論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
連載コラム「いまここを味わう」(第19回)男性の中にも女神がいる

 小田まゆみさんについて、再び書く。
 「その絵は歌」(連載コラムの2019年10月10日)の続きである。
 『ガイアの園』(現代思潮社)以外の次の3冊を20日間に読んだので。
 『女神たちGoddesses』(現代思潮社、Aとする)。
 『げんきなやさいたち』(こぐま社、Bとする)。
 『きままに やさしく いみなく うつくしく いきる』(文がA・ハーバムとM・P・パヴェル、訳が谷川俊太郎、絵が小田まゆみ、現代思潮社、Cとする)。
 Aは画集。BとCは絵本。AとBは図書館で借り、Cは縁のあるひとにいただいた。
 AもBもCも、それぞれがゆかい。おもしろい。
 私にとっては、とっても未来性に満ちる。
 具体的に書こう。
 まず、Aにおいて、小田さんの家族について、知らなかったことを初めて知る。
 祖母は日蓮宗の教えを人生の中心に置いたひと、かつ、社会主義者。衆生平等を説く。でも、逮捕者まで出し、夫や家族に累が及ぶのを恐れ、なんと30歳で自死。慈悲の心溢れる姿が、みんなから敬愛されていた。
 その子の父にも平等、対等への思いが同じく人生の中心に置かれていく。日本史の教師だけども、仏教修行に心が引かれていた。禅が好きな父で、「いまここに集中し、他のことは考えるな」と言っていた。
 この2人の影響がきわめて大きいので、小田さんは書き残しているのだろう。
 Aでおもしろいのは、「女性だけでなく男性たちにも、自分の中にある女神を見つけ始めています」(AのP.8)。
 女性の中にも男性性があり、男性の中にも女性性がある。私は男性だけど、自分に「女性性がある」のを知っている。
 気づいていないと、子どもにも向かうことができない。男はいのちを生むことはできないけど、自らの女神に気づいていれば、いのちをやさしく育むことができると思っている。
 「女神は女性の中だけではなく、男性の中に、全ての人の中に住む、強く優しい、いのちそのものです」(AのP.9)。
欧米の文明は男の神が何千年も支配してきた。無機質で勝負好き自我感情だらけの、排他的支配欲の、女神にジェラシーを持つ男の神。
 そんな神が欧州を支配してきたんだ。日本はその男の神に150年前に出会って、恐怖しながら、輸入。
 ブッダだって、老子だって、荘子(そうじ)だって、女神たちがゆたかに生々と生息していたころに生まれている。当時、いかに霊性が深かったことか。なんという深さだ。
 そうしてCだ。
 「新しい船に乗って、宝の大地をつくりにいきましょう。/命を大切に『きままに やさしく いみなく うつくしく いきる』ことの豊かさを求めて」(Cのあとがき)。
 いま、「おれたちはいるんだ がけっぷち」(CのP.2)。
 「いまふみだす いっぽが これからのちきゅうをきめていく」(CのP.29〜30)。
 戦争、戦争経済、核兵器、原発。すさまじい収奪の結果の、環境汚染の地球高温化。
 いま必要なのは、すべてのひとびとのめざめ、気づきである。
 気難しい理論が必要なわけではない。男も女も老いも若きもみんながみんなに必要で十分な言葉だ。
 それがCのタイトルだ。原文は、Random kindness and senseless acts of beauty。
 強制された何かではない。ふつうに湧きあがる、他者のジャマをしない知恵と慈悲の絵本としてCを私は読んだ。
 これが、女神の力だ。いのちの大地に乗る力である。よろこびの力だ。
(11月7日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第18回)鎮静化を、活性化ではなく

 ある本を求めに、宇治まで行った。
 どうも本屋にはないようだ。
 宇治橋通りに近い七雲(ななくも)というギャラリーに、その本があると聞いたから。
 何という本なのか。野津恵子さんの『忠吉語録』(DOOR BOOKS 、メールdoorst.2134@gmail.com、本体1800円、以下本書とする)という自立刊行の本である。全152ページ、写真43点なので、ミニ写真集かも。
 宇治はとってもいい気を発している。琵琶湖から流れ出た川(宇治川)が山岳を出て、平野へ抜け出る所。ちょうど嵐山に似ている。
 宇治橋に佇むと、いい気に洗われる思いだ。空が広い。
 本書も同じように、いい気を発している。
 主人公の佐藤忠吉さん(1920〜、以下忠吉さんとする)と書き手の野津さん、カメラマンの森善之さん(森さんの店が七雲だ)、作り手に、校正者。それぞれの思いがそれぞれにしっかり放たれていて、しかも調和がある。いい本だ。
 忠吉さん、島根県の木次(きすき)町の生まれ。木次乳業の創業者。同相談役も引退しているけど、現在99歳の現役、ひとりの無役の百姓(名刺の肩書きは「百姓」)。
 何度も書いているように、本来の百姓は単ある農民ではなく、さまざまな生を紡ぎ、生に形を整えていく。家を建て、糸を紡ぎ、詩を書き、パンを焼き、次世代を育てる——という百の生を育て上げる。
 忠吉さんは、そんなひとりの百姓。そういう意味において、本書の中の「忠吉翁」という表現、「忠吉さん」でもよかったかもしれない。敬愛の念は十分に伝わってくるので、過剰に意識しないほうがよいと思う。
 忠吉さん、どんなひとであるのか。やってきたことを書いてみよう。
 1955年に木次牛乳(後に乳業)を始める。
 1961年には乳牛に化学肥料による硝酸塩中毒を発見。山野草を中心の給餌に切り替える。有機農業、全面的に開始。
 1978年、京都の「使い捨て時代を考える会」へ63度30分殺菌パスチャライズ牛乳(低温殺菌牛乳)を販売開始(このころ私は「木次」を初めて知る)。
 1982年、ナチュラルチーズの販売開始。
 1992年、エメンタールチーズ(穴のあいたチーズ、マンガ映画『トムとジェリー』でネズミが食べているね)の製造に成功。
 同年、ワイン醸造販売開始。
 1993年、品位ある簡素な村ぶくり「食の杜(もり)」づくりを開始。
 1994年、有機農業のシンボル農園としての「食の杜」を開設。
 2006年、どぶろく酒の製造開始。
 忠吉さん、反近代農業の実践者だ。つまり、「農は産業ではない」「ゼニもうけではない」「いのちの営みなんだ」を体で示現してきた。
 戦後の農政はことごとく日本の農業を潰してきた。「潰そうとして、潰してきたんだ」と思っている。そうして米国の食糧支配戦略に従い、亡国の食糧自給率40パーセント。
 忠吉さんはそんな農政を無視しつづけ、農を人生の中心に置いて、いのちを育ててきた。農、医療、福祉、教育、育児のすべてが産業ではない。あるはずがない。その根本がズレると、小手先でいくらこねてもダメなんだ。
 だから、「地域は鎮静化すべきだ」「ここが活性化すれば、どこかが貧乏になるのでは(略)。争うことなく、我慢と持久力をもって時間をかけた仕事をしていけば、資源は増えもしなければ、減りもしないはずです」(本書P.100〜101)という言葉へ至るのは自然。
 忠吉さんの言葉は今日の、明日のひとりの実践者を生み出す。そういう起爆力が本書には内包されている。
 なお、本書は『山陰中央新報』(2017年7〜9月)をまとめたもの。
(注)本書はちょうど1年前に刊行されている。宇治の七雲以外に、恵文社一乗寺店(左京区)にもある。恵文社のすぐ近くのヘルプ(40年続く、有機農産物のスーパー)には「木次」の牛乳やチーズ、ヨーグルトがある。手にしてみてね、友人よ。
(10月31日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第17回)待つこと(その2)

 (10月例会における呟きのつづき)中塚智彦さん、考えてみれば、現代の私たちの生そのものが晒されている、受身の、受動の、無抵抗である——と思っています。
 核兵器や原発の暴発ひとつを考えてみれば、良いのです。いかに晒されていることか。
 化学肥料が火薬に、毒ガスが農薬に、トラクターが戦争に、自在に変容されていく時代を私たちは生きています。農はひとにとって生きていくうえで必要。だからこそ、食糧を戦略物資とし、支配の道具にしています。農の風景は激変しています。何が何だかわかりませんね。いわば味噌と糞とを区別することは全く不可能である、と思うのです。
 諦観が必須に生まれてくるのです。
 諦観という漢語が持つ「あきらめる」の奥には「明らかに観る」という意味が宿っています。明晰に観ていきたいですね。
 その地平に立たないと、抵抗すら生まれないのではないでしょうか。
 不必要な自我感情の表出、悪あがきは気やすめでしかありません。いのちの浪費は良くありません。
 そうじゃなく、最大をよく知り欲しながらも最小をていねいに生きていく知恵が——そう、古代人の知恵が現代にこそ、必要なんですよね。「ワンランク上の暮らしを」なんていう広告に騙されていくドレイ根性、洗い捨てていきたいもんですね。
 negative capabilityなんていうイギリス語が生まれたのも、同じ地平です。同じ地上から発芽したものです。
 negative capabilityにはまだうまい訳語がありません、「答えの出ない状況を受け入れ、耐えていく力」と仮に訳しますね。
 「目がかすみ、耳も遠くなり、足腰も弱った」という老境の状況を「老人力が付いた」と赤瀬川原平が以前表現したよね。老人力という言いかた、negative capabilityに似ているかもしれませんね。どうでしょうか。
 negative capabilityを私は「待つ力」と訳したいと思います。
 中塚さんが10月13日(日)に歌ってくださった詩(連載コラム「いまここを生きる」2019年1月17日付「夕映えの山」)とおんなじ言葉を訳語に置いてもよいかもしれません。

 

いのちの問いかけに
ただ待つこと
私から問い直してみたって
いのちの問いかけが湧く場所には
届かない
ただただ待って生きて往(い)きていこう
思いのほか人生は短い
いまここを故郷にし
希望を掟(おきて)として
歩いて歌っていこう
      ——待つこと

 

 私たちひとりひとりのいのちは向うのいのちの世界から、必要があって、この世に放り込まれてやってきました。
 やってきたこの世は戦争と戦争経済に満ち満ちて、ひとびとを「ドレイ」として扱います。「ドレイの主人」にする道もあります。この道を「アメリカン・ドリーム」と呼びます。でも、ドリームのイスが用意されているか、空いているかはいささか疑問です。
 ひとをモノ扱いしてくる各メーカーの戦略にも晒されます。
 中塚さんも化学メーカーによって、晒されています。
 大変な苦労です。
 この状況、負の状況——この世のものさしで言えば、「負」なんです——を、耐えている時に、現代を越えた、遠く古代人のような知恵が湧くのだと思います。どこかブッダのような、negative capabilityが湧くんだと思っています。待っていけば、体に気づき(サティ)が入っていき、脱中心化した視点(思考、感情に対し)が生まれるのです。長島愛生園の近藤宏一さん、島田等さん、伊奈教勝さんがそうでしたもん。
(10月24日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第16回)待つこと(その1)

 中塚智彦さんの「暮らしのわざ」(10月例会)は心に多くの種子を蒔いてくれるものであった(そのレポートはニュースに書く)。
 司会進行運営をしていて、いろんなことがさかんに湧き上がる集(つど)いであった。
 参加者の発言も相次いでいた。
 考えてみれば、私、いちばん言いたかったことが言えていない。そんな思いになっているので、少し書いてみる。
 以下、その呟(つぶや)きである。その呟きは中塚さんへの手紙にもなる――。

 中塚さん、「生々と生きることが抵抗なんだ」と直観で案内チラシに書いたのですけど、10月例会に参加しながら、改めて、元気に生々と生ききっていくことが時代への抵抗なんだといま思います。
 そうです。時代と社会を覆っている戦争経済の、顔のないシステムに対する抵抗です。
 人間をモノとする時代精神です。モノとするということは、手前勝手に使って、捨てる――ひとをドレイとして扱う――ということです。
 思わずドレイと言いましたけど。、現在ラテン・アメリカにおいて先住民をことごとく殺し、金銀財宝を奪うとか、アフリカからドレイ船(3分の2のひとびとが船中で死んだ)で米国に運ばれるとか、そんなこと、いまはないにしても、ありとあらゆるところで優生思想によって、ひとびとが選別され、モノ(ドレイ)として、こき使われ、不要になったら、ゴミのように捨てられるのです。ナチスは現代にドレイ制を復活させました。ヨーロッパの内奥から育ってきました。いまも死んでいません。天皇制軍国主義は日本のドレイ制。日本の内奥から生まれつづけているものです。これも全く死んでいません。
 現代の化学メーカーは化学肥料から火薬をつくり、毒ガスを農薬に变化(げ)させています。「沈黙の春」の世界がますます深まっています。
 ナノ技術(10億分の1に小さくする技)。最初は化粧品に使って、ひとの皮膚に直接に薬品を侵入させ、「すべすべ感」をでっちあげるのに「成功」。
 そうして今度は洗剤へ。家庭洗剤のほうが儲けは桁外れにでかい。柔軟剤・消臭剤……とやたら複合させていって、CMで洗脳し、ぼろ儲け。
 香害の指摘を経て、中塚さんの言っていたように、化学メーカーは「無臭」の柔軟剤消臭剤まで販売しはじめています。
 無臭。透明。無音。無味。
 こうなると放射能と全く同じですね。まるで「寄生獣」(岩明均のマンガ)のように、近づいて、パックリ。バサリ。
 中塚さんも私もみんなもすべて例外なく、晒(さら)されています。無抵抗です。
 私は、百の生(百生、百姓、しゃくしょう)として展開し、生々と生きることによって、「なんとか打開しよう」と言いました。
 でも、それはあまりにもpositive capability(正の能力)。ラグビーのFWのように体力気力にものを言わせて前へ前へと行くことを求めたことになるのだといま思います。それでは酷になるかもしれません。力(りき)みすぎ、気合の入れすぎかもしれません。
 そうじゃない。いま、私たちに必要なのは、negative capability(負の能力)。
 ゴーバルの石原潔さんに教えられた英国のジョン・キーツ(1795〜1821)がある手紙に残していたnegative capability。
 25歳で死んでしまった詩人。母親はアルコール中毒。両親は若くして死ぬ。自らも弱かった。性病にもおかされていた。
 「不確かさの中に事態を持ちこたえ、事実や理由をせっかちに求めず保ち、不思議さや疑いの中に居る能力」がnegative capability。
 あせらないこと。あわてないこと。ガマンしながら、待つこと。忍辱(にんにく)しながら、保つこと(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書、2018年)。(この項つづく)
(10月17日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
連載コラム「いまここを味わう」(第15回)その絵は歌

 そのひとは大学生になってもなおホームスクール(家庭学校)に来てくれている。
 週に1回のペースで4年間、本を読み、対話してきた。
 もう10月になり、そろそろ総決算の本をともに選ばなければならない。高校時代から7年間のホームスクール生活のシメの本を決めなきゃ。
 なお、そのひと、ホームスクール卒業にあたって「卒論のようなエッセイを、書くのがあまり好きでないのでパス」「その代わりに歌をうたう」と言っている。
 それ、とってもおもしろい。
 歌はいい。
 さて、どんな本がいいか。けっこう真剣に、かつ、リラックスして、パッパと直観で7〜8冊の候補を選んで示し、その中から、本人に決めてもらった。
 結局、中村哲さんの『天、共に在り』(NHK出版、2013年)が選ばれた。
 「精神が自分自身の方法で大地に根ざしている」「精神が活発発地でおもしろく動いており、生きてある厳しい状況に立ち向かっている」という私の選択の思いは、哲ちゃんの「天、共に在り」そのものだ。
 年内、対話を深めていこうと思っている――。
 何冊かを選ぶとき、ある画文集が心に止まる。
 そうして、読み直し(画文集だからすぐに読了できる)、シルクスクリーン・エッチングのチャーミングな絵をそのひとに見せていた。
 何という本か。小田まゆみさんの『ガイアの園』(現代思潮社、2004年、以下本書とする)である。
 ティク・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』と『般若心経』が壮神社(この出版社、名前をもう聞かないな)から1990年代は出ていて(書店で注文しても絶版になっていたな)、それを図書館で借りて、読んでいた。当時、ティク・ナット・ハンが手に入りにくかった。
 それらのさし絵を、小田さんが描いていたのである。
 そのさし絵がとってもよかった。
 私が小田さんについて知っているのは、それだけ。
 それだけで十分。
 ティク・ナット・ハン、鈴木大拙、鈴木俊隆が広めた「アメリカ仏教」。
 アンベードカル、佐々井秀嶺の「インド仏教」。
 テーラワーダ(上座部)、大乗仏教以外の「アメリカ仏教」と「インド仏教」(新仏教と「新」を付けるひとがいるけど、それは差別だ)を忘れてはいけない。飛び火していることを。
 仏教仏法は神秘、奇跡、御伽噺(おとぎばなし)とは縁遠い、苦を解く技法。「Buddhism is not any special teaching, It is our human way. 仏教は何か特別な教えではありません、我々人間の道です」(鈴木俊隆、本書P.50)。
 小田さんは米国に渡り、二人の子どもを抱え、離婚。縁あって出会った、鈴木俊隆の「アメリカ仏教」を生活の中心に置いて、安心(あんじん)していた。ただそれだけ。その日々のいまここで見つけた小さい野菜、小動物のいのちの輝き。それを喜びをもって、絵にしていった。
 その絵は歌。私の中にもあなたの中にも畑のキャベツの中にもひとしくある仏の歌。
 日本国内の仏教(仏法)はカビのはえたような用語の重なりでどこか息をしていない。「アメリカ仏教」の風に吹かれて、生えたカビを遠くへ飛ばそう。
 小田さんの仏の歌の絵は、私の中にもあったカビを吹き飛ばしてくれた。チャーミングな絵をもって。
(10月10日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< November 2019 >>

このページの先頭へ