10日もたってしまった。
レポート、遅れた。ごめん。
塩田敏夫さんの話、よかった。刺激を受ける。
ところが、反応が生まれてくるのに10日間もかかったんだな。
おもしろい。
「その間(ま)がいい」と思うようにしている。
無理にしない。急がない、間を待つ。
でも、遅れて、ゴメン。
準備はていねいに1か月かけた。61通の手紙、書いた。塩田さんの昔の新聞記事を含め、「来てほしい」と手紙にした、手紙が論楽社の原点。
16人が参加してくれた。ありがとう。感謝感謝。
内容だ。塩田さんの話に、久しぶりに、幕末に生きた漢(おとこ)たちの姿を想起していた。処士横議、浪士横行——なんて言葉を連想した(ちなみに民衆がヨコにつながりあっていくことを160年前も当時の政府もキライであった)。
米国人米兵は特権を与えられている。たとえ交通事故を起こしても日本の法律で裁かれることはない。
「どんな事故だったか」をしっかりと市民に伝えていくという基地建設当初の約束だった。その約束が昨年2月から1年5か月以上も守られていない。
市民たちが抗議するけど、米軍は無視。市民を守る京丹後市役所も、特権者に気をつかって、フラフラ。
「なんでなんだ」と塩田さんは問う。
言ってみれば、そういう6月例会だったんだけど、塩田さんの気迫がいっそう増していた。深まっていた。心に沁みた。
毎日新聞社が不振(新聞を読まない)。人員削減が続いている。厳しい。
そういう状況の中でも「書くんだ」という意志が伝わっていた。
「自分にしか書けないことを書くんだ」という記者魂を感じていた。
その塩田さんしか書けないのが、山口洋子さんのこと。
米軍基地のある宇川は過疎地。唯一のスーパーマーケットが閉鎖してしまった。買いものができなくなってしまった。
山口さんは宇川の特産品づくりに勤(いそ)しんでいる。「孫子(まごこ)に生々とした故郷を残していきたい」という願いゆえ。
タクシー会社も宇川から撤退したとき、山口さんは「支え合い交通」の運転手をかって出て、高齢者たちが買いものするのを乗せてきた。だから、そのスーパーが消えるということが「どれだけ大変か」を肌で知る。
その山口さん、ある移動販売の会社の社長に「宇川に来てくれ」と直(じか)談判。
問題は冬場の運転。日本海沿いの宇川だ。冬が厳しい。風が強い。道も凍る。男の運転者だって、躊躇(ちゅうちょ)。
そこに、「私が運転します」と山口さん。62歳の気迫の女性だ。
涙が出る。
その山口さんも、もちろんのこと、米軍基地に立ち向かう。
だって、「孫子に生々とした故郷を残していきたい」ゆえだから——。
沖縄のひとだって、宇川のひとだって、みんながみんな、故郷の風景を残してゆきたい。あたりまえの生活に、米軍基地なんていう、いわば特権者(つまり人権破壊者)が相容れるわけがないんだ。
塩田さんはそういうおばあ、おじいたちと交流し、塩田さんにしか書けないものをこれからも書いてゆく、ポジティヴ・ニュースのポジティヴさがいっそう深まっていく——。
以下番外編。
交流会で、なんかの拍子に永井葵さんが中島みゆきの「ヘッドライト」を歌い出した。すると、「もっともっと聞きたい」となり、ビギンの「島人(んちゅう)ぬ宝」「風(かじ)よ」「涙(なだ)そうそう」を次々と歌う。無伴奏のアカペラで。こんなおもしろい夜は、初めて。
塩田さんも歌う。なんとユーミン(松任谷由実)の「卒業アルバム」。
ちなみに今月6月は明子との生活、まるまる5年。「6年目へ」の月だね。みんな、ありがと、ありがとう——。