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連載コラム「いまここを紡ぐ」(第297回)法然――誰にもわかりやすく、しかも、誰にもわからない道を登っていく
 法然(1133〜1212)について、書く。
 3年半前に、すでに書いている。
 精神の革命者・法然(その1)――念仏という補助線の発見(連載コラム;2007年8月9日
 同(その2)――暗黒の街角に立つ念仏行者(同;2007年8月16日)
 同(その3)――老師はただ一人で流されてゆく(同;2007年8月23日)
 この3本に付けくわえるならば、次の2点についてである。私がまだ最終的にわからないところである。
 その1。
 なぜ、法然は自らの幻視体験を他言しなかったのか?――である。
 法然は、13歳で比叡山に登る。
 その聡明さによって、「将来は天台教学の座主か」と言われていた。
 なのに18歳のとき、プツリと西塔黒谷にリトリート(引きこもり)してしまったのである。しかも、43歳で黒谷を去り、京都盆地に下りてゆくまでの25年間を黒谷の青龍寺でまるまる送っているのである。人生の25年間も過ごしているのである。
 3月6日(日)、思いきって、黒谷へ行ってみることにした――。
 修学院の雲母(きらら)坂から比叡山へ登った。
 頂上の所々には雪が残っている。根本中堂へは行かず、浄土院、釈迦堂を越えてゆく。誰もひととは会わない。トボトボと歩く。
 登りはじめて、3時間半。辿り着いた。
 まあ、行ってみて、びっくり。
 ちっちゃいのである。
 山門、阿弥陀堂、報恩堂のみ(浄土宗の研修所が建っているが、それはわずかに数年前のことだ)。
 一切経(5500巻)を五回も六回も読み込んだという報恩堂にしても、実にちっちゃい。
 でも、この報恩堂で、中国の善導(613〜681)に出会っているし、この阿弥陀堂で、“定善観”を何度も何度も味わっている。
 “定善観”とは、『観無量寿経』の中にある“13段落に渡ってくりひろげられる阿弥陀仏観”。それによって、「実在する阿弥陀仏」という心境を得るのである。
 この透明な境地を得たひとは、法然以外にいないのではないか。
 師匠にも、誰にも、わかりあえない境地を持って、後半生の人生を法然はただ一人で歩むことになる。
 法然はこのことを他言しなかった。幻視体験、自分の内面世界で実際に起きていることは公にせず、一切の条件抜きの、留保のひとつも付けない、ただ称名念仏だけをひとに勧めたのであった――。
 その2。
 なぜ、法然は持戒を貫いたのか?――である。
 法然は「天台円頓戒」を生涯保ちつづけた。弟子の親鸞のように、肉食妻帯する選択はとらなかったのである。
 周囲の人間には、持戒を求めていない。「戒律を保つことは、仏の本願にかなった修行ではないので、自分のできる範囲で実践するとよい」(『法然上人全集』平楽寺書店、P.535)のである。
 なのに、自らは持戒を貫いてゆく。
 自らの幻視体験の世界を鮮明なものにしておきたかったのではなかったか。あるいは、死の透明感を自らが保ちつづけるためにであろうか。
 私には、わからない。
 戒があって、初めて破戒が生まれる。破戒があって、哀しみの涙が生まれる。哀しみの涙があって、ゆるされたときの随喜の涙が初めて生まれるのだ。
 これらのすべてを、それぞれの涙を、法然は慈悲の心で見ていたことは、まちがいない――。
 法然の仏教が仏教ならば、タイの仏教は仏教でない。ビルマの仏教が仏教ならば、法然の仏教は仏教ではない。
 そういう境地に仏教を持っていった法然が、私は好きだ。こんな精神の革命者は、日本の歴史のどっこを探しても他にはいない。
(3月10日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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