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連載コラム「いまここを紡ぐ」(第263回)社会的包み込み(ソーシャル・インクルージョン)――出雲への旅で改めて思ったこと
 島根県の出雲へ7月10日(土)に行ってきた。
 3回目である。6年前の最初のときも、3年前の2回目のときも、そして、今回も、なつかしい気に満ちる奥出雲であった。
 斐伊(ひい)川の上流であり、船通(せんつう)山(1142メートル)の麓である奥出雲――。
 特別の何かがあるわけでは、ない。でも、冬の1メートルを越える積雪の恵みなのだろうと私は思うのだが、深山幽谷を思わせるゆたかな植生が生成されており、私にはなつかしさを特別に感じさせる小盆地だ。
 私と塩田敏夫さん(毎日新聞記者)の2人が、その地に呼ばれ、なんと対談講演をすることになったのである。タイトルが「いのちにカンパイ!」――。しかも、第1部が「タイ・スカトー森林寺の修行記」、第2部が「図書館づくり」と続く長丁場の舞台(?)。初体験の漫才(?)である。大丈夫か――。
 心配することは、なかった。
 企画してくれた友人の宮森健次さん、会場の妙厳寺の安部貴彦さんをはじめとした「ポケット」という名のサークルのひとびと(代表・岩沢彩子さん)のなつかしいやさしさによって、初舞台(?)をふむことができたのであった。
 あのやさしさは、小盆地の小宇宙の自然空間に感じるのと同じように、包みこむものであると思った。したがって、第2部の「図書館づくり」において、私は思わず、「いま必要なのはsocial inclusion(ソーシャル・インクルージョン)だ」と言ってしまった。
 「社会的包摂」と訳されるが、“社会的包み込み”としてもよいコトバなのではないか。
 半年前に読んだ本の中に出てきたコトバを、私は対話をしながら、ふいに思い出したのだった。
 いま、その箇所を探し出してきた。引用してみようか。
 「人間は『あなたじゃなくって、誰でもいいんだよ』という代替可能性を突きつけられると、存在の根拠が揺らいでしまいます。自分が意味ある存在として社会の中に位置づけられているという実感がないと、私たちは『生きることの底』が抜けてしまいます。
 だからこそ、人々の関係性が希薄化し、人々の承認の場が失われた流動的社会では、『社会的包摂』の機能を再構築する必要があります。人々の『居場所』や『人間交際の場』を作り出していく必要があります。」(中島岳志、『ガンディーからの〈問い〉――君は「欲望」を捨てられるか』NHK出版、2009年、P.68)
 「オレという存在は、1つのボルトなのだ。ヴァーツラフ・ハヴェルが言ったような《1本の抜け落ちたボルト》なのだ、きっと。」
 そう思い込んでしまうのは、私という存在を承認する場がいつの間にか流失してしまい、のっぺらぼうの顔のない現代経済社会に直接的に晒されてしまっているからである。
 ちょうどバラやユズのせん定を、ティーシャツに短パンの姿でしているようなもので、きわめて危険な状況なのだ。トゲが素肌に刺さりつづけるのは、自明のことだ。
 崩壊してしまった村落共同体や半崩壊の家族共同体をリフォームするのは、困難な作業が伴うことは、言うまでもない。
 でも、奥出雲の「ポケット」のひとびとは、すでに包み込みの器量を有しているではないか。スゴイことだ!
 そのことに気づいて、そのままの姿で、もう少しだけ内発的に心を耕せば、よい。あせらなければ、必ずや泉が湧く。
 滋賀県の図書館のイメージにふりまわされないようにね(笑)。あるがままに、それぞれの居場所の根を深め、新鮮な奥出雲・図書館モデルをつくってね。
(7月15日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 08:56 | comments(0) | trackbacks(0) |









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