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連載コラム「いまここを生きる」(第306回)賀茂川河川敷

 縁あって京都盆地に生息して、もう40年余りになる。
 いま仮にその京都に「もしも賀茂川がないならば」と想定してみよう。
 きっと風土の魅力は半減、いや四分の三減するのではないか。そう思っている。
 4月29日にも、賀茂川の河川敷へ行った。
 御所の東の教会での岡部伊都子さん没十年のコンサートが果てた夕刻、丸太町橋から下りた。
 途中、乗っていた自転車を下りて、ゆっくりと歩いた。
 澄んだ一日がより澄んでいく夕方。
 雲もなく、風もなく、湿気もない。
 寒さは全くなく、暑さはもう少し先。蚊もまだいない。
 晴天の青がしだいに消え、夕焼けの茜までは、まだ少しある白い夕方。昼と夜がひそかに和解しあうような祈りの時。もっともうつくしい時。
 ひとびとが河川敷に集ってきている。
 弁当を食べる老夫婦。おしゃべりしている女の子たちグループ。サッカーしている家族連れ。犬の散歩中の女性。ランニングしたり、ひとりでビールを飲む男性。
 それぞれがそれぞれの姿で、楽しそう。
 のんびり。
 ゆったり。
 ゆたか。
 夕方の風も川の流れも伸びやかな空もすべて贈与。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)に例外なく与えられる。金はかかわらない。これがいちばんゆたか。
 どれをとっても、すべていまここだけ。無から刻々と生まれ、刻々と無へ消えていく。これがいちばんうつくしい。
 賀茂川の河川敷のような広場は、他にない。京都には何もない、原っぱのような場所が他にない。
 いま、京都市役所前の広場(もちろん広場とはとうてい言えないような狭さだけども)が閉鎖されている。大寺院は夕方5時にすべて閉められているし、小さな地下街にはイスも少なくしか置いていない。腰を下ろして、無料で、しずかに休める場所がない。
 京都にも他の都市にも、広場がない。何もない空間を置くということを、きっと拒んでいる。宗教・政治・商業行為の一切を禁じている。ひとびとが集って、群れることを異常に嫌っている。
 広場へ行って、何かを言う。歌う。演じる。これらは自然なひとの表現欲だ。
 それが禁止されている。なんと不自然なことか。学校生活の延長のような暮らしを強制されている気がする。
 河川敷は大雨による増水時において消える。
 消えるからいい。
 だから公園でない。取って付けた様な、奇妙な遊具もない。
 それいいんだと思う。
 その河川敷の価値を感じてほしい。そうして河川敷をもう少し広めて、もう少し南北に伸ばしていってほしいと思う。賀茂川の語源は醸(かも)すだ。旅人を含めたすべてのひとびとに、のびやかな自由を醸してほしいと思う。
 ひとは河原に佇んで川の流れを見るとき、もちろん水流の動きや鳥、魚の動きを見てはいるけど、それ以上に、心の中を覗いて見つめている。悩んだり、悩みを捨てたりして、川を見つめている。それがいい。
 川はいい。水の香りに触れながら、刻々のいのちを見つめる。素に帰ることができるから。私は川が好き。
(5月3日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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