Fさんから手紙が届く。 郵送されたのではなく、置き手紙である。玄関の上がり框(かまち)に置いてあり、翌日に発見した。 Fさんは7月からホームスクールに参加している小学校4年生だ。 「月がきれいな季節となってきました。/虫がさんは元気ですか、じゅくに行っているFです」と書き出している。 そうして「これからも体に気をつけて、勉強を教えてください。お元気で」と終わっている。 心に沁みる。 返事を書いてみた。 「Fさんのお手紙を手にし、なぜか『いしぶみ』という言葉を思い出します。石文のことです。碑という漢字もあります。 安否を知らせるのです。無文字時代のこと。元気で丈夫で過ごしていれば、丸い小石。逆に病いに臥していたら、割った、トゲトゲしい小石。その石を遠く故郷に帰る友に託します。大昔の話ですよ。 Fさんはしっかりした文字で書いていますけど、託されて届いたのは、ピカピカの丸石――。 Fさん、ありがとうございました。うれしい。」
とにかく毎回の授業だ。授業がすべての土台である。 小学生の場合、『にほんご』(福音館書店)を使ったり、『漢字がたのしくなる本』(太郎次郎社)を使い込んだりしながら、「言葉ワールド」を生み育てていくこと。 宮沢賢治さんの作品をできるかぎり音読する。日本語の表現、日本的表現を味わいながら、普通を目指すこと。 佐々木マキさん、飯野和好さん、川端誠さん、内田麟太郎さんたちの絵本をていねいに楽しんで読みあうこと。 数学(算数)をゆっくりと量の考え方によって、理解してもらっていくこと。 以上で90分間の授業時間はいっぱいいっぱい。アッという間だ。 盛りだくさんかもしれないけど。 理科も社会も作文もやりたいけど、中々できないね。 植物のこと、森のこと、昆虫のこと(とくに私にはトンボ)の話をしに野外に出てもいい。暖かくなったらね。 もっと、もっと創意工夫し、なんというか、感動のようなものが湧き上がったら、いいな。そう思う。 いちばん難しい目標だけど、これが目標。 毎回の授業を、ひとつの講演会をこなすごとく、せいいっぱいやってゆきたい。 何らかの心の輝きが湧けば、進むべき道や越えるべき課題は見つかるはず。 その子は、伸びる。伸びないはずがない。 心配はないと思っている。
花丸って、あるよね。 大きな丸を赤ペンでまず付け、次にその丸の外にいくつかの小さな丸をクルクルと付け、一周させる。花弁が咲くかのような丸印だ。 その花丸、私はいちども付けたことがない。 なぜか、抵抗がある。やったことがないんだ。 ある小学生の女の子に、あるとき、「よくできましたね」と言った。 そうして、ふと思って、花丸の代わりに、ブッダの小さなハンコを押してあげた。 想像を超えて、とっても喜んでくれた。 左手を上に上げ、右手を下に下げ、「天上天下唯我独尊」と呟いているリトル・ブッダのハンコ。奈良国立博物館で買った。 「『天の上にも天の下にもいのちの風が吹いているよ。いのちの風の中にいま在る君のいのちはただただ尊い、大切だね』という意味だ」と、その子に伝えた。 すると、その子、驚くことに泣き始めた——。 その翌日、大学生のひとにも、「きのう、こんなことがあってね」と伝え、そのひとのノートの片隅にハンコを押してあげた。 ゆっくりと「天の上にも天の下にも……」と同じ説明をしたら、なんと、その人の目にも涙が浮かんできた——。 ああ、これから、何度も何度も言葉にして、伝えていこう。 「君のいのちが必要があって、この世に来た、大切ないのちだ」と。 それが、私の役割仕事なんだ。きっとね。
「いまここを生きる」時代から続くシリーズ。「ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ」の第14回目である。 きょうはひとりの新人のことを書く。 その子、まだ小学校の3年生。両親の国籍が日本とインドネシア。ダブルの文化を持つ女の子だ。 柔らかい言葉、静けさのあるひとだ。 ホームスクールへ最初に来たとき、何気なく、絵本『森はだれがつくったのだろう?』(童話屋)を彼女が手にした。 そうして静かに「神さま」と言う。 「そうだね。そうとしか言いようがないよねえ」と私は答える。 「何を言うか」も大切だけど、「どう言うのか」がもっと大切。 彼女の伝えかたがいい。 作文を引用してみる。私が言いたいこと、伝わるかな? 私はおもしろいと思う作文。 「学校の門を出てすぐちかくで道にしみこんでいるきれいな水たまりを見つけました。 これはなんだろうと考えていました。わたしはこれを空にうかんでいるにじが水たまりにうつっているんじゃないかと思いました。でも空を見あげても空にはにじがかかっていませんでした。 考えてもなににも見えてこなかったからママをおむかえに行きました。 まだわたしは水たまりのことを考えています。」 もうひとつ。原文のままだ。 「(略)学校でべんきょうがわからないとき、頭がくらくらするとき、こんな声が聞こえます。 『だいじょうぶだよ。まずは体をうごかそう』と言う声が聞こえます。 その声はいつも聞こえると言うわけじゃなく、こまったときにたすけてくれます。 そのむねから聞こえる声をわたしはかみさまだと思ってます。 いつのまにかわたしとかみさまがあそんでいると友だちになっていました。」 私の心が整えられていくのを感じる。彼女の魂の、明るい静けさに。
ホームスクール(家庭学校)は、10代のためにだけ存在していません。 大学生、20代、30代、40代、50代、60代、70代、80代……のためにも存在しています。 そのことを改めて確信しました。 気づきました。 次のブログのコラムをもういちど、眺めてくださいませんか。 私の思い、伝わるかもしれません。
「地頭(じあたま)の思考力——ある授業」(2019年2月7日) 「乗り越える課題——続・地頭の思考力」(2月14日) 「授業・足下の言葉を掘る」(その1、2月21日) 「 同 上 」(その2、2月28日) 「 同 上 」(その3、3月7日) 「 同 上 」(その4、3月14日)
これらの授業をひとつの参考にしていただき、自らの問いを少し深める感じで参加していただければどうか、と思います。 私の性格なのか、たとえば宗教について語っていても、どここかメタ宗教(原宗教)の話になってしまう傾向があること、前もって伝えておきたいと思います。 原理と現実を行きつ戻りつの話になるかと思います。 8回がいちセット。月1回でもよし、です。時間は午後2時〜3時半、曜日は相談の上で(時間も、とくに「何を扱うか」については要相談、これらのブログのような「おまかせ定食授業」ならば、その旨伝えてくださいね)。料金は1回2000円。 まずは提案させていただきます。 その後、微調整をしていきます。 ではでは。ようこそ、ようこそ、です。