2010.02.04 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第240回)その日、鳥取は雪だった(その1)――上海からやってきたTさん
びっくりした。ほんとうに、ちょうどTさんのことを考えていたからである。
1月26日(火)にTさんからメールが入った(といっても、私はパソコンもケータイも持っていないので、私宛のメールを楢木祐司さんがわざわざFAXしてくれるのであった)。 《お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか? 私はいま上海に住んでいます。2005年9月からです。》 《(上島)聖好さんの自死をいま知りました。すでに2年以上も前に……。なんだか強く殴られたような状態でいます。1月31日の1月例会に参加するために帰国することにしました。》 いま、Tさんは上海なのか。道理で手紙が届かなかったわけだった。 「そうか、そうか」と思って、返事のメールを送った(といっても、繰り返すが、私が手書きで「お待ちしております」と書いて、FAXし、楢木祐司さんに送ってもらうのだった)。 何を考えていたか。 あれは、2002年1月10日だった。ちょうど8年前のことである。 その日、汽車が中国山地を越え、鳥取に入ると、雪だった。 その日に初めて会うTさんのお父さんは、末期の肝臓がんであった。 その彼を、開業して1か月後の「野の花診療所」に紹介案内するのが私の役まわりで、Tさんと3人で、やや緊張して、汽車に乗っているのであった。 Tさん父子は、大阪人だ。鳥取とは縁もゆかりもない。彼は「死ぬことは覚悟しているし、恐くもない。いたいのだけがかなわん」と話す。 《「人生のラストの舞台」を「野の花診療所」にしよう》と決意しているのだ、きっと。そう思いながら、車窓の外をながめると、まっ白な雪なのであった。 彼は、即入院。 忘れられないのは、次の会話である。 徳永進センセに「あの、センセ、酒はのんでもいいでしょうか?」と彼は聞く。 進さんは「いいですよ」。 「ワインは?」「もちろん、いいですよ」。「朝からのんでも?」「いいですよ」。 「満天星という地酒、いいです」と進さん。「そうですか」と彼。 いいでしょう? 3週間後に、私は見舞いに行った。もういちど顔を出してみた。その日も、雪だった。 彼は喜んでいた。「いたみをきちんととってくれる」と、安心しきっていた。 鳥取の地魚の料理も、診療所の食堂(「ターラ」という屋号、「ターラ」はネパール語で星)のおばちゃんに“特注”しているようで、身も心もすこやかそうだった。 でも、その日が彼に会った最後。 7週間の入院で2月末に70歳で亡くなっていった――。 それ以来である。 Tさんは、ほんとうに1月31日(日)に論楽社へ、上海からやってきた。 朋(とも)遠方より来たる、である。久闊(きゅうかつ)を叙し、ここ10年、20年のことを私は正直に述べ、語りあった。 その日は月例会が始まる前の1時間だけであったが、2月2日(火)の日も、昼食をはさんで4時間話した。気持ちのよい対話であった。亡くなったお父さんとのシビアな関係も、初めて聞いたのだった。 「八坂神社へ行きたい」とTさんが別れぎわに言うので、行くことになった。 行ってみると、節分祭であった。 祇園・宮川町の舞妓が境内の舞殿で舞を奉納。そして、福豆をまいた。 「こっち、こっち」と手を伸ばしていたら、Tさんがダイレクト・キャッチ。私はどなたかの体にあたったのを拾って、ゲット。 「ことしはよいことがあるんだ。虫賀さんも、いいですか。女のひとのいるところに、積極的に顔を出して、積極的に動くんですよ。もう時間がないんだからね。」 年下のTさんがしきりに姉さんのように語りかけてくれるのであった。 (2月4日) |