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苦を滅する技法――プラユキさんの「講座」のレポート(その2)
 2週間が、過ぎる。「あっ!」という間である。
 FAXが3本、入ってきている。
 読んでほしい。
 まず1本目は、藤松奈美さん。
 そうか。「あの時怖くて苦しかった」のか……。
 先日、今年から始めた亀岡の畑に行ったら、一ヶ月ほど前に植えた種から小さな芽が出ていました。びっくりするくらい、細く頼りない。色だって薄い薄い緑。でもまっすぐに空に向かってのびている姿に感動しました。
 初めて訪れた論楽社は、窓がとても広く、新緑があふれていました。穏やかな空気の中で、表情豊かで心の奥にすっと入り込んでくるようなプラユキさんの講話に聞き入りました。だけど、実は私はあの時怖くて苦しかったのです。もうすでに渇愛のサイクルに入り込んでしまっていることに気づいたから。数年前に得てしまった喪失感が消えていないこと自覚させられました。見ないようにしてきたのに。
 苦しみを見つめることから始まる。なんだ簡単なことだと思う人もいるかもしれないけれど、それが一番怖いことだと思ってきたので、ずっと知らないふりをしてきました。もうそろそろ限界ですよ、と、教えてもらった気がします。論楽社に出会ったのも、プラユキさんのお話を聞くことができたのも、不思議なご縁が重なってのこと。強がらずに、ご縁に身を任せ、自分を見つめてみようと思います。
 畑に野菜ができるころには、何か少し変わっているでしょうか。畑作りも、自分を見つめることも、初心者だけれど、ちゃんと水をあげて、育ててみたいと思います。夏に、みなさんとおいしい野菜が食べられればいいなと思っています。
 次の2本目は、田中愛子さん。
 順観と逆観っていう把握のしかた、スゴイ。苦を内観しているんだ。
 プラ・ユキさんの講座では「四締」と「十二縁起」について教えていただき有難かったです。無明、行、識、名色……と続く「十二縁起」とは、一番目の「無明」ゆえに、人は苦しみや悩みを自らつくり出し、それらに引きずられ、取り込まれ、固定化していくという過程を客観視(順観)するためのツールであり、その過程を逆観すると苦を滅することができるという教えは本当に明快でした。
 大変不遜な発言ですが、私は、仏教的な修行はおろか瞑想さえろくにしたことがない人間ですが、「私はこれらの過程を少しは観てきた」と思えたのです。
 プラ・ユキさんのような厳しい修行ができない人間でも、この「ままならない」人生の中で苦行をし、その「苦」を自らの無明に気づくための糧とする手立ては常にあるのではないかと感じました。
 藤松さん、田中さん、ありがとう! ホントにアリガトー。
 3本目は、Sさん。厳しい病を得た44歳のかた。
 8歳、4歳の子どものことを考えると、「お先まっ暗になりました」。「今朝もそうでした。午前3時ごろ、うなされて目覚め、ものすごい怖い気持ちで一杯になりました」。
 Sさん、長文のFAX、ありがとうございます。
 何回も読んで、かつ、いまも読んでいます。Sさん、いまのまま、ヨガを深められてゆかれるのがよいのでは……。あるがままに「いまここ」を呼吸されてゆかれるのがよいのでは……。そう私は感じます――。
 Sさん、お問い合わせの、私のオススメ本は、ポー・オー・パユットー(タイのヤーナウェーサカワン寺住職)の『テーラワーダ仏教の実践――ブッダの教える自己開発』(サンガ、2007年、編訳・野中耕一)。
 いちど図書館でリクエストしてみて(同じタイの高僧の訳書が、同じ出版社から『仏法――テーラワーダ仏教の叡智』『仏法の思考と実践――テーラワーダ仏教と社会』と出ていますが、前掲書がいちばん薄いので……)。

 では、では。またお会いしましょうね。
 Sさんも、田中さんも、藤松さんも、そして、プラユキさんも、ありがとう。感謝だ。
 苦は人生の出発であっても、終着では決してない。抜苦が可能であり、その技法はすでに手の中にあるのだから。だいじょうぶ、だいじょうぶ。そうでしょう?
 では、お大切にね。
 お元気で!
| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 17:34 | comments(0) | trackbacks(0) |









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