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連載コラム「いまここを生きる」(第288回)生老病殺

 本年ラストの「いまここを生きる」のコラムだ。
 スッキリと終わりたいところ。
 ところが、体がスッキリとしない。けっこう重い。
 12月26日の午後になってもまだ書けない。グズグズしている。
 理由は自覚している。そうじ、せん定、本の整理を何日か連続し、取り組んでいるからだ。その疲労がとれていないからだ。
 私自身の煩悩具足であることの結果、本が増え、皿が増え、パンフレット、チラシや子どもの作文などの紙類が増えつづけてしまった。
 いただいた手紙類も大切に保存してきた。しかし、もう、整理する。10年前、15年前、20年前の手紙から「ありがとうね」と言いながら、整理していっている。
 いただいた本も買い求めた本も同じように整理していく。捨てる本、古書店へ持っていく本、それでも残す本に分類。古本1、2、3……とかマジックペンに書いて、いったんまとめる。バザーに出すか、実際に古書店へ連絡するかは、後で決めることとし、前へ進む。
 新聞や雑誌の切り抜きも多い。これも捨てるか、ノートに張るかを選択し、整理していく。ファイルにまとめているのに、そのファイルが重なり、結局のところ、わからなくなっている。
 写真も多い。未整理のままになっている。大変だが、同じように、捨てるか、残すかを決めて、処理していく。
 整理しはじめると、次々と未処理のものが発見され、「うーん」「うーん」と言いながらも、立ち止まらないで、前へ進む。
捨てていっても、私の魂にとって重要なのは必ず再会すると信じて、捨てていくのがコツかもしれない。そう思って作業しはじめている。
 時間を限定しないと疲れる。集中力が必須だから。1時間限定のつもりが、ついつい伸びてしまい、それが疲労をためる原因となるからだ。そうわかっちゃいるけど、やめられない片付けだ。
 私自身の煩悩欲望と切れる、捨てることに疲れていて、世話はないけど、これは「いかに自分で自分の始末をつけ得ないのか」を示現している。「死ぬそのときまで煩悩具足の凡夫である」ことの痛烈な自覚でもある。凡夫だからこその努力をしてゆきたい。
 私は論楽社のいまの動きを何かの縁で始めた。
 ブッダが言った「生老病死」が深まり、「現代は『生老病殺』の問題」(上原専禄)を抱えている。現代人の「死」は、どこか「殺」であるのである。そう感じて、論楽社を始めたのであった。その「殺」の問題を具体的なひとを通じて、具体的に体感したいと願ったのだ。
 しかも、水俣病のような原因が明々白々な事件ですら、責任を問わない現代日本社会を生きねばならない。日本軍の蛮行も修正改竄(ざん)され、原発事故も「アンダーコントロール」と言い変えられている。「殺」の状況の中を、どこか生きることもできず、しかも死ぬこともできずにワシらのすべてが生息しているのだと思う。
 もちろん、ワシらはみんな、それぞれ幸いを求めて生きている。年末年始の祈りはすべてが自分自身の幸いを求めるものであることは間違いない。それが切実なものであることもわかる。
 わが身ファースト、わが民族ファーストの祈りによってわが身、わが民族の幸いが実現しないのも事実。その逆説が真実。わが身だけを見つめ、わが身だけの幸いを求めたって、迷路に入り込むだけ。
 「私」を知りたければ、社会を見なければならない。社会を知りたければ、「あなた」を見なければならない。
 それも自我の闇を破るはたらきによって成立するのである。闇を背負わなければ見えてこない。
 自分という洞窟の中で一生を終わりたくない。我の世界を解きたい。我の社会を解いて、我の歴史も解いて行きたい。
 そう思って、そうじしている。片付けている。本年も付きあっていただき、感謝。
(12月28日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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