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連載コラム「いまここを味わう」(第9回)包摂

 松本へ行って、びっくりしたことがあった(松本への旅については「掬いとられる欲念」連載コラム「いまここを味わう」8月1日付を見て)。
 そのことについて、少し書く。
 何か。信号機のない、ふつうの横断歩道を渡ろうとしたら、車がなんと止まってくれるのである。5回か、6回か、そういうことがあった。
 歩行者がいると思うと、車が遠くから減速しはじめ、手前でピタッと止まってくれるのである。
 そのたびに、「おお」とびっくりした。
 私と明子が会釈し、渡ろうとすると、車の運転手も会釈し返してくれた。気持ちがとってもいい。
 京都において、ほぼ、ない。あっても例外、赤ちゃんや小さい子を乗っけている女性とかに限る。まあ、ない。
 その思いを裏付けるデータが新聞に出ていた(朝日新聞2019年8月11日付、日本自動車連盟の全国1万1千台についての、信号機のない歩道94か所における調査、一時停止した車の割合の都道府県別)。
 長野59パーセント。静岡39パーセント。石川27パーセント。島根27パーセント(四捨五入)
 これらが上位。
 松本の3日間での気持ちいい感じが確かめられるのだけれども、全体には低すぎないか。
 全国平均として一時停止したのはなんと9パーセント。
 9割以上が全く止まらなかったのである。
 下位は栃木0.9パーセント、広島1.0パーセント、三重と和歌山ともに1.4パーセント。
 ちなみに京都は3.8パーセント。
 もっと低い気がするけどねえ。
 それに散歩中に車と遭遇し、道を譲っても、手を挙げるとかしたりしてあいさつを交わすこともない。全くの素通りである。無視される。
 なんでコミュニケーションをとらないんだろうか。
 互いに「敵ではない」という最低限のあいさつを交わすのがいのちの基本だと思うけど。
 車がふつうに暴力として生活道路に入ってきて、もうすでに半世紀。
 子どもが路地で遊ぶことができなくなってもう半世紀だ。
 喪失したものはいっぱい。
 もういちど思い巡ってほしいんだ。
 車を購入し、運転するために支払う費用は、車を利用して得られる便益よりはるかに小さいことである(宇沢弘文、『自動車の社会的費用』岩波新書、1974年)。
 このことだ。
 車に乗っているときの密室私的空間。それが移動し、家から目的地まで、直行できる。まるで昔の王族のような特権を得てるんだ。
 その小さな特権のために、もともとは人間が使っていた公的な道路を(最初は)無断で無料で使用し、高速道路の修理費もすべて税金によって支払われているんだ。忘れたんだろうか。
 特権には責任が伴う。
 その責任のひとつとして、歩行者と遭遇したとき、「あなたは敵ではありませんよ」というミニマムのあいさつを互いにしてゆきたいと思わないか。
 それは、私が包摂、社会的包摂の示現を願っているからだ。車をその包摂を切断させる道具のひとつと思うからだろう。
 あいさつは包摂があって初めて生まれる姿。マナーとか礼儀とかの話ではないんだ。
(8月29日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 11:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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