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連載コラム「いまここを生きる」(第293回)歌う説教、奏でる念仏

 伊東(いとう)乾(けん)さんの『笑う親鸞』(河出書房新社、2012年)。
 東本願寺前の法蔵館書店にて、この間見つけた。
 この書店へ、たまに行く。禅、ティク・ナット・ハンがないわりに、浄土真宗がやたら多い。「こんな信者がいたんだ」と発見することも多い。いい本屋。
 『笑う親鸞』(以下、本書とする)。6年も前にこんな本が刊行されていたんだ。知らなかった。
 山口晃さん(画家)が描く表紙。破顔一笑の親鸞の表情だ。「この表情が親鸞の実相なんではないか」と直観が働く。「これや」と思い、すぐに読み始めた。
 理由はカンタン。親鸞は750年前に90歳までも生きぬいたという事実。自らを愚禿(ぐとく)」と称し、民衆と全く同じ目線に立って、語りかけていったという事実。この2つだ。
 きっと生命力あふれる太い声。底光りするようななつかしい声。そんな声をもって、『歎異抄』にほんの一端が香っているように、ズバリと言い切っていったんだろう。
 それだけではないはず。民衆の心をガッツリ掴んでいく、他にないような面白く語りのひとであったに違いない。
 常陸、下野の民衆はみんな、承元の法難で越後に流された反体制の元坊主だと知っていた。非僧なのに、非俗。「自力救済の限界」を説きながら、「愚かなハゲでして」とか言って、きっと笑わせ、「ナムアミダブツ」へ誘う“ただならぬ気配”に非俗なるものを感じていたはず。スゴイ奴がいると、みんな思ったはず――。
 以上が私の直観。長かったけど。
 以下が、本書のこと。
 まずは本書の伊東さんが音楽家・作曲家・指揮者であるのがいい。そのことが浄土真宗教団自体への適切な距離をつくっている。
 言い換えれば、伊東さんは教義、意味解釈から入っていかない。そんなアプローチをしたら、教団自体のイデオロギー省のような強力な守備網に引っかかってしまったろう。
 伊東さんには他に『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社文庫、私は未読だけど)がある。大学の同級生が地下鉄サリン事件の実行犯になり、いま死刑確定、というノンフィクション。同級生のことに心痛めながら、既成宗教に接している。
 伊東さんは音から入る。本願寺の守備陣とははるか遠くに位置する問題から入る。たとえば、「親鸞という人は間違いなく笙(しょう)を吹いたと思うんです」(本書P.155)。
「『浄土和讃』(『親鸞和讃集』岩波文庫のP.34)の中に、清風宝珠をふくときは いつの音声(おんじょう)いだしつつ、宮商和して自然(じねん)なり 清浄勲を礼すべし というご和讃があるわけですが」(P.155)。宮(きゅう)、商(しょう)というのは邦楽で使われる音の名前。「どう考えても笙に心得がない人の口から、これは出てこない」(同P.156)。
 これは大スクープ。
 知らなかった。
 『和讃』は晩年の余技ではなく、本質そのものだったんだ。今様(いまよう)を歌い上げ、ナムアミダブツを奏で、踊り、笑うことを求めたんだ。
 歌う説教。奏でる念仏。笑う親鸞。これが本質であることがわかってくる。
 本書の導入部に、真宗の節談(せつだん)説教が出てくる。親鸞思想の核心部分を強力な節回しでグングンと迫ってくる説教。いちど、聞いてみたいもの(でも、教団から異端の宣告を受け、あとを受け継ぐひとがほとんどいなくってしまった)。
 私の父は在家でよく説教の「おまいり」を自宅で聞いていた。説教師が◯◯と言うと、聞き手の村のじいちゃんが「なまんだぶ」「なまんだぶ」と返す。そんな光景を本書を読んでいると、想起する。本書によると、コレを「受け念仏」と言うそうだ。この真宗の説教から落語、講談、浪曲と生まれ、「きょうは話が受けた」と芸人いまだに言う源がコレなんだ。おもしろい。
 心の置き所を見つけ出す本書であった。とってもいい風が吹いている本。
(2月1日)

 

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 14:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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