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連載コラム「いまここを味わう」(第4回)背中が痛い

 大阪の泉大津に南溟(なんめい)寺がある。
 いちど行ってきたいと思う寺のひとつである。
 住職は戸次(べっき)公正さん。戸次さんはお経(浄土真宗)の意訳・口語自由訳をいま試みている。
 無量寿経も正信念仏偈(げ)も戸次決定版がすでにあり、実際の法要や葬儀でも、希望者には口語訳を使うと聞く。
 正信偈が終わり、親鸞の和讃朗詠の前の、「南無阿弥陀仏」を七回連呼するところでは、こんな訳が付く。

 

なむあみだぶつ わたしは ここにいます
なむあみだぶつ あなたの そばにいます
なむあみだぶつ それは「いのち」そのものの名のり
あらゆる「いのち」あるものとともに生きたいという願いの言葉
なむあむだぶつ わたしの名まえを覚えてください
なむあむだぶつ あなたの方から呼んでください
なむあむだぶつ 「いのち」のねがいの心をたずねて、
よく聞き、信じて、受けつぎ伝えて、歩んでゆきたい

 

 死別したひとの別れの場において、こんな口語日本語をみんなで朗読する意味はとっても深い。
 読経って、漢訳された仏典をそのまま、ひたすら素読する。
 日本語の音訓の音は、中国語の日本語なまり。日本語ゆがみ。その音(おん)読。
 それはそれでいいんだけど、でも長時間にわたって、意味から遠く離れてしまうことは、あまりにももったいない。
 みんな、「こんなもんだ」と思い、ひたすらガマンしてるのではないか。
 大乗仏教にも残るブッダの言葉を少しでも伝え、いのちをとらえなおすことがもっと必要なのではないか。
 意味不明をありがたがってはいけないと思う。
 そんなあたりまえの、他に類を見ない実践が行われている寺の通信が「法蔵魂」。この通信もいい。
 その2019年2月号に、こんな詩がのっている。とってもいい詩だ。
 坂村真民さんの「晩年の仏陀」。
 「『阿含(あごん)経』に書かれている光景——と戸次さんは書く。『阿含経典』(ちくま学芸文庫、ブッダの肉声が残っている)を読み返してもまだココダというところに当らない。不明のまま書き記す。

 

わたしは晩年の仏陀が一番好きだ
背中が痛い
背中が痛いと言いながら
あるときはただ一人で
あるときはアナンと二人で
老樹の下や川のほとりで休んでいられる
八十ちかい釈尊の姿に
一番こころひかれる
小鳥たちも相寄ってきただろう
野の草たちも相競って咲いただろう
その頃の仏陀は
もうわれわれと少しも変わらないお姿で
静かにすべてを抱擁し
一日でも長く生きて
一人でも多くの者に
あたたかい教えを説いておられた
父のように慕わしい
晩年の仏陀よ

 

 あのブッダが80歳近くになって「背中が痛い、痛い」と言っているならば、なんとステキか。
 しばらくして毒キノコにあたって下痢をしながら、ブッダは80年の生涯を終えている。
 この史実も励ます。
 煩悩の苦からは離脱したブッダでも背中が痛くて、布施された毒キノコのスープを飲んで体を弱らせていたんだ。
 解脱してもなお(もしそれが事実ならば)背中が痛いなんて、ひとりぼっちで人生に座礁してしまっているひとをも励ます。
 やさしさの水位が増え、増し、その人生の座礁船を包み込んで浮かび上がるかもしれないのだ。
 イエスだって最後の最後、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのか)と言ったではないか。
 信心信仰を得るならば、世界を生きることへの信頼は深まる。でも、それで何か特別の神秘が起きて、すべてがメデタシとなるわけなんてないのである。
 悟っても背中や腰は痛くて、腹痛も起きるのである。
 それがいいし、それがきっと救いなのである。
(7月25日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 15:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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