5月25日(金)に朝日新聞の高木智子さんから連絡が入った。
「27日の午前中のNHKの日曜美術館で桜井哲夫さんの絵がとりあげられます。木下さんという画家のものがたりです。」
こんなカンタンな情報だった。
高木さんは桜井さんとも金正美(キム・チョンミ)さんとも親しいひと。
「おお、栗生(くりう)楽泉園の桜井さんの絵か」と思い、200字のお知らせ文を急いで綴った。思い浮かんでくる30人の友人に5月26日(土)じゅうにFAXした。
私はTVがないので、見ることができない。
FAXを送った時点で、気分としては終了していた。私の代わりに友人に見てもらえば、私はうれしいのである。
ところが、これで終わらなかったのである。
「見た、よかった」という電話が6本、手紙が3通、自家製カレーライスの宅急便まで届いた。関口香奈恵さんと田中愛子さんのおかげで番組の録画を見ることができたし、斉村康広さんのおかげで木下晋(すすむ)さんの画文集『ペンシルワーク 生の深い淵から』(里文出版、2002年)を借り、読むことができた。斉村さんはちゃんとすでに出会っているのであった。偉いひとだ。
一方、私は木下さんについて、何も知らなかった。さっそく『生の深い淵から』を読んでみた。
本書によれば、木下さんの実母は3回結婚し、そのたびに不幸を重ねていくような人生だった――。
2回目の結婚で木下さんが富山に生まれる。その生家が、ある日出火。近所の多くを類焼させ、故郷にいることができず、夜逃げ。隠れるようにして暮らすけど、父は失職、夫婦はケンカが絶えず、食いものはなく、弟がなんと餓死。これを境にして、家族はガタガタバラバラ。母は耐え切れず、家出を繰り返すようになる。母は兄を連れて行くので、木下さんは寂しい。埋めようもなく寂しい。ただし、富山の呉羽山(145メートル、山というより丘だね)の自然があった。呉羽山の小宇宙の自然に接し、遊べたことは、きっと現在(いま)の木下さんを形成しているのだろう。
木下さんが映画『砂の器』を見たとき、「これと同じ体験をしている!」と思ったそうだ。映画ではハンセン病者の父とその子が白装束姿で巡礼放浪。それと同じように、木下さんは母に手を引かれ、富山から奈良へなんと歩くのである。野宿しながらの徒歩の旅。母の最初の結婚相手(結核で死亡し一家離散)への墓参であった。たとえわずかなときでも母にとって、夫から深く愛された記憶はまぶしかった。つらいことがあれば、母は奈良まで墓参に行ったのであった。母は木下さんを引きつれて。
その母が画家になった木下さんのところへ、突然、やってくる。放浪をやめ、ころがりこむ。
縁深く、愛憎が半ばする母を木下さんは描く決意。
木下さんは9B、10Bから9H、10Hまでの鉛筆を駆使する。デッサンではなく、エンピツ画。もうひとつの水墨画。光と影に、いのちの記憶が描き込まれる。
母の表情がひとつの歴史的建造物のようだ。左目が少し不自由。低くて、横長の鼻。額、目元、唇のしわ。その数限りないしわ。
「立像」「流浪」の母は上半身が裸。お乳が垂れる。お乳にしわはない。
「祈り」の母は手を合わせる。手の指が太い。太い指にリアルにしわが描き込まれる。
木下さんは母をモデルとして目の前に座らせる。エンピツを媒介し、何年ぶりかの対話。エンピツと画用紙の道具のおかげで、間(ま)が生まれる。絶妙な間が生まれ、対話があり、互いの心の治療が生(しょう)じたのだろう。きっとね。
自らを受け入れ、自らの生を育む母を受け入れるのである。しわの1本1本が苦労の証(あかし)のように光り始める。
その木下さんが桜井さんを描く。
NHKの「にんげんドキュメント 津軽・故郷の光の中へ」(2002年、桜井さんと金正美さんとの交流を描く)を見て、木下さんは桜井さんの住まう栗生楽泉園へ行く。そして、しっかり出会う。
桜井さんはハンセン病だった。完治しても、指がなく、眼球を摘出し(視力はない)、鼻だって、ほとんんどない。そんな形相でも、「らいになって、よかった」「らいは天が与えた職」という類まれな精神のありようによって、これまた絶妙な間(ま)が生まれ、見ているひとの心に慈しみが湧くのである。やはり、すべてが心なのである。
「光の中へ」の桜井さん。ない指で合掌している。
3・11によって亡くなったものへ、ひとへ。
津波によって流れた町。町の過去のすべての記憶の喪失。
原発事故によって奪われる未来のいのち。何万年もつづく未来の記憶の喪失。
祈らざるを得ない祈りである。
ひょっとして私たちが現在立つ位置はハンセン病を宣告されたときの桜井さんであるのかもしれない。受け入れ、悩み、苦しみ、ついに「らいになってよかった」の心境まで行くことができるのか。
「光の中へ」の桜井さん。光りに包まれ、ほほえんでいた。現代の聖画だった。
(6月7日)