2010.02.25 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第243回)ある体認――故郷が産土(うぶすな)として体に入ってくる
2月21日(日)、岐阜へ帰った。
あるひとの見舞いのためである。 何度も書いているとおり、岐阜は私の故郷である。 入院先の病院は、笠松(かさまつ)町にある。岐阜市と、私が生まれた羽島(はしま)市との中間に位置する町である。 いまでこそ、笠松は小さな町。だが、江戸時代には木曽杉やヒノキの集積地として賑わい、陣屋も置かれていた。御一新(明治維新)の直後には、岐阜県庁も置かれた。でも、鉄道の駅の設置に失敗。駅設営に成功した岐阜市に県庁が移り、笠松町はゆっくりと100年かけて寂(さび)れていった。 25、6年ぶりに、私は笠松のなつかしい、古い町並みの道を歩く。 杉本家(材木商の旧家)が一般開放されていた。入ってみると、昔ながらの土間があり、奥座敷に雛(ひな)人形が並べてあった。 八幡神社に入り、クスノキ、イチョウの樹皮に手を触れてみた。 そのとき「八幡さんの縁日の賑わい」を思い出してきたのだった。さまざまな人間の風景が思い出されてゆくのだ。 実は子ども時代に、私の生家から、ときどき笠松の町に来ていた。チビのころの体力で、自転車で25〜30分、かかったのではないか。 42、3年前の私が顔を出していた本屋は廃業していたが、呉服屋や和菓子屋はそのまま残っており、びっくり。 「あ、夢によく出てくる町並みはココ」という思いが溢(あふ)れてくるのであった。 人生は、きっと年輪のよう。笠松を歩いていると、いままで潜んでいた年輪の「古層」が活発に動きはじめ、浮かびあがってくるのだ。 私にとって、「なつかしさ」は過去へのノスタルジアだけではない。もっと活発な、未来性に満ちた感情表現。 「いまここ」の線路に、「古層」のレールが連結してくるのだ。ガチャンと音をたてて連結し、笠松という小さな町のいまここに私は包まれていった。 木曽川の岸辺に出てみた。 堂々とした水量で、滔々(とうとう)と流れている。 ガキのころのホームグラウンドは、この木曽川である。魚をとり、秘密基地づくり、野球……と遊びに遊んだ。遊びまくった。そのころ、「クソ川」と悪口を言ったのが申し訳ないほどに、洋々と活々と南へ流れている。水、水、水である。命水が流れている。 堤から、東北のはるかかなたに御岳(おんたけ、3063メートル)が望める。まん西に伊吹山(1377メートル)が拝める。 それぞれ雪を冠している。心に沁み入る純白色である。まるでチベットのカイラス山のようだ。 初めてだ。54年の人生で、こんな感じは初めてだ。 故郷の山、川、町がありのまま、在るがままの姿で、つながりあったいのちの形で、私の中へ入ってくるのだ。「気」がぐうっと入ってくるのだ。 わが産土(うぶすな)、産水(うぶみず)、産山(うぶやま)という思いである。「オレがここに生まれ、ささやかな年輪を重ね、ここに還ってゆくのだ」と思うのだった。体認――、体でそう認識したのだった。 見舞いの約束の時刻来たので、急いで病院へ。そのひとは思いのほか、だいじょうぶそうだったので、安心。 病院の7階から、木曽川、御岳、伊吹山をたっぷりと見つめ、帰路についた。 岐阜市に寄る。全く偶然入ったうどん屋(さぬきや、岐阜市徹明通1-26)に熊谷守一さん(1880〜1977)の書「おかげさま」が掲げられてあるのにびっくり。そのうどん屋のお父さんが生前の守一さんを支えたという。 「96才 守一」とある。絶筆だった。 わが産土の地がますます好きになって、京都へ向かった。 (2月25日) |