論楽社ほっとニュース

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教育って何だ――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その10)

 日本の学校の教育の問題について、「ボルト」と題して書いた(ほっとニュース11月6日号)。それは確かな思いだ。
 それでもなお、ひとにとって教育というのが必要であり、必須であることも書き添えないと正確でない。そう思う。「教育って何だ」ということを改めて書いて、押さえておきたい。
 両親以外の誰か、その人間味あふれる他者との出会いによってしか、ひとは人間になっていくことができない。そういう精神的な営みが教育そのものなんだ。
 そのことはどれだけ強調してもしきれないものとして、いまも存在しているということである。
 「生きるとは何か」「ひとを思いやるとは何か」「勇気を持つとは何か」。
 それらのことは、言葉で説教しても伝わるものではない。その生徒と教師との関係性の中に生きることでしか伝わらない。
 それはその教師が体得し、得心していることしか生徒に伝わらないという原則があるからだ。
 ひとは愛されたようにしか、ひとを愛することはできないのである。
 この教育という行為は全人類、どこの部族であろうが、いまも行われている。そうして愛、慈しみに目覚めていくのである。
 その原理に気づいた教師によって、少しは日本の学校教育でも実践は行われつづけている。それは確かだ。私は私で、ホームスクールで小さく、小さく実践している。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ボルト――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その9)

 学校の成績って、そのひとの人格人柄いのちと全く無関係。なのでそのひとの能力に関連づけてしまい、「できる、できない」と言うひとが多いのは悲しい。
 日本では義務教育(小学校)というものが軍隊のそれを真似てつくられた。日本以外の欧米の近代国家の多くもそうだ。
 とくに日本において、たとえば歩き方からして訓練させられた。江戸時代まではワシらはナンバ歩き(右手と右足を同時に出す歩き方、コレ、なかなかいいんだ)。それを無理やりに、いまの歩行(右足が出るときに左手が出る、という)へ、と変更させられた。なんで歩き方まで干渉したんだろうか。欧米式軍隊をつくろうとしたからだ。
 欧米では学校の入学式なんてない。日本ではまるで軍隊の入隊式のような入学式が挙行されつづけている。端から、日本の学校はヘン。
 「起立」「礼」「着席」も、「回れ右」「なおれ」も、言うまでもなく、すべてが軍隊式だ。いまだにやってる。意味の全くないことをやらされ、「意味を求めてはいけない」と訓練させられるんだ。
 小学校で何よりも重視されたのは、一定の時間、着席していることだ。読み書きそろばんよりも、農民を工員(工場労働者)へ変えるため、教師の指示どおりに「じいっとしていること」を求められた。
 軍隊や工場の組織の部品として生きることがいまだにひたすら求められたのである。
 将来役に立たなくてもいいのである。それが数(算)、理、社、英、国の五教科なんだ。他の料理、演劇、農業、映画、宗教……といった役に立つ教科はない。言ってみれば、つまらんことをつまらんと思いながらも、やることを要求される。日本の学校はそうなんだ。
 以上が学校についての基本の説明。
 つらいけど、わかって。
 でもねえ、私自身の体験でも、イヤだったな。つらかった。いくらボルト扱いされても、オレたちは人間なんだ。抜け落ちたボルトとしても、ワシらは熱いいのちなんだ。そうして、いまここを生きているではないか。
 いのちを耕して、学校へも立ち向かっていってほしい。「イヤだなあ」と思う心を忘れないで、抵抗していってほしい。
 イヤな気分を手放して、いのちをもっと耕して、ニコニコとほほえんで生きていってほしい。
 軍隊方式がいまだに変革できない。変革したかったけど、できてない。ゴメン。まだ、こんな学校はつづくだろう。でも、めげないで生きていってほしい。つらいけど生きのびてほしい。劣等感なんて、絶対に持たないで。不要よ。耐えて。私はヨコにいる。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
学校へ行こうか、行くまいか――ホームスクールヘ、ようこそ、ようこそ(その8)

 子どもが「学校へ行きたくない」と言ったとき、どうするか。
 両親が不安を抱えるのは自然なこと。親が不安を感じながら、もしも自らの学校時代の自らの不安を想起できれば、それで対話が始まっていくと思う。
 その対話が大切なんだ。
 私が知っている母親は「学校へ行かない」と言った子どもに「高速道路を走らなくていい。野の花を見て歩きなさい」と言った。自らの人生を振り返ることでしか浮かんでこない言葉だ。
 学校へ行く、行かないということに、「正しい答え」なんてない。
 どちらの選択しようが、その選びで親子の対話が生まれ、人生を凝視しはじめ、人物を探しはじめる旅が生まれればいいのである。
 親だって、せっかく授かったわが子が「学校でどういうことが為されているのか」をもっともっと知っていってほしいと思う。
 学校にわが子、大切な子を丸投げするのはやめてほしいな。
 「野の花を見て歩きなさい」と言った母は学校へ行かなくなった子どもと畑を始めたと聞く。
 母と子と対話と言ったけど、おしゃべりをペラペラしなくてもいい。いっしょに汗を流して働くことだって、大切な対話だ。
 子どもを思い通りにすることが教育ではない。教育の活動することによって、親も子も心が耕され、根が深くなっていくことが何よりも大切。
 学校へ行こうが、行くまいが、そりゃ、どちらでもいい。
 家族の密室に閉じこもらないで。困ったら、開いて。
 縁あって、ホームスクールへ来てくれたら、応援する。ようこそ。ようこそ。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
漢字の語源に溯りながら――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その7)

 寒い風の中、庭に白梅が咲き、木瓜(ぼけ)も咲き始める。ホームスクール(家庭学校)の最新のニュースを2つ、届ける。
 1つ、2月15日に、ことしの受験生、志望校に合格。高卒資格の検定試験を経ての入試。初チャレンジの1年前は数点差で涙。2回目のチャレンジのことしは60点アップの400点(500点満点で微笑)。まずは大変よかったと思う。
 学校はあくまでも手段。目的ではない。ひとに出会って、善知識に会って、自らの道を見つけていってほしい。
 2つ。大学生とともに水俣病という現代を象徴する病いを学んでいるとき、ふと、「現代は石器時代がまだ続く」と思ってしまったのである。
 漢字の語源のことである(白川静さんの仕事による)。「説明しよう」と必死に語っているときに、急に「石器時代」と思ったのである。
 たとえば、「民」。
 民主主義、国民主権の「民」である。
 古代文字の「民」は。目を刺している形をしている。瞳を刃(のようなもの)で突き刺し、視力を失わせている。視力を失い、神への奉仕者にさせられてきたひとびとを「民」としたのである(日本ではオカミへの奉仕者)――。
 大学生も小学生もそれを伝えると、「オーッ」と声を上げた。
 民衆であること、民にとどまることの意味を知ったからである。
 AならばAという大学に入ることを目的としてしまうと、何かを見失ってしまうのである。BならばBという国家資格をとることを目的としてしまうと、再び何かを見失ってしまうのである。目的と手段は違う。いったん何かを見失ってしまうと、ひとを大学や国家から与える資格とかで見上げたり見下げたりする。

 学びつづけなければならないことの意味も、ココにあると思う。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
どんな父母たちによって支えられてきたか――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その6)

 ホームスクールの場合、「ここはここなんだ」「虫賀は虫賀なんだ」と思ってもらっている父母のひとたちによって、支えられていることは間違いない。
 古風なつきあいかたが生まれると感じる。
 自然な感じでときどきあいさつに来られる。「その子を大切に大切にしている」ということがそのお母さんからひしひしと伝わってくる。参加しているその子がとっても楽しんでいるので、自然とホームスクールのセンセも大切にします――という感じであいさつを受ける。
 「進歩的」「革新的」(なんという古い用語だあ)というよりも、もっともっと土の香りがするお母さんが多いと感じる。根としての女の力を感じる。
 きっと私自身も体が古風さを保っているんだろう。たぶんね。
 そういう根っこの部分が共鳴しあっていかねば、ホームスクールのような動きを支えることはできないのかもしれない。そう思う。
 あるフランス人の姉妹が長い間参加してくれたことがあった。その姉妹は正座し、どこか武士の娘のようであった。フランス人なのにね。そのお父さんもしばらく参加してくれ、学びあったこともなつかしい。そのお父さんも古武士のようであったな。
 そうだ。男の子3人とも参加してくれた家のお父さんも古風だったな。お米専門の運送業だった。「はたらくって、傍(はた)を楽(らく)にさせる、のです」と言っていたのを忘れられない。
 私は基本的に「口舌の徒」だと思っている。けれども、私の父母は農民だったし、生きていくことは深い保守主義によって支えられているし、助けられていると思ってる。子どもを育てることは、そういう力業(ちからわざ)なのだと思う。
 この保守主義を、故郷の山野を守り育てる、味噌や梅干しの味を守り育てる、自らの子どもをあくまでも守り切る――意味で使っている。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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