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連載コラム「いまここを生きる」(第290回)小さい泉(その2)

 「小さい泉」のその2。
 もう、少し、書き足したいと思う。
 まず、やっぱり、私、森歩きが好き。
 植林スギの岩倉の森だけど、森は森。わずかに残るコナラの雑木林の冬木を眺めることもできる。冬イチゴの枝木が消えてしまい、さみしいけど、森は森。
 雨や雪が今年は少なく、もともと水量のない泉がますます小さくなっているけど、森の泉がそこにちゃんとある。歩いて片道50分の近場に小さくあるんだ。それが大切。
 その森と泉は、どの登山地図にもガイド本にもないので誰にも認知されず、周りはきわめて静か。
 30年前に縁あって岩倉へ来て、近くの山や森をウロウロと徘徊していたときに、偶然見つけたところ。そこに毎年正月の朝行くことができるうれしさ。
 以下。直観が次々に湧き上がる。書き残してみるね。
 どんな水のひとつぶも、小さな葉から、小さな根っこから、生成される。植物はスゴイ。水をつくり、糧(かて)もつくり、酸素もつくる。すべての財も元本は植物。
 ワシら人間は、何もつくることができない。植物に寄生しているだけ。共生なんて、とんでもないウソ。ワシらに必要なのは、ただ植物本体を殺生しない――というモラルだ。無能の寄生虫としての掟だけが必須なんだ。
 このモラル(掟)が人間には守れないんだ。
 人間には自我があり、自己が備わっている。それがあって、喜怒哀楽の感情が表現できる。生きることができる。ひとが人間に成長することができる。
 どうしたら、自我をあるがまま、開くことができるんだろうか。
 怒について、どうか。
 とくに日本社会に生息すると、怒の抑圧(同調圧力)がきつい。抑え込む。権力への怒りを「慎みの欠如」と言うひとが多い。不正への怒りを抑えると、必ず弱いものいじめのようなことが起きる。
 怒は三毒のひとつ(あと二つは、無明と貪)。それは怒りすぎると、もともと自我は他の我と区別し、「ワレヨシ」とする傾向が強いので、自我の洞窟が大きくなる。大きくなりすぎて、牢獄になる。
 気づいていくことが大切になる。
 「怒りを禁止」するということ、ブッダは言っていない。怒りという欲望も深めていけば、志欲となり、社会変革が促されることになるではないか。
 つまり、放置され放漫にされていく欲望煩悩をどうするか、なんだ。
 ブッダは家を出て(出家)、立ち向かった。法然、親鸞は家へ、家に出て(これも、もうひとつの出家)、立ち向かった。
 親鸞は、煩悩の中にわが身を埋め、考えぬく非僧非俗――これも、もうひとつの出家だ、繰り返すけど――の道を切り開いた。厳しい道だ。ある意味では仏教をブッダからも解放してしまったのではないかと思う。
 親鸞以降、寺院は道場になり、広場になった。社会の片隅まで出ていく社会性を「全面展開せい!」という要請があるということだ。もともと仏教は縁起論なんていう社会性を根源的に持っていた。寺院に籠もるものなんかでなかった。ブッダだって、戦争を止めるのに体を張ったことを決して忘れてはいけない。
 現在、生老病「殺」が問題にますますなっていく。
 こういうときこそ、世の中のことを世を超えた目から捉え直す作業が必要。
 すべて、世の中のこと、雲の下のこと。
 雲の上へ出よ。雲の上へ出れば、すべてが青空。天上大風。いのちの風が吹いている。ただただいのちの青空が広がっている。
 そうして、世の中を抜け、青空へ帰っていく。私のいのちは広がる青空であると思うこと。これが、我が開く出発。このいのちの青空から帰ってくる。帰ってくることを親鸞は還相と言ったのではないか。還相は死後のことではない。いまここで還相の恵みを生成している。
 そんなことを小さな泉は示現している。いま、湧き上がる直観を短く書く。今後、展開していくつもり。本年もよろしくお願いします。
(1月11日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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