私は山好きなんだけども、私の登山は「ヒマラヤ逍遥じゃくて、ウラヤマ徘徊」と気づいたときから書き始めるシリーズの8回目(前回までは「いまここを生きる」の流れだったけど)。
9月15日に比良山系の峠道の縦走へ行った。
朝7時発の湖西線に乗る。トンネルを抜け、京都から大津へ出る。琵琶湖が見えてくる。海のような湖を眺めると、考えてみれば、「比良山系歩き」がすでに始まる気がする。
琵琶湖の風景の中に立つ屏風絵のように比良山系は立っている。
その日、全く雲がない。珍しく、100パーセントの青空。
比良山系の荒川峠って言っても、きっと誰も知らない。よく比良へ行っている私も山地図を見て意識するまで、「そんな峠、ヒラなんだな」。
40年もの昔、長い縦走したとき、通過したけど、記憶にない。奥ノ深谷側(琵琶湖とは逆の西側の渓谷)の森がよかった思いがあるだけ。
そんな地味な峠へ上がって、ただ歩く。
ゆっくり歩く。
ピーク(山頂)はもう目指さない。
さあ、出発。青空へ向かって、登っていこう――。
地味すぎて、道標がない。登り始めの糸口がつかめない。
湖西道路(志賀バイパス)ができた。奇妙な側道をつくったりし、旧道の山道が余計にわからなくなっている。
荒川の村(集落)のひとに聞いて、やっと、山道がつかめはじめる。
かなりの急登。
けっこうな急坂をクネクネと登っていく。
2時間かけて、大岩石の分岐から、休み休みしながら、やっと、峠へ上がる。
でも、体に負荷がかかるときに、なんで、こうも、自我感情が湧き上がるんだろうか。
空はこんなにも青いのにね。
そういう感情に気づく。「あるな」「湧いているな」と気づく。気づいて、放念していく。捨てていく。
私、ずっとそう思い、実践してきた。
その捨てる主体の私が自我感情がたっぷり盛った、いまの私ならば、ほんとうに捨てることができるんだろうか。
「捨てた」と思い込んでいるだけなのではないか。
瞑想すればするほどに「瞑想太り」するだけなのではないか。
どこか、確実に、ゴマ化してきているんだ。
そうではないんだ。きっとね。
衆生無辺誓願度(生きとし生けるものが幸せでありますように)と願う、自我意識ではない(自我は私だけを守るのだから、衆生無辺……と祈ることはありえない)、別の、もうひとりの青空のような私がはっきりと在ることを感じていくこと。その実感がいいんだ。
そんなこと、感じながら――感じていると、なぜか赤トンボがいっぱい群れてやってくるんだ――、標高900メートルの稜線歩きを楽しむ。
シャクナゲの花崗岩の山道を歩く。風が奥ノ深谷から吹き上げてくる。気持ちがいい。
南比良峠を過ぎ、金糞峠まで歩く。「北比良峠までは行こう」と思ってはいたけど、無理しない。まだ1時半だけど、下山開始。
9月とはいえ、夏山。汗をてんこ盛りかいた。湯(比良とぴあ)に浸かろう。
(9月19日)