論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
<< 連載コラム「いまここを生きる」(第366回、最終回)死者子孫大地、そうして「いまここを味わう」へ | main | 連載「いまここを味わう」(第2回)離脱者 >>
連載コラム「いまここを味わう」(第1回)逆説の救済

 14年前に始めた連載「いまここを紡ぐ」を終え、7年前に「いまここを生きる」を始めた。いま再び、「いまここを生きる」を終え、新しく「いまここを味わう」を始める。
 ラベルを変えても内容中身が変わるわけでない。「遊び事として改名しているんだ」とひとは思うかもしれない。
 以下説明を試みる。
 私はいまも内発的にボールペンを取っている。
 では、なんで書くのか。
 原稿料が出るわけでない。外的な評価があるわけでもない。全くのところ、内的な心もようが書かせていると思う。
 その心もようを改めて、「いまここを味わう」を始めるにあたって、綴ってみる。
 ほんの少しだけど。
 ひとことで言えば、自己受容と他者信頼——。
 この2つをめぐって14年間考え、感じ、書いてきたのではないか。
 そう思う。
 もちろんそれぞれひとりひとりに自己・他者がある。
 いかに受容し、どのようにして信頼するか。
 それぞれがそれぞれ悩み苦しむ問題である。
 私もそのひとりとして生き、書こうとしている。
 私はある直観で、共同体というものを求めていた。
 生まれ育った時、村というものはすでに実質消滅していた。村落共同体の実態は消え、残り香のような意識だけが残っていた。
 長い、長い村落の歩みが消えていくけども、意識はまだまだ生きている。
 そう思いながら、町の中の村づくりのような行為——仮に論楽社と呼んでみた——を試みたのだと思っている。
 水田耕作が村の中心にあった。水田なしの村づくりは無謀なのか。実践し始めて、その共同体意識はいままで何回か破壊されかかった。
 それでもそのたびに具体的なひとが具体的に助けてくれ、いまここに至っている。
 別の言いかたをすれば、それぞれが抱えている業(ごう)の軌道がずれて、衝突した。本来それぞれ他者の課題に踏み込まない、踏み込んではいけないのに。
 衝突の結果の死である。仲間共同体感覚の死である。ほんとは死んでいないのに。まるで死んだかのように感受したのである。
 立ち直れないかのような思いの果て、死の感覚が底を打つ、いっさいの救いはない、救済はありえない——という体の感覚を経て初めて、救済がほんとうに思え始めてくる。実感が湧くんだ。
 政治や宗教による救済は、これからも必須であると思っている。でも、同時に政治や宗教による救済なんかあり得ない。あるもんか。そう思う地平でしか湧かない救済の声を聴くこと。無音の肯定是認の声を聞くこと。これこそが、救済であるといまは思っている。
 なんとも言いようがない逆説の救済である。
 こういうことがあるんだ。
 わが身に起こるんだ。
 そう思っている。
 以上の気づきを保ちながら、いまここの風に吹かれながら、身辺雑記を綴ってゆきたいと思う。
 「これ以上書けず、書かぬ」と思ったら、そのとき止める。
 その日までお付きあいのほどを。
 もっともっと勇気をもって、私の(それは、私たちの)課題に取り組んでいきたい。その課題は悲願である。
 過去を変えることができない。しかし、未来は変えることができる。将来は変えることができる。
 そう信頼し、歩き出す。
(7月4日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 09:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









http://blog.rongakusha.com/trackback/879062
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

このページの先頭へ