論楽社ほっとニュース

京都・岩倉の論楽社からお届けします
<< 連載コラム「いまここを味わう」(第42回)へこたれずに生きぬいていれば――『モンシル姉さん』のように | main | 連載コラム「いまここを味わう」(第44回)「ひとが先」(文在寅) >>
連載コラム「いまここを味わう」(第43回)悪と行(ぎょう)

 頼りとするのは、断片。新聞や雑誌の小さな切り抜き、映画やTVのほんのひとときの誰かの表情。論楽社での参加者・話し手のちょっとした表情、ひとこと。
 それらが闇を生きぬく手掛かりになる。ヒントになる。
 手掛かりを頼りに少しでも前へ、前へ、進んでみる。直観を胸にエイッと歩いてみる。
 15年前の、ある小さな新聞コラムを書き抜いておいた。捨てずに保っておいた。それがポロッと出てきた。
 西山厚さんについての小さなコラム(2005年1月6日、朝日新聞)。全く知らないひと。でも、顔がいい。表情がやわらか。人間、いろんなことが顔相に沁み出てくるもの。その顔を頼りにし、西山厚さん(15年前当時は奈良国立博物館資料室長、現在は帝塚山大学の教員)の『仏教発見!』(講談社現代新書、2004年、以下本書とするね)を読んでみたのである。
 顔相そのままの、滋味深い、温和な本書であった。おもしろかったな。でも、文句も湧いたな。文句は志を伝える作業でもある。
 縁起についての西山自由訳が「どんなことにもわけがある」なんていい。簡潔で巧みだ。
 圧巻なのが、聖武天皇。東大寺の大仏造立の詔(743年)で天下の富と勢いを持つのは自分だ、と言っている。「オレ様天皇か」と思っていたけど、違っていた。祖父母、父を20代で亡くし、子どもをも亡くし、世は干ばつ、飢饉、地震、病気が相次いだ。〈その責任はオレひとりにある。自分は徳もないのに天皇になってしまった。いっしょうけんめいやってはいるけど、十分ではない。仏教の力をもって、なんとか天地をゆたかにしたい。人間だけじゃなくて、動物も植物も、すべてのいのちが栄える世にしたい〉——。聖武天皇、やるじゃないか。
 そのためにひとりひとりが自分の盧舎那(るしゃな)仏をつくり、みんなで「生きとし生けるものの幸せ」を祈っていこう、という願が大仏建立へ。
 コロナウイルスのいま、改めて大切なことを言っていると思う。
 聖武天皇のことを知らなかったと思う。本書に出会わなければ、そんな天皇のこと、気にもかけていなかった。
 本書が説明するように、日本の仏教は宗派宗門にこだわり過ぎていると私は思う。縮小再生産のくりかえしで、細かく小っちゃくなりすぎているとも思う。
 それもたしかである。私はそもそも「宗教がひとを救うのではない」と思っている。救いって、じゃあ何なのか。そのひとがひととしてのびのび生きることができること。この地上の現世のいまここで(来世でなく)、安心し、平和で、喜びの中に生きとし生けるようになることである。
 宗教はそれを実現するための手立て。手段(政治だって、経済だって同じ)。宗教がなくても、それが実現できれば、オッケー。
 ただ自らの欲望への執着を自力で相対化無化できるすることがなかなか難しいので、宗教を手立てに使うのである。ナマの生命体験に至り、彼岸に渡ることができるならば、その手立てとなった舟は乗り捨てればいいのである。
 私が望むのは、社会、国家、天皇のための私ではない。私たちのそれぞれがそれぞれに喜びを深め、ひとりひとりが私たちそのものでありつづけるための社会、国家、天皇。
 私はそう思いつづけている。
 本書の西山さんは善良なひとで、歌が自然に湧く、明るいひとなんだけれど、仏教の説明がフラットすぎる。良い子すぎる。法然と明恵を並列して説明するのもええけど、明恵の法然に対する呪詛(じゅそ)の手紙も引用しなきゃ。
 不平をもう少しあえて言えば、宗教が扱う「悪」だ。本書には「悪」が不足している。実存としての「悪」だ。小さくされてしまった悪人への気づきから湧き上がる何か、だ。「悪人正機」の気づきこそ、宗教や文学の普通のテーマ。主題。
 そうして最大の問題は、本書には行(ぎょう)が決定的にない。実践がない。行がない学や論は、仏教ではない。
 以上、ひとつの感想。出会って、よかった。批判はしたけど。「お与え」の生の違いだから。
(4月23日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 10:21 | comments(0) | - | - | -









      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< August 2020 >>

このページの先頭へ