2010.06.17 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第259回)権力の精神――陸奥宗光の『蹇蹇録』について
陸奥宗光(1844〜97)について、少し書く。
実は、やっと、念願だった『蹇蹇(けんけん)録』(岩波文庫)をいま読了したところである。 陸奥宗光(以下、宗光とする)は、不幸にして、日清戦争が1894年に勃発したときの外務大臣であった。 「東学党の乱」から三国干渉へ至る1年間の外交戦略の軌跡を、当事者として口述した記録が『蹇蹇録』である。 蹇蹇匪躬(ひきゅう)トシテ君主ニ仕エル(『易経』)。すなわち、心身を労し、全力で忠誠を尽くすという意味だ。 この言葉をタイトルに付していることで明白なように、虚々実々が織りなす帝国主義外交ゲームにおいて、次々と手を打って、実際、勝利に導いていった、ひとりの日本の帝国主義者の精神の記録である。 政治とは、可能性の技術である。ラグビーと同じように、さまざまな可能性の中から、「いまここ、ただちに」の論理をまったなしで選択させ、優先させ、トライになんとしても持ち込んでいく技法である。しかも、結果責任のすべてを一身に負わねばならない。 マックス・ヴェーバーが定義したとおり、「情熱」「判断力」「責任感」の3つが揃(そろ)わないかぎり、政治家は務まらないと言ってもよいであろう。 宗光は、日清戦争を指揮しながらも、同時にイギリスとの不平等条約の改正交渉を進め、対等条約の調印に持ち込むことに成功している。その構想力には驚嘆する。「余は当時何人を以て此局に当たらしむるも亦決して他策なかりしを信ぜむと欲す」(『蹇蹇録』の結語)と言い切っちゃう自信むんむんさにも驚愕(がく)するが(笑)。 でも、その胆力にあふれる構想力はいかにして形成されたのであろうか。単なる個人的資質能力だったかもしれないが、宗光の前半生が育てあげた面があることは間違いがないのではないか。 どんな人生だったか? 私の考えるポイントは次の3点だ。 その1。宗光の父は宗広といい、紀州和歌山藩の重役であった。国学者でもあった。けれども、政治抗争に敗北し、幽閉される。宗光が9歳のときのことだ。 一家は困苦窮乏。宗光は若くして江戸出奔。そして、脱藩。 「政治とは何か」「人間とは何か」を宗光は全身で考えざるを得なかったはずである。 その2。宗光19歳のとき、同じく脱藩者の坂本龍馬(1835〜67)に出会っている。1863年のことだ。 脱藩とは亡命である。パスポートなしの異郷生活者である。11歳年上の龍馬を宗光は頼りにし、兄事していった。もちろん龍馬の闊達な気性、包容力、剽(ひょう)げ者(もん)ぶり、そして、何よりも亀山社中・海援隊を創設し、薩長同盟、大政奉還を実行させていく構想力――驚異すべき構築力!――に魅惑されていった。 宗光の絶筆「後藤伯」において、龍馬をこう評している。「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。(略)もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼もとより土佐藩の一浪士のみ(略)」。龍馬は宗光の唯一の師であった。 『蹇蹇録』は、私には、「生きのびた龍馬」の可能性を示してくれる気がしてならなかった――。 その3。宗光は1878年、逮捕されている。西南戦争時の土佐立志社系の政府転覆計画に加担したからである。4年4か月、獄中生活を送ることになったのだった。薩長藩閥独裁勢力にむかって、「もうひとつの維新」を企てようとした(「生きのびた龍馬」もそうしたであろうか。それとも、権力からはるかに離れて立っていたであろうか)。 宗光の抜群の才幹を惜しむ伊藤博文が恩赦出獄させ、1年9か月間、外遊留学させている。 帰国後、駐米公使、農商務大臣、そして、外務大臣へ。まるで自分自身の寿命を知っていたかのように、自己の能力だけを頼りにして、意識的に権力中枢に入り、自覚的に権力を行使し、日本史上初めての対外戦争を指導し、54歳で――ちょうど、いまの私の年齢だ!――、急死していったのだった。 宗光の出処進退に対し、在野勢力から《転向》《屈服》という批判があった。それに対し、宗光は「何を言うか。《屈服》したのは私ではなく、藩閥勢力だ」と言いきった。実際、伊藤博文は藩閥勢力のよって立つ理念の実行者としての宗光を欲したのであった。たしかにそうだったのだ。でも、そう言いきっちゃうところが、宗光であった。 (6月17日) |