2010.01.21 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第238回)自死遺族者の心情から(その1)――いのちの風よ、もっと吹け
「記念日反応」「命日反応」というコトバを、昨年末に知った(高橋祥友『自殺予防』岩波新書、『自殺未遂』講談社)。
自殺者の命日や誕生日のような節目の日に、収(おさ)まっていた悲苦が改めてコンコンと湧きあがってくる現象のことだ。 事故死であろうとも、自然死であろうとも、遺族の心に並(な)べて生起する人情であろう。 ところが、自殺者の遺族の心情は、ちょっと複雑だ。 それは、自殺という行為に、起因する。 自殺は、殺人である。ところが、殺人者と被殺人者が同一人物。しかも、両者とも、すでに非存在。 すさまじい暴力行為の結末としての死体を、遺族はただただ見つめる以外に為す術(すべ)がないのだ。 ゆえに、自殺という暴力が放つ負(マイナス)のエネルギーは、遺族の心に喪失感以外に、虚無感と自責感を刻みつける。殺人という加害性に立腹すら感じながらも、被殺人という被害性に涙がコンコンとあふれるのだ。引き裂かれながら、5年、10年、15年……と苦しみつづけなければならない。思いのほか、歳月・時間というものは解決してくれないのだ。もしも負(マイナス)の連鎖反応がはたらけば、遺児が再び……ということも少なくないのが、つらい現実である。 どうも私も自死者の遺族の1人のようで(小さな笑い)、その「命日反応」というのが、起きた。 昨年10月末の命日の直後から、1か月半にわたって、フラッシュ・バックした。1997年から2003年にかけての《地獄》の日々が思い出されてならなかった。「もう大丈夫や」と思っていたので、不意をつかれ、殴打されたようで、びっくりした。 でも、落ち着いて、対応できた。 解決はいのちに即して行うものであることを身に沁みて知っているので、次々と湧きあがってくる感情に敬意をもって接していった。「つらかったね」と非暴力的に受認していった。そして、秋山や雪山に入り、自らの野生を大切にし、「野生をますます太くする」というイメージを深めてゆき、対応していった。 こんなことに慣れてもしかたないんだけど(小さな笑い)、あわてずに対処できて、よかった。 “荒天の山行の修行”から下山してきた昨年末に、ひとりの友人が入院した。 抗ガン治療を受けるという。 それを聞いたとき、心の風車がグルグルと回りはじめ、こんな「詩」が湧いてきた。 あんまり上手だと友人の体にさわるので(笑)、ヘタのまま、素(す)のまま、届ける。 友のいのちへ。そして、ついでに私のいのちへ。届け――。 風――入院した心の友へ(1月21日) 以下、注釈3つ。(1)「天上大風」、良寛が子どもにせがまれ凧(たこ)に書く。(2)「造化(ぞうげ)」、芭蕉が芸術を生む源泉と考えた(「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」『笈の小文』)。(3)「業報(ごうほう)」、親鸞は「業報」にすべてをさしだし、本願をたのんだ(「よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはさふらへ」『歎異抄』)。 |