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「生きていてよいのか」――斉藤貞三郎さんの4月例会レポート

 斉藤貞三郎さんの語り、少し低い声で無駄がない。そうして、熱い。
 4月22日のハンセン病家族訴訟の話においても、そう。「宇佐美治さんが話をしてたここで話を始めるとは(宇佐美さんが話をしていた「講座」の座敷において、その宇佐美さんを追悼しながら話をするとは)、感無量」と語りはじめた。
 斉藤さんは私の何倍もの回数、長島愛生園へ通いつづけている。
 宇佐美さんとは互いにかけがえのない師友(と言っていいと思う)。
 その宇佐美さんを追悼する思いが斉藤さんの心の推進力になって、4月例会を語ったのではないかとも思う。
 伊奈教勝さん、川島保さん、塔和子さん……とそれぞれの受けた「人生被害」を伝えていく。
 2時間の語りがアッという間に過ぎていく。
 参加者も前のめりになって(ほんとに前かがみになって)、聞いている。
 とりわけ家族訴訟の原告団に副団長の黄(ファン)光男(グァンナム)さんの話がつらい。
 黄さん本人は非ハンセン病者。母親と姉がハンセン病で愛生園へ強制収容され、当時1歳だった黄さん、乳児院へ収容される。10歳のときから、退所した母たちと急に暮らし始めるんだけど、何かがない。何かが決定的に欠損。
 その欠損が母の死に至るまで、心の中にずっと占めていた。
 感情は育ちあげられるもの。その感情がない。これはつらい。きわめて酷。
 明らかに、黄さんもすさまじい人生被害を受く。
 それも黄さん、私と同年。戦後10年、20年たっても「らい予防法」が、保健所が動いて正規に運用されていたんだ。改めて、びっくり。
 黄さんお両親はそれぞれに自死している。これもまた、つらい。
 うーん。いのちが徹底して軽んじられている。どうでもいい、劣ったいのちとして扱われ、自らもおのれのいのちを軽んじてしまっている。
 自死は結果。良いとは思わないけど、ひとつの死因。自死そのものがダメとまで言わない。自死へ至る道が、その全体が、「いのちが軽蔑されている」と感じさせられるのだ。
 「自分は生きていていいんだろうか」。
 こんな言葉をハンセン病者につぶやかせるなんて。
 なんていうことを。
 恥ではない病気(ひとつの感染症)をなんでここまで恥辱と思わせるのか。
 違う。違う。
 あたりまえに、ふつうに生きていいんだ。
 そのままで生きていていいんだ。ほんとうに。
 ハンセン病者、家族はもちろんのこと、みんながみんな、それぞれが生きていていいし、生きているのがいい。だって、みんなそれぞれ、必要があってこの世に来てるんだから(その必要が自覚てきなくて、ジタバタするんだけど)。
 「当事者はいったい誰なのか」ということも重要。権力者たちも、入所者及び家族はもちろん当事者だけど、新聞、テレビ、学校そうして私たちひとりひとりも当事者なんだ。
 しかも、自分自身を優生の側(救う側)に置くけど、劣生と決めつける側(救われる側)に置かれる可能性はある当事者であるということだね――。
 斉藤さん、ありがとう。大切にしたい話であった。感謝したい。ありがとー。
 ハンセン病の問題は、私にとって、ひとごとの社会問題ではない。私自身の親問題につながる、いまここのテーマ。心に沁みた。ありがとう。
 4月22日当日は奈良の交流(むすび)の家づくりを半世紀も前にやったひとが2人も来てくれ、おもしろかった。先駆的な役割を交流の家は果たしているね。鶴見俊輔さんのことをしきりに思い出しながら聞いていたな。
 もういちど、斉藤さん、ありがとうございます。
 24年前、京都支局時代の斉藤さんを愛生園へ連行(?)していって、よかった(笑)。
 ありがとうね。

| 虫賀宗博 | ほっとニュース | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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