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連載コラム「いまここを生きる」(第296回)心が壊れる

 もう、30年も前のこと。ときどき野山で猟をやるひとから、こんなことを聞いたことがある。
 「猿だけは、どうしても猟銃、打てなかったな。だって猿と目が合うんだよ。潤んだ目をして、訴えてくるんだなあ。ちょっと手を合わせるようなしぐさまでして」。
 手を合わせる猿を、それ以来、たびたび想像している。
 そうして、自然に「猿じゃなくて、人間だったらどんなんやろう」と思ってしまうのである。
 ひとがひとを殺すこと。きっと凄まじい形相で睨まれ、返り血を浴び、この世のものと思えない死の臭いに満ち――と想像してはみる。想像だけだけど。「こんな地獄はイヤ」と誰しもが思うはずだ。戦場を経験すれば、「イヤだ」とみんな、思ったはず。戦争映画に現実の死の臭いをさせたら、みんな、反戦になるはず(誰も行かないか!?)。
 思うはずなのに、戦争経済(ひとの存在を破損させてゼニをつくる経済)が一貫して続き、戦争中毒になっているのではないか。
 戦争は人間が人間を殺すことなのに、判断停止を繰り返し、「しょうがない」「やむをえず」「相手国が100パーセント悪い」とか言い訳を言い放って、戦争をすることを、まだ繰り返すのか。
 アレン・ネルソンさん(1947〜2009)の『戦場で心が壊れて』(新日本出版社、2006年)を読んでみた。ベトナム戦争を戦った元米国海兵隊員の証言本である。
 「自分がそうだったのでよくわかるのですが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかると戦争のことを語れなくなります」(同書P.106)。
 そうして、なんと「日本国中がPTSDにかかっている」とネルソンさんは言う。
 私は腑に落ちる。ストーンと落ちる。ワシらは病気なんだ。
 韓国・北朝鮮への植民地支配。南京事件。中国の人体実験。「慰安婦」。
 これらのことを日本のひとたちが「話したがらない、あるいは話せないということです」(同P.102)。
 「否定したり言い訳したりする人が非常に多いのに驚きました(略)。まるで、かつての私の言葉を聞いているような気がしました。そう、過去に自分がしたことへの拒否、あるいは言い訳です」(同P.103〜104)。
 日本の歴史上、最大の戦争を始め、最悪の敗北を喫したのである。
 70年たっても、いまだに新・勝ち組がいるような病理も、PTSDだと考えれば、納得する。靖国神社を乗り越えられないでいるのも、わかる。
 私自身も、こと日本の戦争のこと、戦争責任のことになると、とたん熱くなる。このブログでも、たびたび書くテーマ。私もきっとPTSD患者のひとりなんだろう。
 大災害、大事件・事故に遭えば、PTSDは起きるのである。どんな小さそうに見える事件でも被害者にとっては、常にフラッシュ・バックが起きて、得体の知れない恐怖に襲われるのである。
 いわんや、国権の発動たる戦争。PTSDは最大値を指すことになるはず。なのに「話せない」(同P.102)がいまだに続いている。
 PTSDは病。苦である。苦を認め、苦を抜くこと。とにかく、あきらめないで抜苦与楽を希求する以外に手はない。非宗教的瞑想センターをいくつもつくって、各国リーダー(核兵器を扱うリーダーたちこそ、瞑想を)も交えて、呼吸をしていくことだ。妄念を捨てていくことだ。
 朝鮮戦争がまだ休戦中の現在(いま)に、第二次朝鮮戦争を日本が始めるなんてしたら、あと100年、200年……とPTSDを病みつづけることになる。苦の連鎖が続くのである。オリンピック明けが危険だ。殺してはいかん。
(2月22日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 11:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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