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連載コラム「いまここを紡ぐ」(第258回)ある夢の促し――原生命の声をもっと聞いて、生きてゆかないか
 こんな夢を、昨夜見た。
 《論楽社の近くの目無橋を渡ろうとしていた。
 橋の真ん中に棟方志功(板画家;以下志功とする)がいた。バスの窓から転(ころ)げ落ちてきたのであった。
 志功自身、「なぜ落ちたのか」が自覚できぬまま、茫然自失。佇(たたず)んでいる。
 私は「うれしい」「生(なま)の志功に、やっと会えたね」と思った。なのになぜか鉄仮面の表情をつくって通り過ぎようとする……。
 そのとき、女の子から声がかかった。
 「志功が落ちていますよ」と。
 「え!?」といま初めて気づくふりをし、甘い声のしたほうを見ると、長い髪の愛らしい女の子だったので、ドキドキ。フラフラと彼女に近づこうとした。
 すると、志功が、突然、目の前でカエルに変化(へんげ)。
 「世界へ帰る」とハスキーで荒々しい声で叫ぶやいなや、ぴょんぴょんと跳びまわりながら、手をパチパチとたたくのだった。
 そして、岩倉川の中へ、橋の上から飛び込んでいった……。》
 以上である。
 夢の中でも、「世界へ帰る(カエル)」とダジャレているのには、苦笑。
 目無(めなし)橋は、実相院のすぐ手前にいまもある。岩倉川にかかる朱塗りの橋だ。
 目無橋を渡れば、曾(かつ)ては結界であり、異界であった。大雲寺の構内であった(現在、大雲寺は、ない)。1000年前から心や目を病んだひとびとが集(つど)い、治癒していった領域でもあったのだった――。
 その橋の上から、志功がカエルとなって、岩倉川の中へ往還していったとき、思わず、「アッ!」と声を出しそうになった。
 改めて言うまでもなく、夢の中の志功は、現実のアーティスト・棟方(むなかた)志功(1903〜75)では、ない。
 私の中の何かだ。その投影である。
 もちろん、その「何か」に、私は気づいている。
 いつも、私が無理をしているときだ。きまって、夢に“志功”が出てくるからだ。
 「何か」とは、ダイナミズムである。
 原生命の躍動である。
 その象徴が、“志功”なのだ。
 私はそう思っている。
 その原生命が、ダミ声で語ってくれるのだ。
 《右顧(うこ)左眄(さべん)していて、どうする!?
 何にそんなに気を使っているのか!?
 なんも気にしないでいい。
 ただただ彫(ほ)っていればいいんだ。
 体ごと燃えて、体の芯から妙になって、ねじれて、酔って、体あたりして、彫っていくのだ。
 ゴッホのひまわりのように、ムナカタの拈華(ねんげ)微笑(みしょう)のように、グルグルして目がまわるような世界をどうしてつくらないのか。
 もっと、君、狂えるよ――。
 人生という板業(ばんぎょう)は板行であって、からだごとぶつかる行(ぎょう)なので、もっとよろこんで行に入ろう。》
 毎週毎週、このコラムで、わかったようなことを5年間にわたって、私はつづっている。でも、実はまだまだわかっていないのだ。口先だけなのだ(笑)。
 「驚イテモ、オドロキ限(キ)レナイ、歓コンデモ、ヨロコビ限(キ)レナイ、哭(カナ)シンデモ、カナシミ限(キ)レナイ」(棟方志功「板哭韻(ばんこくいん)」――これこそが、生きることなんだ。
 原生命の声をもっともっと聞いてゆこう。でないと、生ききれないぞ。
(6月10日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) |









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