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連載コラム「いまここを生きる」(第298回)キジムシロ

 3月に入り、気温が乱高下している。
 日変わりで10度も上下している。
 日差しの光が輝きをしだいに増している。
 冬にはもう戻らないね。
 やっと春が来た。
 ちょうどいまごろ、岩倉川沿いにキジムシロが決まって咲く。
 日だまりに、まっ黄の花をつけ、ほんの少しだけ群生している。
 キジムシロ。「雉(きじ)の筵(むしろ)」。
 私が最も早く覚えた野草のひとつ。
 そうして、出会うと、心が最も落ち着く野草のキジムシロ。
 そう、心が落ち着くこと。
 このことが私の心に必要である。そのことを私がいちばんよく知っている。
 キジムシロの黄花をゆっくり眺めること(ミヤマキンバイに似てるかも)。
 冬木のケヤキやコナラをしずかに見上げること。
 春の先がけとなるコブシ、キブシの開花を心の中で拍手すること。
 たとえば、これらのことを、いま書くだけでも落ち着いていく。
 何かの苦が私にいまある訳でない。
 そうじゃあ、ない。そんな大きな苦はいまはない。
 別の言いかたをしよう。
 もっともっと、私自身を私は受けとめたいのである。
 「受けとめているじゃないか」という反論もあろう。
 もっと、もっと、いわば貪欲に自分自身を大切にしたいと思うのである。
 ふと、いま、思うんだ。
 私はさまざまな愚民政策の餌食(えじき)にされつづけている。
 私たちは学校教育(無意味なことに意味を持たせる)やTV広告代理店文化、政府政策のスローガン・プロパガンダの罠(わな)にかけられつづけている。
 本ブログでも、必死のパッチで「ひっかかるな」「バカにされるな」と訴えてきたと思う。
 これからも言うことは言っていくけども、「Aは阿呆」といくら批判していても「そんなん自明のことやん」という内部の声がいつもするのである。阿呆に阿呆と言っても自同律の不快。凡夫の私が投げかける言葉によって自省するような阿呆はどこにもいない。
 それよりも、もっともっと自分のいのちが安心(あんじん)し、落ち着いていくことを綴っていこうと思うのである。
 愚民政策は転写(転移)する。憑依する。外部から安易に乗り移り、仮面となる。引っ剥(は)がそうにも剥がれない。次々に転写されてくる。仮面を脱いでも脱いでも間に合わない感じ。もう7年たつけど、とくに3・11以降、必死だった。
 けれども、本来の自分自身に戻ることにする。
 もっともっと、地(じ)の私自身のいのちを見つめていかなければならないと思うのである。私自身のことは私しか扱うことができない。もっと私を深く掘って、そういう方法によって、他のいのちとつながりあっていけばいい。たとえ、「何や、深く掘ったのかよ、以前と全く同じや」と苦笑されたとしても。
 キジムシロがさかんに咲いている。
(3月8日)

 

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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