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連載コラム「いまここを生きる」(第289回)小さい泉(その1)

 2018年の新しい年の、新しい朝に、明子といっしょに岩倉の北の森の泉へ行く。
 その森に何にも人為物がないのがいい。
 ほんに、何もない。
 ただスギの森があるだけ。
 かつて日本列島の各地に「小さい神」がいたように、小さい泉があるだけ。
 その泉を偶像のように拝するのでない。
 それだと、神道だ。
 共同体(村)が崩壊した日本において、神道なんて、もう、存立しえない。存立しえても、もうひとつの形をとらざるをえないだろう。
 そうじゃない。
 何か。
 水を私はつくることができない。
 木の葉も私はつくることができない。
 そういう私が水によって生かされ、葉によって生かされてあることを、ただ小さな泉を手立てに感じることができれば、この世界に生きている意味はあるのである。
 その意味(きっと小さな意味)は、ある役割を果たすことの中に在るのかもしれない。
 その役割はなんとなく感じとっている。きっと、それを果たすために生まれてきた。
 そう私が実感し、「その役割を果たすための力を与えて下さい」と祈るんだけど、でもねえ、これを書くとなる(いま、ボールペンで書いている)と、どうしてもウソが入りこんでくる。
 この祈りというのが、ほんにやっかい。
 宗教というのが、実にやっかい。
 私はこう書くことで、どこか敬虔(けいけん)なフリをしているだけかもしれない。ウソがあるのかもしれない。
 五濁悪世の現実のいまを生きるワシらを「垢障の凡夫」だと親鸞は言ったね。「垢」はあか。「障」はさわり。
 精神を忘れてしまった専門家技術者のようにして、ワシらはこの悪世のいまを生きている。精神がないって、もう方向方角を見失った船にのっているようなものや。みんながみんな、沈没寸前の船の中で、自分という洞窟に入ってしまっている。
 そのワシらを「垢障の凡夫」とはスゴイ。
 そういう世を、自我を全面展開し、競争して生きぬいていけば、この世にそっくりな私になる。世だけが悪くなって、私だけが清らかになるなんて、ありえない。世が濁れば、私が濁る。私が濁ってくれば、世がいっそう濁る。悪循環。
 私が不幸だからと思い込んで、自らの幸福ばかりを求め、人間の精神を忘れてしまっていたら、いったい何だ。
 幸福だけが残って、人間がなくなっているのではないか。
 ブッダは、「幸福だけでは助からん」「この人間の世界をいったん出よ」「でないと、ひとも私も世界もこわれる」と言ったように思っている。闇の中からは闇を破るはたらきは出てこないのではないか。
 いったん現世を抜ける目を持ち、この現世をながめる。その方法として、手放し百千万発の坐禅でもただひたすら念仏のみでも何でもいいんだ。ひとは抽象的に気づくことはできない。人間という現場をたたき台にしてしか、気づけないんだ。そういう人間に出会い、現世幸福を約束しない、現世幸福から自由な宗教だったら、いい。
 小さい泉はそんなことを示現してくれる。(つづく)
(1月4日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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