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連載コラム「いまここを紡ぐ」(第365回)生きるという仕事――7年間書きつづけてきて(その2)
 7年間、書きつづけてきた。書くことによって、自らを助けてきた。心底助けられてきた。そう思っている。
 「ちゃんと書けたか」とか「こんどはこれを書こう」と考えることによって、一日一日をある種の緊張感を保って送ることができたと思っている。「読んだよ」と言って感想を伝えてくれる友人たちの存在は、うれしかった。励まされた。
 緊張感が高まりすぎて、うまく書けないときもあった。そういうときは、ぞうきんがけをしたり、トイレそうじしたり、料理をしたりしていったら、ほどよく緊張感がほぐれていく――というコツを、いつごろからか覚えていった。
 7年間を振り返ってみた。わが心の阿頼耶(あらや)識――仏教の唯(ゆい)識が説く、わが心の99%を占める水源地。わが心が氷山ならば水面下に沈んで見えない広大な部分――に、発見して拾った光の種子(しゅじ)を書いてみる。
 ほんの4点だけど、私にとって、光の宝である。
 その1。20年間ひとりぼっちだったけど、なんとかかんとかやってこれたのは、母(ふじえ)と父(武雄)から愛されたからだと思う。とくに耳のきこえない母から、純朴な愛を無条件に与えられたのだと思っている。きっと、一生分では足りず、二生分の慈しみを受けた――。念仏を唱える後姿を与えてくれたのも、父と母だった。
 その2。繰り返して申し訳ないけど、安江良介さん、藤田省三さん、松下竜一さん、谷川雁さん、岡部伊都子さん、茨木のり子さん……と出会い、交流し、可愛がっていただいた。スゴイヒトビトダッタ。その記憶はいまなお一日一日を恵みとなって照らす。
 その3。登山、ラグビー、モーツァルト、民芸が格別に好きなんだなあ、と思う。きっと私の人生の骨格を成す4つだ。どれだけ励まされてきたことか。
 好きな友人とたびたび山に登った。その一回一回がよかった。ラグビーはもうやれないけど、いまでも夢に出る。夢の中ではいまだに50メートル6秒の左ウイングなんだ(笑)。モーツァルトについてはそんなに表現してないのだけど。疾走していくモーツァルト。無から始まり、無に帰っていく、いまここだけを充足させて。民芸についても、無名のひとが無名に徹し、無名に帰っていく、ただ透明な輝きだけを残して。柳宗悦が好きなんだあ。
 その4。7年間、人生の何ものかを掴(つか)まえようと書いてきた。掴まえようとして逃げられつづけている。「いつになったら……」とも思うけど、それが生きるということなのだろう。
 言葉を紡ぎたい。でも、言葉では紡ぐことができない。言葉から離れたところに在る人生の本質。もう、最後は、詩としか言いようのない何かを呟(つぶや)こう。
 ――もういちど、最後に言いたい。楢木祐司さん、そして、読んでくれたみなさん、ありがとう。

   私の仕事は生きること――7年間を振り返って
                虫賀宗博
  冒険とは
  高山や氷原にはなかった
  一日一日を静かに生きることであった
  風、星、空、水、草、石
  川面の輝き、夕暮れの雲、大樹の葉
  一日一日の喜びをつくる
  それらは
  私のものではない
  誰かのものではない
  所有ではない
  金ではない
  それらは
  何のたくらみもなく
  あるがままで世界を美しくしている

  私の仕事は
  世界の内部において
  ただ生きること
  冒険家のように
  一日一日を
  大胆に、慎重に、ただ生きること
  見た夢を忘れぬように
  死者に水を上げることを忘れぬように
  沈黙を聞くことを忘れぬように
  さあ
  出る息になりきろう
  入る息になりきろう
  いまここになりきっていくこと
  いまここ、このこと、これで行くところまで
  行ききっていくこと
  空の下に
  小さな存在として
  いま、ここにただ在ること
(6月28日)

| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 06:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第364回)生きるという仕事――7年間書きつづけてきて(その1)
 連載コラム「いまここを紡ぐ」を書き始めたのが、2005年7月1日である。
 もうすぐに丸7年を迎える。
 ひとえに楢木祐司さんのおかげである。ありがとう。
 私には格別の能力というものがない(自分自身がいちばん気づいている)。そんな私にもいまここを味わうことはできる。特別なことは何も書けないけど、「こんなことがあった」「こんなひとに出会った/別れた」「あのひとのことを想う」という作文ならば、綴ることができるかもしれない。そう思って、始めたのである。
 「伝わっているのかな」「読まれているのかな」「まだ続けていいのかな」と思う。
 やってみると、おもしろかった。私には。
 Aだと思っていたわが心は実はBだったり、Cだったりする。書いてみないと、やっぱりわからない。心はわからない。コロコロと転がっていく。深呼吸し、机に向かい、わが心の声に耳をかたむけないと、わからない。
 あるときから、「忘れるために書いていく」ということに気づく。書いては捨て、書いては忘れていくのである。現実的に、1か月前に何を書いたか。すべて、私は忘れてしまっている(笑)。だから、ひょっとして、同じことを書いているのではないか――という心配が発生しているけど。まあ、そういうことになったら、「ついに彼も……」と思って、許してください。
 毎週毎週座禅を組むようにして原稿用紙に向かってきた。この手作業を7年間つづけた。心が少しずつ落ち着いてくるようになってきた気がしている。まるで作文治療のような効果があったのか、とも思う。楢木さん、ほんとにありがとう。
 7年間、影の主役のような存在が上島聖好さん(1955〜2007)であったのかもしれない。パートナーだった女性である。
 彼女にはもっともっと自らの阿頼耶(あらや)識を見つめ、自らをもっと大切にしてほしかった、死なないでほしかった――といまでも思う。
 けれども、現実的には彼女は違っていた。
 愛されることを強く求めたし、尽くされることを強く願った。私はその要求に応えることはできなかった。すると、彼女は怒った。私のイノセンス(私にもあるよ)を傷つけようとした。その後で、すぐにあやまったけど。
 そのくりかえしであった気がしている。
 「人生はままならぬものである」という鉄則を、20年前、30年前の私はまだ理解していなかった。結婚への幻想もあった。子どもがほしかったし、「こんなはずじゃない」と思った。結局のところ、若い私は彼女を嫌い、憎んだのだと思う。
 嫌うことによって、自らの存在を傷つけていった。自らを受容できなくなっていった。自分自身が嫌いになっていったのであった。
 私は愚かであった。憎しみの種子(しゅじ)を自らの阿頼耶識に蒔いてしまった。次々に発芽するんだ。まるでわが心が大火のようになるのであった。苦しかった。すべてが私の愚かさのせいであった。
 わが心の消火と浄化に、結局20年もかかり、とくにこの7年間は書きながら、内観してきた。
 何度もヘコたれた。泣き虫の虫賀はメソメソと泣いた。
 くじけそうになると、ミッシェル・ド・モンテーニュの、あるページを決まって開いた。音読した。

 「それにしてもわれわれは大変な愚か者なのである。だって、『彼は人生を無為にすごした』とか、『今日はなにもしなかった』などというではないか。とんでもないいいぐさだ。あなたは生きてきたではないか。それこそがあなたの仕事の基本であるばかりか、もっとも輝かしい仕事なのに。」(『モンテーニュ エセー抄』(みすず書房、宮下志朗の新訳、2003年、P.209〜210)

 そうなんだ。私は生きてきたし、いまここを生きているんだ。
 すべてが私の内部の阿頼耶識から発生しているのである。憎しみの種子を自らがいったん蒔いてしまったのだから、刈りとり、摘みとり、抜きとることに20年の月日がかかったのだ。長い年月だ。でも、ありがたいことにやっと終わったのである。
 《彼女のせいで私は苦しかったのでない》。これはキッパリと言っておきたい。彼女は縁起のほんのひとつでしかないのである。7年間書きつづけ、考えつづけ、辿り着いたのは、このこと。《彼女のせいでない》のだ。
 シンプルだ。すべてが私の阿頼耶識が生成する映像であったのだ。夢のような幻影だった。
 私は彼女のこと、好きだったのだと思っている。過去形だけどね。(つづく)
(6月21日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 06:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第363回)詩人桜井哲夫――指を奪った「らい」に指のない手を合わせおじぎする
虫賀宗博
 もういちど桜井哲夫さん(1924〜2011)について、書きたい。
 生前に会う機会が私にはなかった。
 魅力的な金正美(キム・チョンミ)さんの『しがまっこ溶けた』(NHK出版、2002年)によって表出された、魅力的な桜井さんという存在に出会っただけである。
 『桜井哲夫詩集』(土曜美術社出版販売、新・日本現代詩文庫、2003年)を再読。
 私たちのために残された言葉を少しでも味わっておきたいと思う。
 改めて読んでみて、ナンバーワンと思ったのが、詩「おじぎ草」だ。

  夏空を震わせて
  白樺の幹に鳴く蝉に
  おじぎ草がおじぎする

  包帯を巻いた指で
  おじぎ草に触れると
  おじぎ草がおじぎする

  指を奪った「らい」に
  指のない手を合わせ
  おじぎ草のようにおじぎした

 わずか9行。シンプルで、やわらかく、美しい。
 国家の終生強制隔離政策を内部から乗り越えてしまっている。
 自らの精神を太らせ、清め、療養所の内部を飛び越えている。 
 「らいになってよかった」というひとを私は2人知っている。1人は桜井哲夫さんで、もう1人は長島愛生園の近藤宏一さん(1926〜2009)だ。近藤さんは重厚努力のひとだった。片や、桜井さんはきっともう少し天衣無縫か。
 いずれにせよ、ハンセン病になり、視力も失い、泣きながら心を耕しつづけた。すべてのひとびとから見捨てられてしまった場所の一隅において、当事者意識のカケラを2人は拾ったのである。そのときから、自分自身の物語を生きることになる。
 桜井さんは私の年齢(56歳)あたりから、詩を口述しはじめている。私と同じように、遅いデヴューだ。「きっと、必要があって私もこの世に来たのだ」という自覚が桜井さんにふつふつと湧いたのだ。
 桜井さんも近藤さんも、パイオニア植物だった。高山、砂漠に生きる場所を求め、前進する植物だ。光合成で得た栄養のすべてを根に送る。根をとにかく伸ばしに伸ばす。高山ならば、雪と氷と岩が前進を阻止。砂漠ならば、乾燥砂あらしが前進を阻止。けれども、なんとか根を何メートルも伸ばし、定着に成功すれば、その後がスゴイ。悪条件下に水を確保できたのである。水分が常にパイオニア植物の周囲に保たれ、さまざまな植物が育ちはじめる。植生が一気に豊かになるのである――。
 こう書きながら、いま、私は桜井さんや近藤さんの水源の〈いのち〉に出会っている。励まし、守られているといまここで感じる。桜井さん、会っていないのにね(笑)。
 ――そういえば、論楽社を私が1人でなんとか運営できているのも、安江良介さん、藤田省三さん、島田等さん、伊奈教勝さん、谷川雁さん、松下竜一さん、金在述さんたち……の〈いのち〉に日々出会い直し、励まされてきたからである。〈いのち〉の記憶は過去ではない。過ぎ去り得ない現在(いま)の記憶なのである。
 最後に、もうひとつ詩「消印のない手紙」を。
 桜井さんの姿や言葉、〈いのち〉を保ちながら、これからもすこやかに生きていこう。たとえ、病気になっても、ケンカしても、失恋しても、死んでしまっても(笑)、ね。

  宛先のない手紙には消印がない(中略)
  十本の指があったことも忘れていた
  おふくろさん、随分と苦しいこともあったけど
  やっぱり生きててよかったよ
  ありがとう、おふくろさん
  文盲のおふくろさんにも消印のない手紙は読めるよね
  遠い遠い空の彼方で
  消印のない封筒に封をし
  心のポストに投函したら
  ポストの底にコトンと音がしたよ

 死せる桜井さん、きょうも生ける私たちの根っこを励ます。
(6月14日)

| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 06:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第362回)木下晋のエンピツ画――いのちの記憶を描き込む
 5月25日(金)に朝日新聞の高木智子さんから連絡が入った。
 「27日の午前中のNHKの日曜美術館で桜井哲夫さんの絵がとりあげられます。木下さんという画家のものがたりです。」
 こんなカンタンな情報だった。
 高木さんは桜井さんとも金正美(キム・チョンミ)さんとも親しいひと。
 「おお、栗生(くりう)楽泉園の桜井さんの絵か」と思い、200字のお知らせ文を急いで綴った。思い浮かんでくる30人の友人に5月26日(土)じゅうにFAXした。
 私はTVがないので、見ることができない。
 FAXを送った時点で、気分としては終了していた。私の代わりに友人に見てもらえば、私はうれしいのである。
 ところが、これで終わらなかったのである。
 「見た、よかった」という電話が6本、手紙が3通、自家製カレーライスの宅急便まで届いた。関口香奈恵さんと田中愛子さんのおかげで番組の録画を見ることができたし、斉村康広さんのおかげで木下晋(すすむ)さんの画文集『ペンシルワーク 生の深い淵から』(里文出版、2002年)を借り、読むことができた。斉村さんはちゃんとすでに出会っているのであった。偉いひとだ。
 一方、私は木下さんについて、何も知らなかった。さっそく『生の深い淵から』を読んでみた。
 本書によれば、木下さんの実母は3回結婚し、そのたびに不幸を重ねていくような人生だった――。
 2回目の結婚で木下さんが富山に生まれる。その生家が、ある日出火。近所の多くを類焼させ、故郷にいることができず、夜逃げ。隠れるようにして暮らすけど、父は失職、夫婦はケンカが絶えず、食いものはなく、弟がなんと餓死。これを境にして、家族はガタガタバラバラ。母は耐え切れず、家出を繰り返すようになる。母は兄を連れて行くので、木下さんは寂しい。埋めようもなく寂しい。ただし、富山の呉羽山(145メートル、山というより丘だね)の自然があった。呉羽山の小宇宙の自然に接し、遊べたことは、きっと現在(いま)の木下さんを形成しているのだろう。
 木下さんが映画『砂の器』を見たとき、「これと同じ体験をしている!」と思ったそうだ。映画ではハンセン病者の父とその子が白装束姿で巡礼放浪。それと同じように、木下さんは母に手を引かれ、富山から奈良へなんと歩くのである。野宿しながらの徒歩の旅。母の最初の結婚相手(結核で死亡し一家離散)への墓参であった。たとえわずかなときでも母にとって、夫から深く愛された記憶はまぶしかった。つらいことがあれば、母は奈良まで墓参に行ったのであった。母は木下さんを引きつれて。
 その母が画家になった木下さんのところへ、突然、やってくる。放浪をやめ、ころがりこむ。
 縁深く、愛憎が半ばする母を木下さんは描く決意。
 木下さんは9B、10Bから9H、10Hまでの鉛筆を駆使する。デッサンではなく、エンピツ画。もうひとつの水墨画。光と影に、いのちの記憶が描き込まれる。
 母の表情がひとつの歴史的建造物のようだ。左目が少し不自由。低くて、横長の鼻。額、目元、唇のしわ。その数限りないしわ。
 「立像」「流浪」の母は上半身が裸。お乳が垂れる。お乳にしわはない。
 「祈り」の母は手を合わせる。手の指が太い。太い指にリアルにしわが描き込まれる。
 木下さんは母をモデルとして目の前に座らせる。エンピツを媒介し、何年ぶりかの対話。エンピツと画用紙の道具のおかげで、間(ま)が生まれる。絶妙な間が生まれ、対話があり、互いの心の治療が生(しょう)じたのだろう。きっとね。
 自らを受け入れ、自らの生を育む母を受け入れるのである。しわの1本1本が苦労の証(あかし)のように光り始める。
 その木下さんが桜井さんを描く。
 NHKの「にんげんドキュメント 津軽・故郷の光の中へ」(2002年、桜井さんと金正美さんとの交流を描く)を見て、木下さんは桜井さんの住まう栗生楽泉園へ行く。そして、しっかり出会う。
 桜井さんはハンセン病だった。完治しても、指がなく、眼球を摘出し(視力はない)、鼻だって、ほとんんどない。そんな形相でも、「らいになって、よかった」「らいは天が与えた職」という類まれな精神のありようによって、これまた絶妙な間(ま)が生まれ、見ているひとの心に慈しみが湧くのである。やはり、すべてが心なのである。
 「光の中へ」の桜井さん。ない指で合掌している。
 3・11によって亡くなったものへ、ひとへ。
 津波によって流れた町。町の過去のすべての記憶の喪失。
 原発事故によって奪われる未来のいのち。何万年もつづく未来の記憶の喪失。
 祈らざるを得ない祈りである。
 ひょっとして私たちが現在立つ位置はハンセン病を宣告されたときの桜井さんであるのかもしれない。受け入れ、悩み、苦しみ、ついに「らいになってよかった」の心境まで行くことができるのか。
 「光の中へ」の桜井さん。光りに包まれ、ほほえんでいた。現代の聖画だった。
(6月7日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 07:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第361回)詩をめぐる旅の日録――2012年4月・5月編
 4月があり、5月があった。私はちゃんと生きたのだろうか。別れがあり、出会いがあった。詩としか呼べないものに支えられる一日一日。それをめぐる日録だ。
  4月―日
 肥田舜太郎さん(医師、95歳)の姿をやっと見かける(東本願寺)。内部被曝、低線量被曝について、語っている。
 「もう、自分の体は自分で守る。早く寝て、早く起きて、まずトイレに行く。しっかり生活して、生きぬいていってください。」「政府や何かは、何もしてくれません。放射能汚染に立ち向かうには『生きるんだ!』という意志を持つことなんです。」
 肥田さんの全身から、声から、光が放っている。
  4月―日
 『夏子の酒』というマンガを20年ぶりに再読(尾瀬あきら、講談社、全12巻)。
 兄の遺志を引きつぎ、龍錦という酒米を育て、吟醸酒をつくる妹の夏子の物語。なぜか、ふと、何気なく、読みはじめ、止まらなくなってしまった。
 ああ、私は私のいのちの全体を愛しきることだ。オレはだいじょうぶか。
  4月―日
 『私たちの幸せな時間』(ソン・ヘソン監督、韓国、2006年)を見る。
 過去にいとこから暴行を受けたユジン。三度の自殺未遂を起こす。ある日、ある死刑囚の男に面会。互いに心魅かれ、週に一回面会を重ねていく。つかの間の希望を互いに紡ぐけど、刑の執行によって、すべてが切断される。
 社会の暗部に目を向ける誠実さと商業映画としての完成度。両者を兼ねるレベルの高さに、目を見張る。
  5月1日
 9年前のこの日、上島聖好さん(1955〜2007)たちと別れ、1人になった。私の独立記念日。1人で祝う。自由がいちばんだ。
 原真さん(共同通信)の2回目の取材を3時間受ける。連載記事「つながる」だ(いつかの京都新聞に載るだろう)。
  5月20日
 釜ヶ崎の「ふるさとの家」の労働者のミサに行く。田中愛子さんといっしょ。
 本田哲郎さん(フランシスコ会神父)の話を聞く。「イエスは新しい宗教をつくろうとしなかった。居場所がなく差別されているひとの痛みがわかるところに視点を移し、新しい生きかたを出発させようとした」。それがローマ帝国の国教(キリスト教)になったことから、変わりはじめる。
 愛子さんと別れ、中村哲さん(医師)に午後に会う。哲さん、腰と背中を痛めている。哲さんの日焼け顔、笑顔に再会。心が落ちつく。
  5月―日
 「あすを生きて、苦しんではいけない。」
 よーく、わかっている。
 なのに、肉体存在が誰かを求める。「きょうはいい天気だね」と言えば、「そうね」と返してくれるひとがいない。全くの1人暮らし。
 さみしい。自由だけど、ときどき、妙にさみしい。
 「あす」を生きてしまう。「きのう」に飛んでしまう。
 「いまここ」に戻るまでの、ちょっと苦しい5分。
  5月―日
 『世界』7月号(岩波書店、6月7日発売、よかったら、図書館で見てね)に、「ひとつの星座――自殺したくなったら、風景の中へ行こう」を書いた。
 近藤宏一さん。本田哲郎さん。入佐明美さん。徳永進さん。
 これらのひとのことを、つづってみた。「自殺したくなったら、図書館へ行こう」(『世界』2005年8月号)の続編だ。
 校正刷り見返してみる。
 「あれも書いていない」「これも言っていない」と思う。
 「加筆したい」という衝動にかられる。
 でも、このまま、送る。
 次作だ。論楽社の30年を次作に込めていこう。
 私が生きていた証(あかし)としてエッセイを残していこう。
(5月31日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 05:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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