2010.06.24 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第260回)反権力の精神――中江兆民の『三酔人経綸問答』と『一年有半』について
中江兆民(1847〜1901)について、これまた少し、書く。
前回の陸奥宗光(1844〜97)が権力者の精神の運動の記述者とするならば、中江兆民(以下、兆民とする)は反・権力者の精神の体現者と言ってよいであろう。 けれども、兆民は単なる反・権力者では、ない。非・権力、脱・権力、超・権力……と動くひとだ。まるで棟方志功のように、ポンと飛ぶんだ。ほんまにアナーキーである。もしも、兆民が単に反・権力者という存在だったら、息がつまるだけのひとだし、『三酔人経綸問答』(岩波文庫)という奥行きのある傑作――もっと現在においても読まれてもよい名著だ!――を、表出することもできなかったのではないか。 本箱の『三酔人……』を久しぶりに取り出してみる。求めて35年になるか。当然、紙が黄土色に変色している。漢和辞典を引いて、メモしているところが多々あり、気恥ずかしい。「けいこをつけてもらったのだ」という思いの文庫本である。 『三酔人……』の構造は、いたってシンプル。洋学紳士、豪傑君、南海先生の3人が「金斧」というブランデー(ヘネシー)を飲みながら、政治談話をするんだ。 対話をしているだけでは、現実の諸問題はひとつも解決しないけれども、何ともならない厳しい現実をよくよく見つめることができる。自らの内部の苦悩も、苦しむ私自身以上に、苦を見つめるもうひとりの私自身を育てることによって、消尽させるというブッダの技法がある。そのように、直面している現実の問題のありかを正確に見つめることによって、必要以上に苦悩しなくてもよくなる効果が、対話には確かにある。 洋学紳士は「民主家」。民主化徹底が軍備撤廃に結びついてゆく自説を滔滔と述べ立てる。 豪傑君は「侵伐家」。洋学紳士の軍備撤廃というところのみに反論。「戸締なしではないか」と論を飛躍させ、弱肉強食の世ならば、こちらから積極的に侵略すると主張。 南海先生は両者を批評。双方から反論を受けて、曰(いわ)く、「立憲制と上下議院を設け、外交においては友好を重じ、言論出版は漸次(ぜんじ)自由に、教育も産業も漸次発展させる」と。「もっとスルドイことを言うか」と思っていた2人は、「子どもだって知っていることじゃないか」。先生曰く、「邦家百年の大計を論ずるに至りては、豈(あに)専(もっぱ)ら奇を標し新を掲げて、以(もっ)て快いと為(な)すことを得んや」。 以上である。3人が3人とも内部に実在しているのが、兆民の器量。ゆえにリアリティがあったのだ。 でも、1887年に生まれた『三酔人……』の枠組みの中で、その後120年間、日本が苦闘してきていることに、あらためて私はびっくりしている。そう思わないか? 兆民は1847年、土佐藩のわずか4石高(当時の大人は年に1石=10斗の米を食った!)の足軽の家に生まれる。藩留学生として、1865年に長崎へ。そこで坂本龍馬に出会っている。たちまち龍馬に魅せられ、「中江の兄さんタバコを買うてきておうせ」と言われると、「エラキ人なりと信」じていた兆民は喜んで買いに走ったのだった。 1871年、アポなしで大久保利通に直談判し、援助を受けることに成功。フランスに1年7か月留学。帰国後、元老院書記官になるが、上司の陸奥宗光とケンカし、退職。 1881年、『東洋自由新聞』を主筆として創刊(政府によって廃刊)。自由民権運動の理論的指導者として、1890年、第1回総選挙で当選。でも、自由党の内紛裏切り内輪もめにイヤ気がさし、衆議院議員を辞職。「小生こと、近日亜爾格児(アルコール)中毒病相発し、行歩艱難、なにぶん採決の数に列し難くよって辞職仕リ候」。 1901年4月、喉頭ガンを宣告。余命一年半と告知される。手術後、声が出なくなる。でも、悠々と酷暑の中、筆をふるい、『一年有半・続一年有半』(岩波文庫)を「生前の遺書」として、弟子の幸徳秋水(1871〜1911)に刊行してもらう。神の不在、霊魂の否認を闊達に、洒脱に論じながら、同年12月死去。まだ、55歳であった。 兆民。ここにも「もうひとりの生きのびた龍馬」がいて、日本に生まれた私自身というものを明るく感じさせる、何とも言えぬ柔らかな光を放っている。 (6月24日) |