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連載コラム「いまここを生きる」(第324回)自灯明

 帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ——答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書、2017年、以下本書とする)を読んでみた。
 ゴーバル(アジア生活農業共同体)の石原潔さんから教えられたから(本コラムは前コラムの8月30日付「いまここを生きる」の続きでもある)。
 帚木(ははきぎ)蓬生(ほうせい)という読みかたすら知らなかった。全く初めて読む人ひと。
 おまけに英語のタイトル。必要とするひとびとを遠ざけてしまうので、残念。
 和訳すれば、「負の力」。意訳すれば、「弱さの力」。
 それは何なのか。
 人生でよく起きる、どうにも答えのない、対処する手が見つけられない事態。増水時の河川の激流のような、止めようがない事態。その事態に耐えぬく能力。この力を、ネガティブ・ケイパビリティと呼ぶことを、本書から教えられる。
 この「負の力」をめぐって考えてみよう。
 石原さんはゴーバルづくりの実践の試行錯誤の日々で与えられたのが「まさしくネガティブ・ケイパビリティだった」と書く。「目前の分からない世界に『共感』を見いだせるかどうか、それが生きるということです。それは、知的理解を先行させないで、立ち止まることです。そのとき人と深くつながる『言葉」が生み出せます」と綴る。
 本書に刺激されながらも、石原さんは深いところへ至る。
 「深い共感をもたらす言葉こそが人が生きるのに欠かせないものです。それは自分の乏しい記憶、狭い理解、際限のない欲望を捨てなければ生み出されないのです。与えられた世界の豊かさ、人生の豊かさを見いだすのは、自分が賢くなってからではなくて、自分が空っぽになったときだと思います。」
 とってもいい。「空っぽ」って、とくにいい。
 本書を読んでも、石原さんの心の手記を読んでも、「負の力」って、私の理解しているところのブッダの瞑想ではないかと思う。
 少し書いてみる。
 たとえば、河川の激流に私が飲み込まれたとする。生命さえ危うい。抗うこともできない事態。それに耐えに耐えていると考えてみよう。
 9月4日のいまだって台風21号が来ている。受身でただ通り過ぎるのを待つしかない。
2階の窓ガラスがいちまい、パリンといま(午後2時半)割れる。古い桟の、古いガラス戸だ。ゴミ袋とガムテープで応急措置をする以外にない。
 こういうことは人生に起きるんだ。
 でも、絶望せず、ガマンし、立ち止まっていると、この全体を見つめることができる岸、島のような存在(石原さんの言う『言葉』)が不思議なことに与えられる。ガラスいちまいだけでよかったと思えてくるのだ。
 この精神のポイントが、ブッダの遺言で伝えられた自灯明だ。ほのかな光だ。光が見つかれば、さまざまな手を打つことができる。
 この瞑想の全体が気づき(パーリ語のsati、英訳語がマインドフルネス、マインドフルはブッダの瞑想そのもの、中国語訳が念)。この気づきがブッダの2つ目の遺言。
 ワシらの存在自体がきわめて弱い。生老病死のすべての荒波に晒されている。流されてしまうことだってある。それでも、耐えて、じっと見つめているときに、島や岸のような小さなポイントが浮かんでくる。
 そのポイントを、ネガティブ・ケイパビリティと言ったのではないかと思う。
 いま思う。私は「対話」を心の中でしているのだ。「ブッダの瞑想といっしょだと思うけど、どう感じた?」「ネガティブ・ケイパビリティがひと一般にあるものと思うんやけど、どう?」と対話している。コラムを書いていて、そのこと、痛感。どうか?
(9月6日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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