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連載コラム「いまここを生きる」(第255回)靖国思想(その4、完)

 1964年の東京オリンピック。そのとき、昭和天皇の生(なま)の姿をTVで初めて見た。
 奇態な印象を持つ。
 当時私はまだ9歳。でも、「何だ、このひと!」と思ったのをはっきり覚えている。
 52年前の直観はいまも全く変わらない。
 そうして、その直観がいまも本コラムを書かせていると思う。
 その昭和天皇が沖縄における米軍の占領の継続を求めたメッセージを出し、その通りの歴史になっていったことはよく知られている(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫ほか)。
 「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」という提案内容である。
 戦後「象徴」となった昭和天皇が吉田茂首相の頭越しに米国と直接交渉したのである。もちろん沖縄をはじめとした民意を無視してのこと。自身の保身のためである。
 沖縄は日本という体の一部である。一部の体の痛みは全身を貫くのである。ふつうは。
 ところが、ふつうではない。切り捨てる。重いいのちと軽いいのちの区別を平気でするのである(優生主義というのだけど、靖国思想って、ナショナリズムはもちろんのことだが、この優生思想であることを強調しておきたい)。
 おまけに正直に「フィクション」と念を押して表現している。
 これ、とっても大切。最高級な表現と言ってもいい。日本の実相をズバッと描写している。
 日本全体が実質米国の植民地なのに、あたかも独立国であるかのごとくポーズをとる――というフィクション。
 米軍占領期がずっと続いているのに(占領が終わればふつう占領軍は撤退するものなのに)、まるで戦後期であるかのような見せかけをとる――というフィクション。
 フィクションを日本みんなで演じているのである。
 「ない」ものを「ある」ものとして話しはじめる。友人ならば心配しながら手を肩に置いて、「妄想だね」と伝えるはず。
 日本にそういう友人友国はいない。
 なぜかくも「ない」ものを「ある」と言えと強制させるのか。それが問題の核心。どうして、そういう心のドレイを生み出すのか。あるいは、そう言わせてやまないドレイの主人を生みつづけるのか。それが問題。
 どうしてドレイであることも、ドレイの主人であることも、両者ともイヤだと言えないのか――。
 もともと「小さい神」を大切にしてきたワシらの先輩先祖は心根がやさしい。深みにかけるけど。
 150年前の統一国家形成。富国強兵。殖産興業。立身出世。つまり、金と力が猛威をふるうようになった。「小さい神」が壊され、荒廃され、精神的難(流)民になっていった。ドレイになったのである。
 誰も信じていないのに、ひとりの凡夫を神に仕立てる。
 息子の戦死を喜ぶ母親なんかいないのに、ひと前では「名誉の戦死」に頭を下げ、泣かない。
 自分の指先を切っても泣いて痛がるようなひとが戦場で他国人を鬼のように殺し、何とも責任を感じない。
 これらすべてがみんなドレイになった証拠なのではないか。
 これは、何度もくりかえして書いている靖国思想。死のドレイ宗教の政治結社。
 きわめて特殊な神社であることを世界中のひとびとに知ってもらいたい。
 靖国思想は死んでいない。血気盛ん。心が難民化している民衆に寄生し、マインドコントロールし、現実を見る眼をうばっている。
 信じなければいいんだ。ウソをウソと言い、ニセをニセと言えばいいんだよ。不要のゴミになればいいんだ。
 その日が来るまで、いつかわからないその日のときまで、祈って祈り、書こうと思う。死んだって、書こう(笑)。

 

 ――これでおしまい。私もこの日本列島で生まれて、靖国思想を体に入れている。例外ではない。それに気づいて、「出そう、出そう」と努めて、綴った。くりかえしも多く、かつ、どんなにか正義の文になったかもしれない。ただ「靖国思想のような妖怪」がいまもゴロゴロといる、立身出世したひとたちの中にウジャウジャといることに気づいてほしい。(完)
(5月11日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 07:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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