とりいしん平(鳥井新平)さんの絵本ライブ「いのちについて」(10月例会)がおもしろかった。そのレポート――。
とりいさん、静けさが体の中心にあるんだ。その中心において、何冊かの絵本を語り、何曲かの歌をうたう。そういう気がした。
心が騒いでいないので、あたたかい波となって伝わってくる。その波、穏やかで、柔らかい。
言葉では納得していても感覚で納得できない部分を決して切り捨てていない。それが大切。
そのことを保って、必要なことを静かに語ろうとしている。
とりいさん、全体を3部に分けていたね。
「ひきかえす いのち」「とりもどす いのち」「たたずみ黙するいのち」だ。
「いのち」三部作。
まず、「ひきかえす いのち」。たとえば、「さようなら」を孫に伝えるためにあの世からこの世へ戻ってきたおじいちゃんの絵本。
ゆうれいになっても、孫の心にエネルギーを注ぎつづけることを、ひとは欲しているんだ。おもしろく、せつない。
そして、「とりもどす いのち」。
たとえば、沖縄の現在(いま)のいのちの戦い。ひとりの女性。機動隊のひとりひとりに「どこから来たの?」「暑いね」と語りつづけるひとがいることをとりいさんが話す。びっくり。隊員を「敵」にしない。人間の根っこへ語り続ける――という戦い。
まとわりつきながらも、「ご両親は元気?」などと声かけし、弾圧者たちに人間のエネルギーを注ぎ、やさしさを取り戻していくのだ。なんと深い、ひとりの戦い。
最後に、「たたずみ黙するいのち」。
たとえば、「いつでも帰ってゆける、心から憩える安全な場所が誰にでも必要です。仏教においては気づきがこの避難所なのです」(ティク・ナット・ハン『生けるブッダ、生けるキリスト』春秋社)。
とりいさんがこの『生けるブッダ……』のこの場所を引用したのには、びっくりした。とりいさん、キリスト者なのに。
ここは「気づきを示すブッダに、ブッダが発見した苦を除く技法に、気づきと調和に生きる共同体に帰依する」というところ。ティク・ナット・ハンがスリランカの海辺で子どもたちと交流するところ。
何教であろうが、宗教を手段にして、ひととひととがもっと、もっとやさしく、つながっていけば、よい。それが宗教の目的。入口のところでケンカしてならない。
とりいさんは、私の心にエネルギーを注いでくれる。
そうこうしていたら、どっかで聞いた詩に、とりいさんが曲を付けてくれているではないか。録音もしなかったので、いま、なぜか曲が浮かばないんだけど(笑)、うたってくれた。スゴイ。
ますます、私の心にエネルギを送ってくれた。ありがとう――。
雨 戸
虫賀宗博
いまはもうすでに朝なのに
なんで雨戸が閉められたままなの
思い切って雨戸を引き開いてごらん
いちまいずつ いちまいずつ
ちょっとずつ ちょっとずつ
朝の光が差し込んでくるだろう
ぬくもりの光が縁側の座敷へ台所へ入ってくるだろう
失うものがない心には
喜びしか流れ込まない
新しい私を見つけ出すことによって
私は私自身を越えていく
夜を越えていく