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連載コラム「いまここを生きる」(第259回)イスラエルのことから日本へ

 長いタイトルの本が、ある親しい友人から届いた。
 作者は初めて聞く名。「誰だ?」と思い、パラパラと見て、その友人が年末に送ってくれている反(非)原発カレンダーの製作者(たち)の中心にいるひとと知る。
 ダニー・ネフセタイさん(家具職人)の『国のために死ぬのはすばらしい?――イスラエルから来たユダヤ人家具作家の平和論』(高文研、2016年)である。
 すぐ読了した。
 とってもおもしろい。
 違いはある。でも、それ以上に、「その通り!」「わが意を得たり」と首肯する思いがいっぱい。
 そういう感じって、アーサー・ビナードさん(詩人)に初めて会ったときに似ているかもしれない。
 ほんのすこしだけ復習しよう。ユダヤ人の歩みだ。
 (いるとするならば)神はもっとも小さく低くされてしまったユダヤ人に声をかけ励ましを与えた。このこと、旧約を読めば、明らかだと思う(読んでみれば、わかる)。
 もっとも小さくされたひとを、まず神は救済する。そのひとたちを他のひとびとは助け、支える。そういう支えあいが神がもっとも望むところ。
 そういう神の思いを、誤読する。「ユダヤ人が優秀だから神に選ばれた」とあえて自らが誤読し、思い込もうとしたのではないか。
 どの選民思想も歪んでいるし、どの優生思想も傷んでいる。
 土地の所有すら認められず、いつ追放されるかわからない。そういう差別を欧州でユダヤ人たちは受けてきた。差別の果てのアウシュヴィッツまで体験するんだから、ユダヤ人の心証たるや極めて甚大。
 だからといって、70年前にイスラエル建国を始めていくユダヤ人たちが、ふつうに暮らしているアラブ人たちを銃とブルドーザーで追放させていってよいのか。
 ユダヤ人たちは一切の批判を受け付けず、「アウシュヴィッツの悲劇を繰り返さないための軍国主義国家づくり」に徹するのである。アラブ人(パレスチナ人)への加害責任なんてゼロ。――これも極めて異常なことではないのか。
 小さく低くされてきたひとが、なぜ「もうひとつの小さく低くされてきたひと」をつくるのか。
 戦争をすることがなぜ必要悪なのか。どうして戦争がしょうがないのか。いまのところ、「ひどい隣人(国)がいる」ので、これ以外にベターな方法がないのか。なぜ「優秀」なユダヤ人が平和をつくる工夫ができないのか。
 そういうネフセタイさんの言葉は、ユダヤ人ゆえに余計にしんしんと胸に沁みる。目がさめる。
 誰も平和という大切な日常を希求しない。
 国家予算にいちどたりとも「平和」を計上しない。そんな発想を夢にも浮かべない。(現首相になぜか奪取されてしまった大切な用語である)積極的平和主義を希求しようとは思わないのである。
 逆に戦争、戦争、戦争ばかりを欲望している。戦争経済ばかりでひとびとは競争に追われ、疲弊している。
 その点、イスラエルと日本、同じ。隣国周辺国に友国がひとつもないのは、全く同じ。
 それを生んでいるのはイスラエルは選民・優生主義なんだけども、日本は何なのか。日本のことは気になってしかたがない。
 戦後日本は国防、外交、原発、食糧についての自己決定権を持っていない(ひとりでも多くのひとに気づいてほしいので、何度も書いた)。日本国内に米国軍隊がおり、首都の上空すら横田空域があり、日本の旅客機は入れない(これも何度も書いた)。
 そういう屈辱感は米国に度胸をもって立ち向かうことによってしか解消されえない。米国に物申して行動する以外に方法はない。独立は天からは降ってこない。
 いまの日本、そうでない。属国である屈辱感を為政者は国民にぶつける。国民をいじめる。秘密保護法、安保法、共謀罪、9条破壊……と国民をDV(ドメスティック・バイオレンス)。対米屈辱感のほんの一部を解消しているのではないか。情けない。
 ネフセタイさんという知恵者に会いたいといま思っている。
(6月8日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:05 | comments(1) | trackbacks(0) | - | -
良いコメントをありがとうございます。
いつかぜひ会いましょう。
| ダニー | 2017/06/08 10:33 PM |










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