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連載コラム「いまここを生きる」(第256回)「あの世」

 何年も前から、次のように思うようになった。
 「あの世」について、である。
 もちろん、「あの世」のことなんて、誰にもわからない。わからないけど、みんながみんな、考えたこと。
 私の体が腑に落ちた、という程度のことだ。
 《あの世はたしかにある、でも、あの世はこの世の中にある、いまここの、手の平の中にある》。
 こう直観すると、長年の宿願だった法然や親鸞が言っていた浄土についてのイメージも深まった気がする。そう思う。
 西方浄土って、地理的な空間的な表現ではない。きっと、そうとしか言いようがなかったのだ。西方と言っても、西へ西へと海山を越え進んでいったところで、地球を回って、いまここに戻ってくるだけの話。
 何度も書いている通り、風にも水にも土にも、いままでのあらゆる生命体の生命活動の結果のすべてが込められている。風は生まれ死んでいったすべての植物、動物、人間が吸って吐いたものの総体である。生きている化石だ。水も土もいっしょ。
 何かの縁が深まり(神を想定するひとには神の加護と意思によって)、この世に生まれて、いまここをワシらは生きる。縁の重なりが消えれば、風となり、水となり、土になって、「もうひとつの」いまここに、ワシらは戻るのである。「あの世」という「いまここ」である。
 そう思うようになったということ。
 そう、決定(けつじょう)したということ。
 以上のことなんだけども、いちど書き残しておきたかった。
 私の中の何かが変わった訳でもない。いつもの凡夫である。
 相変わらずの無教会派の仏教徒でしかない。
 次に何を言いたいか。
 宗教のことだ。宗教について、だ。このことだ。
 「宗教でひとを救うことができない」(本田哲郎さんの発言;2015年11月の「講座・言葉を紡ぐ」において)。
 私もそう思っている。
 最近、五木寛之さんと本田哲郎さんの対談『聖書と歎異抄』(東京書籍、2017年4月)においても、本田さんはこう言っている。
 「宗教は人間に絶対に必要だと言っているわけではなくて、キリスト教を含め、個々の宗教というものは、卒業したほうがいい、と。宗教の枠を越えて人間の救済を伝えるものはないか、と」(同P.55)。
 わが意を得たり、と思う。
 「宗教の枠を越え」ることが大切。何十年かかってもいい。ひとびとの慈悲心が育つように、素の慈悲に自らが気づいていくように、祈りの姿が変っていってほしい。
 いま「宗教の枠」はジャマだ。不要だ。いまの宗教の信者獲得風景は、品がない。ひとびとの不安を利用し、マインドコントロールして、ドレイにしてようとしている(マインドコントロールがオウムだけでないことは明らか)。
 800年前の日本の宗教界だって、ひとびとの死後をも支配し、恐怖のどん底へ追い込んでいた。ひとびとは生の地獄のあとの死の地獄にも苛まれていた。そのとき法然が救済した。
 いまも同じように不安、心配にひとびとは苦しんでいる。主因は特定できない。よくわからないまま、何かに苦しんでいる。
 新興宗教もますます盛んになるであろう。心の闇を利用して、ますます苦しめるであろう。
 私は宗教は人間存在の本質的な契機だと思っている。人生をひとまとめにし、決定的な態度を决定(けつじょう)させることが宗教だと考えている。
 「あの世」は宗教の独占的な世界ではない。いまここの手の平に取り戻したかっただけ。以上。
(5月18日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 13:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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