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連載コラム「いまここを生きる」(第361回)プラグを抜く、酒以外で

 考えることって、わが知恵の悲しみを知ることである。
 何か。
 具体的に書き記してみる。
 つまらないこと、書くけど、何かの参考になれば、うれしい・
 たとえば、酒。アルコール。
 ごぞんじのように、私は酒好き。酒が体質に合う。
 もう、40年間、飲んできた。
 酒。劇的に気分を高揚させる。向日性で、光に向かって、登らんとまでする。
 ところが、アルコールもやはり薬物。覚めていくときの虚脱後悔の感じ、快くはない。向地性で、大地に落ちていく。
 なだいなだ『アルコール問答』(岩波新書、1998年)は、アルコール中毒をめぐっての対話だ。
 とってもおもしろい。
 なぜ中毒になるのか。そのひとが弱いんじゃない。そのひとのせい(自己責任)ではない。断酒しようとする「心のスウイッチ」そのものがこわされてしまっているからだ。
 他の中毒症だってみんな、同じ。「スウイッチ」が壊れるだ。
 私は気づいたら、飲酒文化(男性優位文化、体育会系文化)に染まっていた。高校1年生のとき居酒屋へ行ったのを覚えてる。それこそが「大人の男」だと勘違いしていたのである。
 全くの誤解だった。大酒飲むのがいいなんて、飛んでもない。
 いまでも飲酒許容文化が蔓延し、欧米では全く考えられないことだが、酒のコマーシャルがTVで一日中流されている。
 ちょっと前まで、ビールをグビグビと音を立てて(うまそうに)飲む光景をTVで流していた。
 子どもが見ているのに。激しい副作用があるのに。
 いまも100円台の安い酒がカンタンに手に入るのである。
 日本人が得た自由は「アルコール中毒になる自由」だけではないか——。
 戦場のような企業生活の中で「プラグを抜きたい」と思っても、それが「いっぱい飲もう」になってしまっているのではないか——。
 呟いてみる。
 20年ほど前から少しずつ禁酒日をつくるようになってきた。私は無酒日と呼んでいるけど。
 月に10日がせいいっぱい。
 この5年、月にやっと15日になって。
 今月は風邪のせいもあって、16日(きょう5月20日時点において)。だから「どうしたの?」「そんなこと、やっていたの?」という話なんだけど。
 そうして、少量の酒量を3時間かけチビリチビリと飲むクセもつくりはじめている。最初に計量して、「これだけ」とオープンにし、熱燗にするなんて、わかりやすい。
 おもしろい方法を見つけた。飲酒文化の本道からはずれるんだけど。
 まずは月に無酒日20日をコンスタントにキープしていきたい。
 半分壊れかかった「心のスウイッチ」も動き始めてくれる。ゆっくり、ゆっくりだ。
 ただ禁酒すればいいというもんではない。
 すこやかに心が落ち着いていなければならない。
 もっともっと魂を守ってゆきたいのだ。
 酒が悪いわけじゃない。今後も何かの祝いごとのとき、パァーッと、植木等のように飲みたいと思っている。
 酒はひととひとを結びつけ、歌って、踊ることができる。阿呆になることは大切だ。
 けれども、酒だけに頼ることなく、酒なしでもまずはコミュニケーションがちゃんととれている文化をつくっていなきゃ、それぞれのひとの魂が守れないんだと思う。
 それどころか、ひとりひとりが孤立している。激しい孤独におそわれている。
 浜田晋『病める心の臨床』(医学書院、1976年)を読んでいても、ひとりぼっちの孤立感が「病める心」を育てているのを感じる。アルコール中毒、ギャンブル中毒、ニコチン中毒。そうして性犯罪。
 すべてに、まず、深い孤独がある。
 産業革命以前は、みんなアルコールを手で醸造していたので、中毒になるほどに提供できなかった。工場で大量醸造ができるようになって、初めて本格的な中毒者が続出してきたのである。
 プラグを抜こう。アルコール以外の方法で、私は抜きたい。
 魂を守ろう。
(5月23日)

| 虫賀宗博 | いまここを生きる | 13:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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