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連載コラム「いまここを生きる」(第294回)花の死

 奈良のSさんから手紙をいただいた。論楽社の月例会の日が亡母の法要当日にあたるので欠席するとのこと。以下のような返事を書く――。

 

 Sさん、その後お元気ですか。
 長年に渡って、論楽社の動きを深い所で受け止めていただいて、確かなものとして伝えられてきます。感謝申し上げます。
 「白くふしぎなあたたかい光を心に思い浮べながら、今はきっといのちあふれる幸せの海に還っていった母を偲びます。当日御参加の皆さまの祈りの言葉からゆっくりと共感が紡がれる場となりますようお祈りしています」。
Sさんのこういう言葉が心に沁み渡ります。
そうして、いま湧き上がる言葉を生(なま)のままにSさんにお渡ししたいと直観しました。伝えたいと思うのです。
死について、です。
 Sさんのお母さんの死について、です。
 誰もが、例外なく訪れる死によって、お母さんの肉体はたしかに亡くなりました。
 消えました。
 けれども、Sさんの実感としてお母さんは「死んでいない」と思うのです。
 花びらは散ったけど、花は死んでいないのです。
 花は内部において着々と来年の開花の準備がすでに始まっています。花は死にません。
 考えてみれば、いまある大気(空気)も水も土も、すべてが動植物全体の「生と死」の結果、生成されています。何億年も続いていることからして、「生きている化石」として存在していると言ってもいい。
 お母さんが吸って吐いた空気も、ほんのかすかにいまも残って、生きているのです。
 ブッダ、イエス、モーツアルト、良寛が吸って吐いた息もほんの少し残っているのです。
 これらのことは、「花びらは散っても花は死なない」ことの傍証かもしれません。
 往生(おうじょう)というのは死後生成するものではないと思います。
 あるがままの自分を受け入れ、背負って、自らの青空を感じていれば、「往(い)きて生きてある」のです。そのときから親鸞が言う還相(かんそう)のような現象が生成され、生きとし生けるものへ「幸せの海」から還(かえ)りがあらい、励ましつづけるのではないか、と思っています。生きてあるひとたちを守りつづけてくれているのではないか、とも思うのです。
 生死(しょうじ)を離れるということも、悩むことですらないとも、思います。
 日本に伝えられてきた仏教においては「ひたすら無になれ」「ただ念仏」「ただ座禅」と言われ、よく先輩先祖たちはやってくれたと思っていますけども、具体的な方法論が乏しすぎました。ブッダの戒律の重圧から解き放ったのはいいけど、ブッダの苦を抜く技法すらも忘れてしまいました。死後の往生成仏を言いすぎました。「あるか、ないか」わからない来世のことを言いすぎ、現実の生に立ち向かう意欲を喪失していったのではないかと思っています。道を語ることが二の次になってしまいました。
 この世の雨も雪も、すべて雲の下のことです。雲の上には、いまも青空があります。いつも青空です。天上大風が吹いています。お母さんは肉体を失い、自由になり、青空の元へ帰り、S さんを守りつづけてあることです。
 以上、私の60年間の直観です。
 青空に見守られる。安心(あんじん)して生きのびましょう。

 

(2月8日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 13:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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