連載「いまここを味わう」を始めるにあたり、アレコレと書き残すことが溢れているのかもしれない。
正月を迎えたかの気分かもしれない。
気合は入れすぎないようにしないといかん。
心を整え、書くね。
もうひとつだけ、加える。前回(逆説の救済が人間にはあるんだ)のことに、以下のことを付け加えてみる。
何か。
私がローファー(loafer)であることだ。その流れのひとりであることを痛感しているということである。
のらくら者、浮浪人と英和辞典にある。
どうしようもなく制度や支配を否定してしまい、離脱していくひとのことだ。アナーキストと言ってもよいかもしれない。H・ソロー、J・エックハルトが思い出される。
みんなにはなれない。ずっとひとりの離脱者のことだ。
奇人変人遊び人と他者からは思われ、いくら本人(私自身)が努力しても結局のところ奇人変人遊び人と思われるんだな。
ま、私のことは、どうでもいいんだけど、
ローファーとは内的な欲求に従い、漂白してさまようひとのことなんだ。
有島武郎がホイットマンについて語っているのを縁あって読んで、身に沁みたのである。
この1年、本田哲郎さんの講義を聞いていて、イエスをすこぶる身近に思っている。イエスのこと、語りたい。有島はイエスのことも語っている(1920年に新人会で行った講演「ホヰットマンに就いて」である)。
言うまでもなく、生前のイエスはキリスト(メシア、救世主)ではなかった。
イエスはひとりのローファーであった。「なるほど」と思う。ただひとはひとを「大切にしていこう」と語って、実践していた。
ところが、イエスが生きていた当時から弟子の中でも民衆たちの中でも(きっといまでも)「救世主」を待望していた。
その救世主の「右に誰が座るか」とか「誰がいちばん偉い?」とかが弟子たちの中で起きたと福音書にある。もうすでにキリスト教が生成していく萌芽があるんだ。
ローファーのイエスは殺されていったんだ。イエスをメシアにしていくなんて。とんでもない皮肉。
有島の言葉を引用してみよう。「今仮りに基督がこの世に生まれ出て来たとし、現存の基督教会の人達が彼の許に来て、この世界に多数の信徒を有するわが基督教会は、実にあなたの言行に基いて建てられたものであります故、その教会の元首となって下さいと頼んだと想像してみたら如何でせう。若し私に自由な想像が許されるなら、基督は必ずその教会に属することなく、或いは教会に対して非難の声を挙げるやうなことが起るのではないかと思ふのです。」(『有島武郎全集』第6巻、新潮社)。
有島はイエスとキリストをいっしょにしているけど。ローファーのイエスがキリスト教会には属することなく、批判していくなんて、おもしろい。
同じことは、親鸞でも道元でも起きると思う。
ローファーは、当然なのだが周辺的存在。全くのアマチュア。きっと亡命者のよう。流謫(るたく)されたかのようなもの。誰かに対してもそうでなくても、ほんとうのことを語ろう、書こうとしてしまう業(ごう)のひと。
何者なのかではなく、何者でないかという存在——。
以上のこと、ただ呟いて、書いてみたかったので、綴った。
もちろんローファーでないところ、私にある。ところが、気づくと、ローファーへ引っぱられるんだ。
そう気づく。
次回から「いまここを紡ぐ」「いまここを生きる」と同じように、各論を書く。
(7月11日)