杉野真紀子さんに、きのう(3月31日)出会った(以下、杉野さんではなく、ニックネームの「馬子さん」とする)。
馬子さん、大きな赤い長靴の姿で、登場。靴を脱ぐと、裸足だ。
しかも、全身から馬の香りが濃く漂う。
おまけにティーシャツ姿。桜がすでに咲きはじめているのに、冬が急に戻ってきたかのような日和で、小寒いのに。
馬子さんとは初対面。
互いにニコッと笑って、あいさつ。
その瞬間、気(エネルギー)が流れ入ってくる。どどどどど……と。
桁外れの気量だ。
声が大きい。甲高い、日本女性独特の声ではない。野生児の太い声だ。
(後で聞いたら仏教とは縁がないようだけども)自分の実物、実体の上に自分自己がどかーんと座っているんだ。いわば自分が自分になり、自分に乗っかり、生きているんだ。そんな感じが伝わってくる。
馬子さん、活撥撥地(かっぱつぽっち)のいのち(『臨済録』岩波文庫P.61、活撥撥地の原意は、陸に上げられた魚は全身でパチパチと飛び跳ねること)。
自己の実体の活撥撥地に自分自身がちゃんと乗っておれば、妄想(実体事実でないものを幻視し、実体事実であると思い込むこと)なんて、現れて来ないということだ。
ということは、戦争殺戮殺人も差別侮蔑も自己不信不安も、なくなる。土地所有不動産所有に生きることもなくなる。学歴肩書きもナンセンス。生の意味を残さず、生の結果を残すこともない。
こんなにも地に足をつけて暮らすひとはいないのではないか。
こんなにもアナーキーに、社会性を解体しているひとを知らない。
びっくりだ。
馬のように生きる——。それはこんなにもアナーキーな、いのちの野生力が育つんだ。
馬のようにいまここを生きる——。それって、こんなにも吹っ飛んでいくことなんだ(。
馬子さん、「5万円しか現金がないときあわてた」「異性がいるといいな」とか言いながらも(笑わせながらも)、汚泥の中から白蓮を咲かせる野生力(唯識の言う菴摩羅識——あんまらしき——のような格別のちから)を見つけている気がする。ひとりであること、孤独であることの中で摑んだコツかもしれない。
希有なひとに出会った。
風のようなひとだ。
いま、嵐のような風が吹き抜けていった。
タイトルの「風から教えてもらった、馬の話」は不正確。「風のような馬子さんが全身で示した、いのちの話」だった。
自分を信じて、自分のいのちの物語を生ききること以上に、人生の前衛(フォワード)はない。ひとを真似たり、羨んだりする必要はない。そんなことすれば、自分に対する冒瀆だ。そんなことをしている暇は人生にない。
私も私で自分自身の実体にもっとちゃんと乗っていくこと。ズレずに乗って、安心」(あんじん)すること。勇気をもつこと。いのちの海を渡りきること。
そう思う。
あまりにスゴイひとだったので、思わずコラムに書く(ニュースでも書くけどね)。
(4月4日)