジジジ、ジ」と四回鳴いた。
 「オレはいまここで生きている」と鳴いている。
 新しい夏がやって来た。
 私も、新しく生まれ出てゆきたい。
 第一の人生から、脱皮したい(脱毛ではないよ)。
 そう思う自分自身のいのちを、丸坊主という明示性のある表出によって、祝ってみたいと思ったのだった。それだけである。在家で在野で生きることに、変わりはない。ずっと丸坊主かどうかもわからない。
 二度目の人生の持ち時間はあとどれほどか。それはわからない。
 でも、「こころの世界に入り、ほんとうの“遊び”をやる」と思えば、残りの人生は、すべて丸儲(もう)けではないか。きっと丸坊主の丸儲けなのだ(笑)。
 私は二度人生を生きる。
 そして、いまここですでに生きている。
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2009 >>

このページの先頭へ