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連載コラム「いまここを生きる」(第276回)凡夫(ぼんぷ)政治

 きょう(10月2日)、静かな雨。雨なのにヒヨドリが鳴く。比叡山の姿を雨雲は隠していない。風はない。柿、木蓮の葉がいちまい、いちまいと黄紅葉して落ちている。いまここの、この時を深呼吸し、味わっている――。
 以下のこと、きょうは短く書いて置きたい。
 選挙のことである。
 いまの状況、なんていえば、よいのか。
 政治家の言葉が軽い。かんなくずのように、軽い。ペラペラと燃え上がってしまい灰になり忘れられてしまう存在の軽さに満ちている。
 何度も強調しているように、戦後70年日本は米国(軍)の半植民地である。
 日本に外交はない。隣国の北朝鮮のことも、米国に丸投げである。「どういう外交を目指すのか」って、ほぼない。ますますゼロである。ゼロに近づいている分、米国(軍)にどんどん依存していっている。
 沖縄、石垣、宮古に新基地をいまのようにつくっていけば、中国や北朝鮮がどう思うのか。そんな想像もなぜかできなくなってしまい、もはや米国しか眼中にない。ただただ米軍の命令指示を受け、米国からの支持を受けることだけの「よい子ちゃん」になっている。
 その「よい子」を清朝末期の中国では「買弁政治家」と言って、アヘンを売るブローカーのように軽蔑したことをたびたび思い出す。
 米国は大切な国だ。中国、朝鮮、ロシアと同じような友好国だ。だからといって、米国に「買弁」し、米国のドレイにならなくていい。主体的に、自主的に、現実的に付きあっていけばいい。
 いまの日本の非主体的な「よい子ちゃん」外交がいかに非現実的か。心配でならない。
 7月例会で塩田敏夫さんから教えられた青木理さんの『安倍三代』(朝日新聞社、以下同書)をときどき思い出す。塩田さん、ありがとー。
 現首相の目立たない大学生時代、休日にお母さんとふたりぼっちで家の中で映画(レンタルビデオ)を見ていた、という。別に母ちゃんと見てもいいけど。「よい子ちゃん」らしいエピソード。
 法学部にいたのに芦部信喜さんという憲法学者の名も知らない、とのエピソードも同書には出てくる。
 別に知らなくてもそれはそれで何も問題がないんだけど、問題となるのはなんで政治家になるのか、その初志は何なのか、である、それが改めて問われている気がしているのだ。
 ちょっと「わるい子ちゃん」ぽい現副首相(元首相)。初選挙の第一声が「下々(しもじも)のみなさん、私が吉田茂の孫のアソータローです」であったことが同書にある。この日本の世襲の現実を示現していて笑えない(いや、笑えるか、なんじゃこれ!?)。
 家業としての政治家たちのテキトーさ(つまり無責任さ)は目に余る。どんどん劣化している。
 じゃあ、家業じゃない政治家はどうか。
 いまの野党第一党の党首の27年前の第一声を私は直接見聞したので、知ってる。「マエハラセイジ、28歳、身長180センチ」である。当時の日本新党から京都府議に立候補したとき、この3語をひたすら連呼していた。この「身長180センチ」ってなんじゃ。松下政経塾で「インパクトある、短くて覚えやすい言葉を連呼する」なんて、きっと教えられたのだろう。そのまま実行して、当選。
 投票する有権者(近所のおばちゃんたち)もひどいね。
 そうして現在(いま)。奇妙な、奇怪な新党に野党第一党をいきなり丸投げするところなんか、わかるなあ。単なる目立ちたがりの「おぼっちゃまくん」だ。
 それぞれに何かが欠けている。人間としての重みが全くない。バラスト(タンカーなどの大型船の船底にある重り)がないんだ。
 じゃあ、バラストって何だ。やさしさだ。ひととひとのつながりがゆたかに醸すやさしさだ。凡夫の自覚が生むやさしさである。
 小さな人間(デモス)、凡夫の、パワー(クラトス)。それがデモクラシーだ。
 哲人政治ではないんだ。凡夫政治だ。凡夫の自覚。だからこそ、広くつながりあっていくというやさしさが必要となる。
 それがないなんて。
(10月5日)

| 虫賀宗博 | - | 06:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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