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連載コラム「いまここを味わう」(第5回)掬いとられる欲念

 信州の松本と上高地へ7月25日〜27日に行ってきた。
 明子といっしょの小さな旅である。
 今回登山はしない。上高地を登山なしで歩いたのは初めて。
 松本という町の魅力は、きっと山岳と民芸と湧き水に尽きる。この三つが多層的に重なり合って、松本に生活するひとたちを潤(うる)おし、育(はぐ)くんでいる。
 松本盆地、西側が飛騨山脈(北アルプス)、東側が美ケ原・霧ケ峰の山塊によって囲み込まれている。それぞれの山塊が深い。高い。
 どの通りからも常念岳(2857メートル)の凜(りん)とした姿が望める町は他にないね。
 その山岳に降った雨や雪が何十年、何百年と沁み入り、盆地のいたるところで湧き上がっている。
 神社、寺院になっている湧き水もあれば、ビル・オフィス街の地の湧き水もある。まことにゆたかな自然ミネラルウォーターの地だ。
 できるかぎり歩いて回り、飲んだ。源智の井戸、槻井泉神社の湧水、大手門井戸、北馬場柳の井戸、地蔵清水……と。
 それゆえ当然ながら、松本はそばがうまくて、パンやクッキーがうまい。米がうまくて、きゅうりがうまい。
 のびやかに育つ樹木があり、建材を得るので、さまざまな木工の家具の品々を生んでいる。机、椅子、箪笥(たんす)に灯(あかり)照明も見事である。なまこ壁の土蔵の家屋だって、美しい。
 町全体がひとつの民芸の作品。
 松本民芸館にも20年ぶりに行ってみた。とってもいい場所。
 そうして、改めて、思うのである。
 何か。
 《ひとという存在は欲望を捨てられないようにできている。我だけが善、ワシだけが得。欲念によって動いて、他者を傷つけることがとっても多い。でも、例外がある。たとえば、芸術。これだけは自分の欲望だけを満たしきっていっても、誰かを傷つけることはない》。
 芸術が人間の欲望を掬いとっているのである。
民芸の場合、自分自身の欲望(有名になりたい、ゼニがほしいというごくふつうの欲念)のままに、美しいものが生まれているのである。
 どんな無名の陶工だって、「オレが、オレが」の自意識はある。しかし、何百、何千、何万という数の器に絵付けを繰り返しているうちに、自意識がそのままなのに、他の心が耕されていく。心が掘られていく。無意識のどこかの古層に突き当たったとき、妙なる美が湧くのである。
 その古層は仏心が湧く層なのである。仏法が流れる層なのである。これは神秘でも何でもないのである。奇縁でもない。
 仏心も仏法も仏教用語と言うのであろうか。宗教批判をするのであろうか。
 そういう宗教ぎらいのひとには、仏教以前の用語として捉え直してほしい。
 水をひとはつくることはできない。ひともトンボもケヤキも、ただ水を借りて、生命活動するだけである。死んだら、すべて返さねばならない。それが生きてあるということ。
 そういう水を湧き水として一方的に贈与されている町には、人間の欲望が掬いとられていく民芸のあたりまえのこととして受けとるひとびとがいる。民芸は湧き水のように、うまい。そんな松本という町。
(8月1日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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