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連載コラム「いまここを味わう」(第14回)ようこそ、ようこそ

 慈悲の瞑想がある。
 まず最初に「私」から始める。自分自身が頼っているいのちに対して、非暴力で。「私が幸せでありますように」。
 次には私が好きなひとだ。好意を持っているのだから、やりやすい。心から「○○さんが幸せでありますように。
 3つ目に、たとえば、「今朝駅前ですれ違った、名も知らぬ、赤の他人のあのひと」へ。体に微細なエネルギーが満ちて、自我感情のおしゃべりが止む。「このひとが幸せでありますように」。
 4つ目が難しい。嫌いなひと、私を傷つけ、悩ますひとに対し、「○○さんが幸せでありますように」。
 私自身の自我感情のみに基づいて、私を苦しめる「○○さんが幸せでありますように」とはとうてい言えない。そんな全身が了解していない、矛盾の祈りをするから、宗教家にはウソっぽいひとが多いのだ。
 でも、最もイヤなひとが「幸せでありますように」ともしも素直に瞑想できるならば、その主体はもはや私ではない。私情(何が得だとか、これは勝てるぞ、こっちのほうが偉く見えるぞ――という俗情)ではない。
 じゃあ、何か。もうひとつの、別の、青空のような私、私を支える何かなんだ。
 3つ目の赤の他人にすら「苦しみから解放されますように」と大切に思えるのだから、私を攻撃してきた○○さんだって、大切に思えるはず。好きになることは全くできないとしても。
 その青空のような、本来の自己のような主体のことを、古来からアミーダ(阿弥陀仏)と言ったり、カンゼオン(観世音)と呼んできたんだ。
 このアミーダも、カンゼオンも、どのひとにも等しく在る。私にもある。
 4つ目の、この瞑想が腑に落ちて成功したとき、「在る」と実感できる。
 その実感がうれしいではないか。安心(あんじん)である。
 でなければ、5つ目の「生きとし生けるものが幸せでありますように」「生きとし生けるものがすべての苦しみから解放されますように」という言葉すら成り立ち得ない。偽善の極みでしかない。
 妄想だらけ、顛(てん)倒だらけのいまの私なんだけど、もともとの私は空っぽの赤ちゃんとして、手放されてきた存在だ。不汚染(ふぜんな)の青い空の存在だったのである。
 ウソっぽい、ダメな凡夫の私自身が極小していく。無限極小化されていく。
 そのときに出会う極大化の、とてつもない世界。無限大化の、ぬくい世界。
 何もかも容認され、そのままが肯定されていく世界。
 その出会いの言葉が「ようこそ、ようこそ」である。「ようこそ、ようこそ、なむあみだぶ、なまんだぶ」だ。
 因幡(鳥取)の源左(1842〜1930)という妙好人が生涯繰り返した言葉だ。
 私は源左を父親のように思っている。ゲンザ父さんだ。
 源左は兄弟や息子が精神病になって死んでいった。火事にもあった。そのすべてに「ようこそ、ようこそ」と包んでいった。
 源左は文字を読めなかった。書けなかった。デン(牛)に頼って生きた農民だ。
 人生、いのちの中心にアミーダを感じていたんだ。
 つねに体を動かし、働き、餅を好んで食べ、生きていった。
 その源左の「ようこそ、ようこそ」を40年前からいただいている。パクっている。
 少しでも、ちょっとでも近づいて、生かされていくために。
(10月3日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 14:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | -









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