2010.07.22 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第264回)悼むことによって得る新しい生――『悼む人』が示していること
いつ聞いても、ふしぎな気分に陥らせる言葉で、ある。
ジンシンジコ――。 駅のホームにときどき流れる放送に登場する言葉だ。 「JR琵琶湖線、ただいま、ジンシンジコの発生のため、ダイヤに大幅な遅れが生じている。お急ぎのところ、ご迷惑をかけ、まことに申し訳がない」と、早口で繰りかえされるアナウンス――。 人身事故とは、改めて言うまでもなく、投身自殺のことである。 昨年も自殺者が3万人を越えた。なんと12年連続し、3万人を越える、とてつもない数のひとが、自死したのである。「まるで内戦のような状況だ」と私は思っている。 《15分、20分の遅れという不利益(損失)を君に与えたことについては、詫(わ)びよう。でも、ジンシンジコの発生なんて不可抗力。当社に、責任は一切なく、当社だって被害者なのだ》――。JRは、こう主張したいのかもしれない。 でもでも、ジンシンジコなんていう無機質な言葉を平気で使い、しかも、慣れてしまうと、どのひとの死も、フラットになってしまうのではないか。「無関係の、どうでもいい、テキトーな死」という想念に、それぞれのかけがえのないひとの生と死を溶け込ませてしまってよいのか。 やっぱ、ひとは悼(いた)むときには悼まなければならない。 その原則は、曲げてはならないのではないか。 でないと、わが心が傷つくのだ。それこそが、すでに、人心(!)事故の二次災害が発生しているのではないか――。 3か月前に、ある小説を読んだ。 天童(てんどう)荒太(あらた)さんの『悼む人』(文藝春秋、2008年)である。 編集者のSさんから、天童さんと徳永進さん(野の花診療所)の対談(月刊誌『文藝春秋』2010年3月号)のコピーを送ってもらい、惹(ひ)かれたからである。 天童さんについて、予備知識はなかった。他作品を読んだこともなかった。でも、「これは何かある」という直観がはたらいたので、トライしてみた。 当たった。とっても、おもしろかった。 『悼む人』の主人公坂築(さかつき)静人は、無二の親友の命日を仕事の忙しさゆえに忘れてしまった。 そのことに、ショックを深く覚え、結局、退社し、なんと「悼む人」になっていったのだった。 見ず知らずのひとの亡くなった現場に立ち、その死者が「誰を愛したのか」「誰に愛されたのか」「どんなことをして感謝されてきたのか」という3点のみを取材し、悼むのである。 新聞記事を図書館で調べ、その現場に次々に立つのである。 「悼む人」は、「誰々を愛し、誰々から愛され、何々に感謝されていた○○さん」とつぶやきながら。左膝を地面につける。右手を頭上に挙げ、何かを捕らえるように空を掴(つか)み、胸に運ぶ。左手は地面すれすれに下ろし、大地のエネルギーを掬(すく)うかのようにして胸に運び、右手に重ねる。 それだけをする。それ以外はしない。でも、その行為を重ねながら、その死者を可能なかぎり記憶し、野宿しながら、全国の津々浦々を遍路行脚していくのだ――。 「ぼくは……自殺をする代わりに、他人の死を悼むようになったのかもしれないな」「自分の死ぬ代わりに、他人の死を経験することに溺れていったのかもしれないんです」(同書、P.380)。 悼むことによって、ひとは新しい生を得る。 そう思いながら、『悼む人』を読んだ。 (7月22日) |