論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを生きる」(第313回)消えない火

 論楽社に「ぶなの森の会」があった。
 過去形であるとずうっと思ってきた。
 小冊子の『ぶな』も10号で休止している。20年間も休んでいるのだから、もう「終わった」「消えた」と思って、自然なこと。
 『ぶな』9、10号は各200冊もまだあり、6〜8号もそれぞれ何十冊がいまもあり、「ぶなの森の会」を支えていただいていて、名簿が残っているひとに、気まぐれのように、いま1冊ずつ送付している。ゆっくりと送りつつある。
 20年もたつと、身辺は変容する。「母は4年前に亡くなりました」と家族のひとから電話が入ったりする。自然なこと。
 「ずっと活動されている事、嬉しく思いました」「論楽社はボクの根っこの“肥やし“でした」という反応反答があったりする。ありがたいこと。
 しだいにはっきりと気づくようになってきた。何か。それを書く。
 20年前当時の私はなるべく私自身を隠れていた。隠れていなかったかもしれないけど、主観的には隠れたつもりで、「論楽社編集部」(こんな実体はない)「論楽社ぶなの森の会」(事務係のつもり)とか、名告(の)って、ペンをとっていた。
 いろんなことがつらかった。「終わった」と自分自身で思いたかったんだろう。
 ところが、「ぶなの森の会」の名に託した私の願いは一切変わっていないことに、改めて気づいている。
 「ぶな」は橅と書く。「役に立たない、用無しの木」と書く。杉や桧ではないけども、建材にも東北や新潟、岐阜などではちゃんと使われていたし、保水力がきわめて豊かで(実際にぶなの森では水筒いらず)、葉っぱが薄い緑なので水を透かし、下草低木きのこなどの多様ないのちを多元的にいっぱい育てていて、見事なのだ。歩いてみたら、誰しもが「この森はいいね。ずっといたい」と思う森。
 きっと橅という漢字をつくったひとは、実際の「ぶなの森」を知らなかったのであろう。
 ぶなの自然林(原生林)を戦後に乱伐過伐し、杉の人工林にしていった。ぶなの価値に無自覚で、無計画な欲望のままに「ブナ退治」「ブナ征伐」なんていう言葉すら平然と使われていた。
 そうして、ほとんどの山が杉だらけになって、台風や大雨のたびに倒れ、下流に流出している。山が荒廃している。
 橅の種が年々山に蒔かれていって、荒廃した森が再生していくのを夢見ている。再生力を信じている。
 その橅の名を冠した「ぶなの森の会」も生きていると思っている。実感している。
 亡くなったひともいるし、心病んでしまったひともいる。
 表層がそうだとしても、何があったとしても、みんな、いのちいのちいのち。
 「ぶなの森のように多様に生きていこう」という願いは、いまも現実に私の体の中にある。
 私の思いはいまも再生され、更新されている。私の中に火が灯っていて、消えていないから。
 ホームスクールにしてもそうだ。このたびホームスクール(家庭学校)の参加者たちの膨大な作文を読み直した。そうして処分して、別れていったのだが、同じように改めて火が灯っているのに、気づく。ホームスクールにおいても表層はいろんなことがあった。しかし、「もうひとつのホーム」「もうひとつのスクール」であったし、これからもありつづける。私の体の中、その火が灯っているから。火が消えていないから。
 私のいのちがあるかぎり、火は消えない。
(6月21日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第312回)一本道

 岡部伊都子さんの仏像についてのエッセイを読み返そうと思って、引き抜いた。
 そうしたら、この冊子がポロンと落ちた。
 「あっ!」という直観が働く。
 『旅のひと パリ―京都』(法蔵館、1982年、以下本書とする)。
 書き手は藤田ジャクリーンさん(以下ジャクリーンとする)。87ページの小冊子(値段も400円)。岡部さんからいただいているのに、読んでいなかった。
 一読し、「こういうのが読みたかったんだ」と思う。
 感応道交する。
 「こういうひとにこそ会いたい」と思う。
 ジャクリーンというひとが何年生まれのひとで、いま京都のどこに住んでいるのか、わからない(この冊子にも何の記載もない)。ただそう思う。
 「親鸞さまに なんのおみやげも持たず ただまっすぐにまいりました(略)一本道のこころでございます」(本書P.3)。
 これが本書の始まり。
 「くには南無阿弥陀仏のフランス/ところは南無阿弥陀仏のパリでした」(同P.7)。
 これが導入部。
 「フランスはカソリックじゃなかったのか」というツッコミは止め、まずは味わおう。
 5歳のジャクリーン、死を強く実感する。
 「生きる『私』死ぬ『私』/その『私』は何でしょうか」「この問題をひとすじに考えながら少女は普通の日々をおくりました」(同P.14)。
 「『私』は何ですか/『私』にであわないと 一生は無駄になると感じたからです」(同P.16)。
 このようにテンマルがない日本語が続く。ふしぎなまで、心の水鏡が澄んでいくのを感じる。
 14歳のジャクリーンは図書館で、あるうすい黄色の、ぼろぼろになった本に出会う。運命本。
 『SHINRAN TANNISHÔ』。
 「『SHINRAN TANNISHÔ』は見知らぬ『SHINRAN』というおじさまのこころのなかみに見えました/(略)一日中ご本をずっと読みました/(略)ただ読む前の少女に戻れないことを知りました/親鸞さまにだまされても後悔しません/ついて行きます/すべてついて行く『自分』『私』を初めて見ました」(同P.21)。
 「親鸞のこころのなかみ」。ブッダやイエスが肯定しえなかった悪の現実を生きているワシらを見つめる「こころのなかみ」。ジャクリーンという存在が澄んでいく。
 実際ジャクリーンは「親鸞に会いたい!」と思う。
 親鸞が750年前のひと(ジャクリーンが気づいた時点で)であることを知ったのは、なんと10年後(ジャクリーン24歳)のこと。これも、きわめて、おもしろい。
 親鸞の国へ行くことを決意。「出家しよう」とも決意し、ほんとうにシベリア鉄道に乗り、船に乗って、日本海を見たときに「親鸞さまの海に合掌いたしました」(同P.36)。
 「一本道は簡単です」(同P.35)って書いているけど、スゴイ。
 そうして京都で生き、結婚もし、金沢へも行き、再び京都に戻り生きている。
 ジャクリーンは法を聞く。法を見る。法を生きる。
 細部の雑多な知識は捨て去る。法そのものの本質を生きようとしている。それが他国語を母語にもつひとの日本語力によって(私は金在述さんを強く思い起こす)、「親鸞さまはずっと『法をききなされや』とおおせられます」「ただの人のまま如来さまにであわせていただけます」というニホンゴのリフレインが心に沁みる。
 法への帰依を感応する。自分自身になっていく。
 念仏をとなえれば、仏法が生活。生活も仏法なんだから、「いい」人にならなくてもいい。堕落ができなくなるから。
 自らを凡夫となげいて、本願に帰依するしかないと言うのは違う。それは念仏ではない。「まじめに法を聞くこととまじめに生きることは同じ帰依する一心です/「まじめに」それははからないでもなく 自力でもありません/それは真けんなすがたです」(同P.77)。
 法が示現したジャクリーン。妙好人。
(6月14日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第311回)血税

 現首相について、しばらく書かなかった。
 理由は直観ゆえ。内的声がするんだ。
 「もうこれ以上オマエが書かなくてもいい」「もっと他に書くひとがきっといるよ」「オマエにし書けないことを綴れ」という声だ。
 その声に従うつもり。これからも。
 ただ白井聡さんの『国体論――菊と星条旗』(集英社新書、2018年4月、以下本書とする)をおもしろく読んだので、現首相、そうして、いまの日本の土台について、いまは少し書く。例外として。
 いまの内閣は当然いずれ倒れる。絶対的な権力は、絶対的に倒れるという法則のとおりに。きっと自壊するんだ。
 ただ、戦後80年が生み出してきたいまの多層危機というものは、内閣の首をひとつ取り替えるぐらいで乗り越えられるものではない。
 本書の第一章の現天皇の2016年の「お言葉」ひとつを例に出しても明瞭にいまの危機を示している。
 現天皇は戦後民主主義の価値を守りたい。現首相はその価値(日本国憲法)のすべてを憎み、潰したい。その攻防戦。現天皇に現首相たちは「天皇は祈っているだけでよい」「天皇・皇后は改憲を邪魔するな」(本書P.17、19)と言い切った。現天皇の生きかた(全身全霊をもって傷ついた弱者の平安を祈るということ)を全否定。
 これはこれでひどい話。
 でも、天皇に守ってもらう民主主義って、いったい何か。天皇はオレたちの人生に不要と言い切るのが、民主主義じゃないの? 奇妙な話ではないか。
 戦後の本質は米国米軍の支配下の「天皇制民主主義」(本書P.130)。しかも、3.11の原発事故のときに露呈したように日本の実質は「民主主義でもない」のである。民衆がいくら望んでも、米国の許可なしには、原発ひとつ止められない。天皇制は戦前戦後一貫して継続され、しかも戦後は戦勝者の米国が主権者で、米国の利益を守るために天皇を使い「平和」し、「半民主主義(民主主義風、民主主義モドキ)」を与えられたのである。チョコレートのように天から降ってきたのである。しかも、「天皇を理解し敬意を持ったマッカーサー(米国)」という伽(とぎ)話を民衆は信じた。「鬼畜」呼ばわりしていたことは誤解だったと信じたのである。そうして結果的に戦死者を捨ててしまったのである。あるいは捨てることができると、信じたのである。ひとは信じたいことを信じる。
 その結果、「米国が我が国を愛してくれるから従属するのだ」(本書P.127〜128)という奇妙な盲従の「愛のドレイ」に戦後日本はなっていく――。
 長く書いてしまったけれども、この現実からどう抜け出していくのか。処方箋はあるのか。本書にはそれが書かれていない。でも、それが重要。処方箋を耕していくのが読み手の仕事。
 現政権は表層だ。表層だけでもこれだけのウミ。深層の実相はどれだけの根腐れか。
 まず病状をよく見ることだ。根気よく患部を洗い流すことだ。見つめれば、必ず知恵が湧く。
 まず金のこと。日本に金が余っているわけでない。在日米軍への負担額(いわゆる「思いやり予算」というドレイ予算)が86.4%にもなる(2015年度)。その血税を「ほんとうに必要なモノ」と「そうではないモノ」に区分し、後者については「血税を支出することをなるべく控えさせていただきたい」とか、くだくだと駄弁を弄し、サボタージュするドレイ作戦を繰り返すことだ。日本の官僚はみんな得意のはずだ。米国に対し、意識的にドレイである戦術を使い切ってほしい。
 そのためには自国民の人権を守る、利益を守るという思いが必須。「国益を守る」では全く不十分。「自国民の支払った血税を正当に運用する」というパブリック・サーヴァントの基本を思い出してもらえばいい。危機にこそ基本のキを思い出してほしい。
 戦死者のこと。私は都心の一等地のどこかを、国家予算をもって、買い、更地にする。その土地を何も置かない祈りの場所にする。右翼は右翼なりに祈ればいい。左翼は左翼なりい祈ればいい。どちらでもないひとはどちらでもないひとのように祈っていけばいい。あたかも敗戦を否認するかのように生き、戦死者を忘却し(あるいは靖国が奇妙に奪取か)、戦勝国のドレイになるのは、まず止めよう。孤立したドレイ国ではなく、近隣に友国を持つ、ゆかいに小さな日本をつくろう。そう思うのだ。
 6月2日(土)に沖縄の山城博治さんの話を聞いた(東山いきいき市民活動センターにて)。「あなたの現場で戦ってほしい。それが辺野古を助ける」と言われた。
 即座に「運動じゃない、生々と生きること、現場で生ききること」と思った。これは、本書への返答でもある。
(6月7日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第309回)あるがままに(その2)

 先週の「あるがままに」の続きをもう少し。
 あるがままに、いまここを生きることは、できない。
 でも、できないがゆえに、求めて生きてゆく。
 その矛盾を、あるがままに背負って生きたい――。
 そんな呟きのメモ――。

 

  4月―日
 古い映画『デッドマン・ウォーキング』を見た(龍谷大学アバンティ・ホール)。受付でもらったチラシを捨ててしまったので、出演者名も監督名も知らないので、書けない。
 凌辱殺人事件を犯した主人公が薬(毒)物注入による死刑執行にあって死んでいく。そんな史実に基づいた劇映画。
 主人公は2人の弟や母さんには心を寄せていくのに、社会全体には「居場所はない」「こんちくしょう」と思ってる。白人至上主義者で黒人のことをこてんぱんに言って差別している。そんな執着男。
 この矛盾が私には興味深い。
 矛盾をユーモアをもって表出してもらえれば、おもしろかった。
 そうしないことで、凌辱や死刑のシーンのリアルさを求めてしまい、死刑廃止運動の映画にしてしまった。残念だ。
  5月―日
 近所の「無料の貸本屋」の岩倉図書館へ、2〜3日おきに最近行っている。散歩のコースに入ったね。数分間でも立寄っている。
 「毎日新聞」の京都版を読んでいる。塩田敏夫さんの丹後版の記事を探すけど、週に1回ぐらいしか京都版には出ない。「応援したい。そのためには、まずは読まなきゃ」と思ったのである。
 ついでに青木理、望月衣塑子、朴裕河(パク・ユハ)、W・ライヒなど。いままで読んで来なかった本をリクエストしている。最近はまるで親友のように2日に1回のペースで「入荷しました」と電話がかかってくる。
  5月13日
 安楽寺へ雨の中行く。伊藤あずみさんの、5か月たってのお別れ会。
 法然の弟子の安楽。後鳥羽上皇の怒りを買って、五条河原で処刑。平安時代ずっと死刑がなかったのに。
 その安楽の寺院だ。法然院の南にある。
 昨年12月の初めに思い切って、訪ねてみた。そうしたら、「一般公開はしていない」とのこと。でも、そうは言いながらも、「せっかく来られたんですから」と庭に入れてもらった。
 その2週間後の昨年末、なんと安楽寺から出火。伊藤さん(住職夫人、57歳と新聞にあり)、焼死。
  5月20日
 43年ぶりに広島へ行く。平和記念資料館へ思い立って行く(本館が改修中だったので、東館だけだったけど)。ヒロシマはとてつもない聖地。
 明子の里の東城の大奥寺へ行ったので、ふと思って、東城から高速バスで日帰りで行ったのである。
 爆心地あたりの地面温度が6000度、7000度に達していた、と東館の説明パネルにあった。
 なんていう生体実験。「ベスト・アンド・ブライテスト」(選良)と言われるひとたちが「クレイジー・ドッグ」(狂犬、日本人のこと)を7000度の熱線放射能で殺す。こんなことまでして、ひとはひとを支配し、潰し、食う。しかもいまも続く状況。米国が示した力に膝を屈する日本の支配層。怒ることすら忘れてしまった民衆。
(5月24日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを生きる」(第308回)あるがままに

 簡単で単純なことがなかなか素朴のままにすることができない。
 たとえば、歩く、坐る、拭くというきわめて単純なことを、なかなか楽しむことができない。
 コレができれば、きっと、人生の半分の喜びを手に入れられるかも。
 「あるがままに生きる」は、難しい。コレはひょっとしてひとの究極の世界。
 けれども、あえて言葉にしたい。念仏のように言葉にして、内在化したい。「それでもあるがままに生きよう」「何者かになるなんて全く不要、逆に何者かにならぬようにしよう」。そんな言葉を呟いていきたいな。
 そんな呟きメモ。連休の9日間の日録――。

 

  4月27日(金)
 朝鮮半島の南北リーダーの握手。TVでしかと見る。
 直接の対話の意義は大きい。たとえ「戦争が平和」と言う諸勢力に囲まれたとしても、「平和がいちばん宝」と相手の目を見て声にすることがいい。まず朝鮮戦争と(日本の)植民地戦争の終結から始めるのがいい。
  4月28日(土)
 近江八幡へ行く。とりいしん平(鳥井新平)さんの退職記念ライヴに行く。
 しん平さん、同志社大学神学部へ。牧師になる。
 しん平さんの歌「人間をかえせ」を聞く。
 心に沁みる。「わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ」(峠三吉、曲・とりいしん平)。
 ゲストが大友剛さん。ピアノにピアニカ、手品、絵本。コレはおもしろい。この組合せがおもしろい。「死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他には何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった」(谷川俊太郎、曲・武満徹)。これも心に沁み渡る。
 いま、いちばん心を注いでいることが遅れている。少し早めに行って、コンサートの前に八幡を歩く。ただ歩く。ふと思って、堀(水路)の端に腰を下し、青空を眺めることにする。水面(みなも)を見つつ、雲ひとつない空を見る。ゆっくり、焦り(のような複合気分)が消えていく。いい日。

  5月4日(金、祝)
 引きつづき、15年前の手紙ハガキの整理。20年前の写真や家計簿、ホームスクールの作文の整理。捨てていくことによって、新しく出会い直していく作業。
 手紙を15通出す。新しく、いまここで出会っていく作業。
  5月6日(日)
 きょうは忙しいぞ。まず、朝6時半に明子と家を出て、大阪・釜ヶ崎の本田哲郎さんの「ふるさとの家」のミサへ。
 2年ぶりか。毎週のように参加したいのに。でも、なかなか行けない。やっと、行けた。
 「苦しみと痛み、喜びとゆたかさをも分かち合い、精霊によって、みんなが一(ひと)つになりますように」。
 ここのミサだけ。無教会派仏教徒の私にもここには居場所がちゃんとある。あるがままに、受認される。
 それから、大阪・長居サッカー場の近くの老人ホームへ。そこでYさんに再会。うれしい。ほんまに再会だあ。最後に「これしかお礼できないし」とYさんがハーモニカで「アメージング・グレイス」を吹く。心に沁みる。Yさんとハグをし、別れる。
 奈良国立博物館へ。東大寺二月堂へ。
 二月堂はいい。奈良市内を見落としながら、夕日が沈む生駒山のいまここを見つめる。
 あるがままであることは大道(オープン・ロード)。そこに戻り流れ帰ることは、楽しい。ちょっと疲れるけどね。いい日だあ。
(5月17日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
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