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連載コラム「いまここを味わう」(第10回)線を引く――もともとどこにもなかったのに

 ミキ・デザキ監督のドキュメンタリー映画の『主戦場』(2018年、米国)を8月末に見た。
 藤岡信勝、桜井よしこ、ケント・ギルバート、加瀬英明という御歴々の生の言説を初めて見て、聞いた。とっても参考になった。
 日系米国人のユーチューバー(監督・撮影・ナレーションのすべてをひとりでやっている)が遠く米国からやってきて、基本的な質問を「慰安婦問題」について次々と行うので、「何だ、知らないんだったら、いちから説明しようか」とばかりに心を開いてしまっているのではないのか。
 いきなり感が画面に表出されていて、おもしろかった。
 杉田水脈(すぎたみお)議員もそのひとり。監督と気が合ったのか、たびたび登場。
 語りかたのフラットさがしっかりと流れてくる。
 表情のあまりない感じなんかがどんよりと伝わってくる。
 おもしろいのは、日本と韓国(朝鮮)・中国との間に(杉田議員にとっては全くの当然自然という感じで)見えない線がいっぽん引かれているのである。もともとどこにも存在していない線をつくりあげ、あるかのようにして引く。
 この線は何か。
 それは『新潮45』2018年8月号に「『LGBT』支援の度が過ぎる」「「LGBT」のカップルは子供を作らない、つまり『生産性』がないので」と全く同じ線だ。LGBTのカップルとそうでないカップルとの間に、見えない線がいっぽん引かれるのである。
 実は杉田議員は『新潮45』2016年11月号にも同趣旨のことを言っているんだ。
 「少子化政策や子育て支援に予算をつけるのは、『生産性』を重視しているからです。生産物のあるものと無いものを同列に扱うのは無理があります。これも差別ではなく区別です」。
 政策的判断もひとがする。そのひとの判断によって、あるひとびとだけを選別し排除することが差別。区別なんかで決してない。これは何なのか。
 他の解決策があり得る可能性すら想像できずに、コストの計算をしてのっぺりと差別してしまうことへの違和感はどうしようもない。
 話を『主戦場』へ戻す。
 杉田議員はなんの根拠を示したこともなく、思い込みで中国・韓国(朝鮮)を劣ったひとたちのように『主戦場』で言う。
 それは戦前の日本の共通認識であり、戦後の日本会議のメンバーやサポーターにおいては、「ごくあたりまえ」のことなんだ。まるで雨の降る日は天気が悪いと言うかのように、線を引く。
 もともと侮蔑感が日本にあったわけではない。勝手に妄想した。日本が侵略するにあたって、シラフではひとを殺すことができないので、侮蔑感を自らの思い込みでつくりあげておいて、軍事行動したのである。
 そういってつくりあげた侮蔑差別感を根拠に――根拠の理由をひとつも示さずに、思い込みのままに――、さまざまな事由で人身売買されてきた女性を、自由職業としての売春婦――その自由すら、ひとつの根拠を示すことなく、つまりここでも思い込みのままに――と規定していた。「そんな女が権利主張なんて!」という流れになっていったんだろう。何重もの思い込みの自我感情の露出(これが語りの平板さの理由だ)に、暗澹(たん)たる思いで映画館を出た。
 現在、緊縮緊縮の、「お金がないんだ」「財政赤字だ」「社会保障費の逼迫(ひっぱく)」のかけ声がスローガンになっている。
 おまけに10月から消費税が10パーセントになる。いっそう緊縮の声に拍車がかかる。
 責任や原因を問うことなく、ただ緊縮を言いつづけることは、「お金がないんだ」「国家財政のこと、考えろよ」と、他者、弱者、少数者、反対意見者の頭をポカポカと殴ることになっていった。
 緊縮に文句批判した「れいわ新選組」だって、ポピュリズムというレッテル張りされ、叩かれた。ポピュリズムって何だ。何の悪口だ。
 その緊縮が生み出すコスト(ゼニ)の意識と排外主義が自我感情の何重もの上塗りを経たのっぺりした表情になって、杉田議員はほほえんでいた。『主戦場』の中で。
 『主戦場』を見て、よかった。
(9月5日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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