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連載コラム「いまここを生きる」(第359回)知識以前の何か

 きのう(5月6日)の夜に、アオバズク(フクロウ)が鳴き始める。
 隣(正確に言うと、隣の隣)のケヤキの2本の大木へ東南アジアの熱帯雨林の森から渡ってきたのである。
 アオバズクの春が2019年も始まった。
 きょうの夜も、さかんに鳴いている。
 アオバズクは異性を求め、ただホーッ、ホーッと鳴くんだけども、いま、私にはなぜか法ー、法ーと聞こえる。おもしろいね。仏法のことをしきりに考えていたからだ(苦笑)。
 じゃあ、何を考えていたのか。
 少し綴ってみる——。

 

      知識以前の何か
               虫賀宗博
父の声がする
父に連なっているひとびとの声がする
父は『教行信証』を読まなかった
『歎異抄』の話も聞いたことがない
ただ聞法(もんぽう)しただけの無口の農夫だった
2時間、3時間かけ、歩いて寺を訪ね聞法していた
田舎近辺に父が足を運ばなかった寺はない
聞法して父は何を得たのか
知識以前の何かである
態度と言うべき何かなんだ
『浄土三部経』を読破しておれば、そのひとの精神はどれほど深くなるのか——
行(おこな)い、行(ぎょう)でしか語れぬことがそのひとにはあるのか——
そんな問いと同じかもしれない何かだ
妙好人(みょうこうにん)が生まれていく何かである

実家を18で出ていく私に静かに語った父の声
《お前には業(ごう)の深いところがある、その業ゆえに壁にぶつかるときこそ、親様を頼みとしろ》
親様は父母、父母の父母……と連なっていくいのちの根源
いのちの根っこを暖めつづけている光
親様によっていまここに包摂されている
気づいていくことしかできない
じゃあ、何に気づいていくのか
《瞑想とは内観(ないがん)のことだ》
これもいつか呟いた父の声
ひたすら包摂されてあること
瞑想内観しなければ実感できない
「ひたすら念仏せい」は「只管(しかん)打坐(たざ)——いのち自らがただ覚(さ)めるだけの坐禅」のことであるもわかってくる
語り得ない何かは同じなんだ
知識以前の何かにおいて同じなんだ
このことと同じように
たとえキリスト教であろうが、イスラム教であろうが、無神論者であろうが、仏教であろうが、その何かに気づいてさえおれば、全く同じで、それぞれのすべてがただひとつに包摂されてあるのである
「すべての宗教が同じだ」なんて言っているのではないけど
宗教の出口は似ている
びっくりするほどに
「互いに大切にしあいなさい」と「アクティング メッタ(行動する慈悲)」は全く同じではないのか
宗教の入口でケンカしていては情けないではないか
以上これらすべてのことをいのちという青空が支え、いのちという風が包み、いのちという水が洗っている
そのいのちが、父の言う親様
「生きてゆけ、大丈夫だ」
(5月9日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 13:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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