論楽社ほっとニュース

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じいさん先生――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その12)

 「おじいさん」と生まれて初めて呼ばれた。
 ホームスクールへ5月から参加している中学2年生から。
 彼女、中2だから、13歳。私とはちょうど年の差50。
 私がコンピューターがないことはすでに伝えている。だから、何かの会話の端々において、その子は「ユーチューバーってわかりますか」「ブロガーって知っていますか」と説明してくれる。
 好きな歌の話に移っていて、そのとき、その子、「おじいさんは演歌好きですか」と質問。
 「いやあ、好きな演歌、ないなあ」と私。
 「えっ!? そうですか? おじいさんはみんな好きかと思ってました」とその子。
 それだけの短い対話。
 自然な会話。
 ホームスクールの大学生からは「おっちゃん」と呼ばれているのは、すでに伝えたね。
 今度は「おじいさん」。
 自然な感じで、よかった。その感じがとってもよかった。
 そうして、思った。
 「これからは“孫”のような子たちが来るんだな」と。
 もっと、もっと“じいちゃん先生”と呼ばれるようにしていこうと。
 ようこそ、ようこそ。
 新しい出会い、待っている。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
歴史って、何?――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その11)

 ホームスクールでの対話で、「従軍慰安婦」について、否定的な発言があったね。少しびっくりしたけど。
 朝日新聞のミスを含め、「自虐史観はイカン」という攻撃がいま増している。
 では、他虐史観だったらいいのか」と思うけどね。
 「他虐史観」のひとは南京大虐殺すらも否定するけど、その南京の殺害暴行のすさまじさから「慰安婦」が考慮されていった事実は忘れないでおきたいね。
 私は思うんだ。
 「自分自身がしあわせなときは他者を憎むことはない」って。
 「自分自身に誇りを持つことは、『ああ、しあわせだ』と思う感覚を育て上げるので、自分を貶(おとし)めることはないし、そのことこそが他者他人を貶(おとし)めないことだ」って。
 「自虐」も「他虐」も、結局のところ、おかしい。
 戦争責任を認めることは、そもそも自らの内部の正義を回復するためにするのであって、誰から言われてやるものでない。他者のためにするのでもない。
 正義の感覚は内部にあるもの。誰にもあるもの。
 それが欠損すれば、生きることができない。
 だから、内発的に失敗を失敗と認め、言語化するのである。
 それができなければ、歴史は必ず繰り返すことになる。連鎖していくのだ。

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| 虫賀宗博 | ホームスクール | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
教育って何だ――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その10)

 日本の学校の教育の問題について、「ボルト」と題して書いた(ほっとニュース11月6日号)。それは確かな思いだ。
 それでもなお、ひとにとって教育というのが必要であり、必須であることも書き添えないと正確でない。そう思う。「教育って何だ」ということを改めて書いて、押さえておきたい。
 両親以外の誰か、その人間味あふれる他者との出会いによってしか、ひとは人間になっていくことができない。そういう精神的な営みが教育そのものなんだ。
 そのことはどれだけ強調してもしきれないものとして、いまも存在しているということである。
 「生きるとは何か」「ひとを思いやるとは何か」「勇気を持つとは何か」。
 それらのことは、言葉で説教しても伝わるものではない。その生徒と教師との関係性の中に生きることでしか伝わらない。
 それはその教師が体得し、得心していることしか生徒に伝わらないという原則があるからだ。
 ひとは愛されたようにしか、ひとを愛することはできないのである。
 この教育という行為は全人類、どこの部族であろうが、いまも行われている。そうして愛、慈しみに目覚めていくのである。
 その原理に気づいた教師によって、少しは日本の学校教育でも実践は行われつづけている。それは確かだ。私は私で、ホームスクールで小さく、小さく実践している。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
ボルト――ホームスクールへ、ようこそ、ようこそ(その9)

 学校の成績って、そのひとの人格人柄いのちと全く無関係。なのでそのひとの能力に関連づけてしまい、「できる、できない」と言うひとが多いのは悲しい。
 日本では義務教育(小学校)というものが軍隊のそれを真似てつくられた。日本以外の欧米の近代国家の多くもそうだ。
 とくに日本において、たとえば歩き方からして訓練させられた。江戸時代まではワシらはナンバ歩き(右手と右足を同時に出す歩き方、コレ、なかなかいいんだ)。それを無理やりに、いまの歩行(右足が出るときに左手が出る、という)へ、と変更させられた。なんで歩き方まで干渉したんだろうか。欧米式軍隊をつくろうとしたからだ。
 欧米では学校の入学式なんてない。日本ではまるで軍隊の入隊式のような入学式が挙行されつづけている。端から、日本の学校はヘン。
 「起立」「礼」「着席」も、「回れ右」「なおれ」も、言うまでもなく、すべてが軍隊式だ。いまだにやってる。意味の全くないことをやらされ、「意味を求めてはいけない」と訓練させられるんだ。
 小学校で何よりも重視されたのは、一定の時間、着席していることだ。読み書きそろばんよりも、農民を工員(工場労働者)へ変えるため、教師の指示どおりに「じいっとしていること」を求められた。
 軍隊や工場の組織の部品として生きることがいまだにひたすら求められたのである。
 将来役に立たなくてもいいのである。それが数(算)、理、社、英、国の五教科なんだ。他の料理、演劇、農業、映画、宗教……といった役に立つ教科はない。言ってみれば、つまらんことをつまらんと思いながらも、やることを要求される。日本の学校はそうなんだ。
 以上が学校についての基本の説明。
 つらいけど、わかって。
 でもねえ、私自身の体験でも、イヤだったな。つらかった。いくらボルト扱いされても、オレたちは人間なんだ。抜け落ちたボルトとしても、ワシらは熱いいのちなんだ。そうして、いまここを生きているではないか。
 いのちを耕して、学校へも立ち向かっていってほしい。「イヤだなあ」と思う心を忘れないで、抵抗していってほしい。
 イヤな気分を手放して、いのちをもっと耕して、ニコニコとほほえんで生きていってほしい。
 軍隊方式がいまだに変革できない。変革したかったけど、できてない。ゴメン。まだ、こんな学校はつづくだろう。でも、めげないで生きていってほしい。つらいけど生きのびてほしい。劣等感なんて、絶対に持たないで。不要よ。耐えて。私はヨコにいる。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
学校へ行こうか、行くまいか――ホームスクールヘ、ようこそ、ようこそ(その8)

 子どもが「学校へ行きたくない」と言ったとき、どうするか。
 両親が不安を抱えるのは自然なこと。親が不安を感じながら、もしも自らの学校時代の自らの不安を想起できれば、それで対話が始まっていくと思う。
 その対話が大切なんだ。
 私が知っている母親は「学校へ行かない」と言った子どもに「高速道路を走らなくていい。野の花を見て歩きなさい」と言った。自らの人生を振り返ることでしか浮かんでこない言葉だ。
 学校へ行く、行かないということに、「正しい答え」なんてない。
 どちらの選択しようが、その選びで親子の対話が生まれ、人生を凝視しはじめ、人物を探しはじめる旅が生まれればいいのである。
 親だって、せっかく授かったわが子が「学校でどういうことが為されているのか」をもっともっと知っていってほしいと思う。
 学校にわが子、大切な子を丸投げするのはやめてほしいな。
 「野の花を見て歩きなさい」と言った母は学校へ行かなくなった子どもと畑を始めたと聞く。
 母と子と対話と言ったけど、おしゃべりをペラペラしなくてもいい。いっしょに汗を流して働くことだって、大切な対話だ。
 子どもを思い通りにすることが教育ではない。教育の活動することによって、親も子も心が耕され、根が深くなっていくことが何よりも大切。
 学校へ行こうが、行くまいが、そりゃ、どちらでもいい。
 家族の密室に閉じこもらないで。困ったら、開いて。
 縁あって、ホームスクールへ来てくれたら、応援する。ようこそ。ようこそ。

| 虫賀宗博 | ホームスクール | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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