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連載コラム「いまここを生きる」(第351回)授業・足下の言葉を掘る(その4、完)

 (耳を傾けてくれるひとりの大学生に向かっての授業の記録のつづき、そうしてラスト)3人目は近藤宏一さん(1926〜2009)です。
 11歳のとき(大阪の小学校の6年生のとき)、長島愛生園に強制収容。両親から引き離されます。
 どれだけ辛かったでしょうか。
 別れ際に父親が渡してくれたハーモニカだけが「友だち」だったんです。
 そういえば、収容年齢は家族や地域状況と同じくらいに、影響を人生に色濃く与えると思います。
 きょうお話した伊奈教勝さんは25歳。大学で仏教を学び、軍隊で発病して収容。自我意識は一応できあがっています。それを壊して、愛生園生活が始まりますけど。
 島田等さんは15歳で発病するけど、群馬の草津へ行ったりし、21歳で愛生園へ。一応、自我意識はできているのです。島田さんもそれを崩して降りていったんですね。
 ところが近藤さんは11歳。
 おまけに戦時下、愛生園内に子ども指導道場がつくられ、指導という名のリンチが横行していました。暴力が日常化していました。55人の子どもが飢えて、死んでいきました。「まるで“原爆”が落ちたかのようでした」と近藤さん、発言しています(『病みすてられた人々』論楽社ブックレット)。
 ハンセン病の大人がハンセン病の子どもをリンチにかけるんです。誰に言われたわけでなく、自発的にいじめるのです。
 食糧もなく、両者ともに、ジリジリと追いつめられています。
 近藤さん、殺されずに、生きのびました。
 心が擂(す)り潰されるかのような辛さだったと思います。
 特効薬プロミンによって完治しかかった1953年(28歳のとき)、なんと失明してしまいます。「なんでや、なぜだ」と絶望したと思います。
 ハンセン病の世界では盲人というと部屋の片隅にいて、より小さくさせられている存在です。
 そのとき、近藤さんの人生を変えることが起きます。イエスの言葉をふと耳にしたのです。「盲人が目を見えなくなったのは、本人か両親が道をふみはずしたからか」と聞かれたイエスが、「そうじゃない」。「神の生きざまは、この人によってはっきり現されるためである」(ヨハネ、8−9、本田哲郎訳)と言うのです。そのところを、友人に音読してもらっていたのです。
 「あっ!」と思います。「これだ!」と思ったのです。
 心が渇望しています。聖書が読みたい。指先がハンセン病でまひしています。なんと舌で点字の聖書を読むのです。舌の薄い皮はすぐ破れてしまう。血と唾液で聖書を真っ赤に染めながら、読みつづけ、いのちの光を得ていくのです。
 「とにかく生きることに飢え渇いていたのです」(近藤さんが何度も言っていた言葉)。足下を支えている根っこの言葉を得たのです。自らのいのちを真下に掘ってゆきます。
 同じ年の1953年、失明した入所仲間12人で、ハーモニカ・バンド「青い鳥楽団」を結成。
 近藤さんがまず点字楽譜を舌読し、暗記し、仲間に伝え、仲間たちみんなも暗記。12人で音をカタツムリの進むスピードでひとつひとつ合わせてゆく。ごはんを食べる時間を惜しんで練習し、「ふるさと」「月の砂漠」「荒城の月」の演奏を生んでいったのです。
しだいに評判を呼び、大阪や東京のホールで演奏します。「自分たちはつねに慰問を受ける側だったのに。生きる喜びにつながった」。
 近藤さんは言っていました。「私は『らい』になって、よかったと思っています。これ、本心です。信仰を得たし、『青い鳥楽団』を24年もやれたんですから」。
 「『らい』になって、よかった」ですよ。信じられますか。
 日本政府の「病みすて」政策の被害者だけど、人生の敗北者ではないんです、という内的宣言。ハンセン病政策を内的に乗り越え、全く無化しています。
 ひとの可能性の持つ底力を感じます。間違いなく。
 伊奈教勝さん、島田等さん、近藤宏一さんがそれぞれのいのちのありようによって、危機を乗り越えてゆきました。乗り越え方がそれぞれの言語表現となっています(完)。
(3月14日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 06:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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