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連載コラム「いまここを生きる」(第310回)あるがままに(その3、完)

 はるか遠くまで見渡せるような言葉に耳を傾けたいとしきりに思いながらも、近くの大きな声に心を奪われてしまう。静かに栄誉を体に隠してあるひとに心引かれながらも、ざわたっているひとの姿を見てしまう。そんな私自身の矛盾をあるがまま、そのまま背負うしかない。そんな呟きの6日間のメモ――。

 

  5月22日(火)
 日本大学アメリカンフットボール部の宮川選手が単独で記者会見。自らの名と顔を晒し、責任をとりながら、ラフプレーをした関西学院大学の同部選手に謝罪。
 試合プレーとは無関係な場所における、背後から狙うタックル。あれは危ない。半身不随になってもおかしくなかった、タックル。
 私はTVで見た。言葉が心がこもっていた。言葉が立っていた。心をこめて、「オレが悪かった、ごめん」と頭を下げていた。そうして、監督やコーチの悪口を、なんとひとことも言わなかった。
 「アメリカンフットボールを離れる」とも言ってた。それがいい。あのスポーツ、まるで戦場の兵士のように、選手を駒として使用しているではないか。駒じゃない。ドレイじゃない。全身の実存を使わないと、つまらん。スポーツは徹底した遊び。防具や戦術思考を捨て、もっと裸になって、人生のフィールドに出てほしい。旅にまず出よう。
  5月23日(水)
 ホームスクールのMさんから、こうの史代さんの『この世界の片隅に』(上中下、双葉社)を借りた。
 ふつうのひとがふつうに生きてある。戦前戦中の耐乏生活の中、ふつうに創意工夫して生き抜く姿、いとしい。
 主人公すずの玉音放送への怒り。「右手はなくなったけど、左手も両足もある」と怒りを初めて爆発させる。
 「この国から正義が飛び去っていく」(下のP.94)。暴力で従わせられた日本の「正義」。それをもっと大きい暴力で従わせる米国の「正義」。
 Mさん、ありがとう。いい本。
  5月26日(土)
 本の整理。4時間半、やる。本は希望だ。その希望を整理始末しなければならない。作業しながら、出会い直していく。
 庭のせん定、ドクダミとり(ドクダミ茶をつくる)、生ゴミ埋め(もう、31年間、生ゴミを裏庭に埋めている)。4時間、やる。
 風がしきりに吹きぬけている。
 もう、すぐ、梅雨だ。いい汗をかく。いい一日。
  5月27日(日)
 阿満利麿さん、法然院の念仏塾へ自転車で行く。
 もう、10年、通っている。
 1年に4回、阿満さんの思考に準(なぞら)え、自分自身の思考を耕す。
 そんな感じか。
 もう少し正直に言おう。
 阿満さんの器、私と同じように、大きくはない。
 なつかしい気性でもない。
 心の先生、善知識というひとではない。違う。
 先輩、先達、同朋(どうぼう)だ。学識は深い。
 話を聞いていても、わからないこと、質問しようという気にならない。考えればいい、調べればいい。
 わからないことが重要。わからないことを体に保っておくといい。
 ふと、体から「こんなんじゃないか」から教えてくれる気がする。
 5月27日も、ずっとわからないことが、阿満さんの思考を聞くことになって、アッと思った。
 何か? 還相(げんそう)廻向(えこう)のこと(『教行信証』岩波文庫の「証」の巻の後半)。多くの浄土真宗門徒は「死後成仏し、この世の衆生を救うために戻ってくる」と言う。ほんとうか? みんな言っているけど(言葉だけで、心は妙と思っているにちがいないけど)。
 信心安心(あんじん)が决定(けつじょう)すれば、往相(往生)廻向が生まれる。
 しかし、どこか遠くの「あの世」へ往くわけではない。「あの世」はある。でも、それは「この世」の中になる。
 別の表現をすれば、アミーダの力によって、自己容認変容の極地へ至ったということ。往生は「往(い)き生き」と生きること。生ききるからこそ、利他行へ歩み出す。
 だから、「この世」において還相が始まる。きっと自己肯定の深さに比例し、他者(己)肯定が生成されるからだ。
 10年、15年かけて、光が差してくる。
(5月31日)

| 虫賀宗博 | - | 05:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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