ひとは愛されたようにしか、愛することができない。
父母祖父母その他から愛されたことしか、他者を愛することができないんだ。自分が「扱われた」ようにしか、ひとを「扱う」ことができない。
これは自らのことを思い返しながらも、峻厳な事実ではないかと思う。
この事実からすると、中村哲さん、いかに両親と祖父母から大切に育てられたことか。
あれだけ多くのひとびと(アフガニスタン人であろうが、日本人であろうが)から、あれだけ慕われ愛されていることからすると、その愛情量のほどがわかるではないか。
哲さんの母の父母、名を玉井金五郎、マンという。
筑豊炭田から積み出す男たち(沖仲仕という)の相互扶助組合「玉井組」を立ち上げた夫婦である。
その隆盛期の様子は『花と龍』(岩波現代文庫、作者は火野葦平、本名は玉井勝則、金五郎とマンの長男、哲さんの伯父)、に詳しい。映画にもなった(ただし映画ではヤクザ者になってしまっている。事実は義理人情の組合)。
若松湾に船が入ってくると男たちが争って炭を積み込んでいく。「給水」といって水も船に運んでいく。その男たちをまとめていく玉井組だ。
懸命に体を張って働く大人は偉いもんだ」と子ども心に思っていた(引用は論楽社の「講座」の発言)。「当然、自分もそうなるつもりでした」(同)。
肉体労働をバカにしているひとは世に多い。哲さんには全くなく、逆に決して働くことこそが仕事の原点との思いがある。
哲さんの晩年、水路土方工事の陣頭指揮を取ることになった原点も、この玉井組にある。
弱者は率先してかばうべきもののこと。
職業に貴賤がないこと。
どんな小さな生きもののいのちも尊ぶべきこと。
これらを玉井マンから全身で哲さんは薫陶を受けるのである。
内面化され、哲さんの生涯を貫く内的倫理になっていく。
その祖父母は後に「超自我の像」ともなって、動くことのない北極星のように、生涯に渡って哲さんの人生を見守っていくことになる(「講座」の発言)。
以上、哲さんの精神の現場の土台になっているところだ。人格の根にある地盤だ。
いわば家屋の一階部分にあたる。親問題(鶴見俊輔)だ。人生の根本の問題である。
その一階の上に二階部分が花咲く。子問題(鶴見)である。親問題から派生する。
二階部分の、たとえば、憲法9条のことを哲さんが言うときも、「平和と経済成長は両立しない、両立できない」と言うときも、土台の一階部分がゆたかに支える。有機的に動き、いのちの水がどんどん湧く。
一階部分のない、ほそいひとびとに比べ、たとえ同じことを言っても哲さんの言説は輝きが違ってくる。心を打つ話ができるのである。
それに一階部分の地盤の弱いひとほど、理念観念に走る。「私、オレ」の主張に力がこもる。自我に力点が置かれてしまうのである。引用ばかりで、ウソっぽいのである。
やっぱり大切な部分は一階。親問題。
そこからすべてが始まっていくのである。
親のいない子だっているのだから、そこは教育の力によって「人間になっていく」という道のりを歩むことになる。ほんとうの教師とほんとうの図書館との出会いが、だから人生には必要必須になってくる。しかし、たとえほんとうの教師でも「愛する」ことそのものを教えることができない。峻厳な事実。「思いやる」ということは教えることができない。いくら暴力を使っても「国を愛する心」を教えることなんて、とうていできないんだ。「愛する」って、そういうこと。
以上、哲さんのことを思いつづけている。「子どもは『された』ように、ひとに『する』」という話(つづく)。
(12月19日)