大切なことは繰り返し書こう。何度も同じことを言おう。
そのひとの存在を感じつづけ、態度しぐさを味わいつづけ、声を聞きつづけてゆきたい。
その働きに出会い、生きるチカラをいただいたのだから。
平和は実在であり、本質であることを示現してくれたのだから。
中村哲さんのことである。
生前の中村さんには「哲ちゃん」なんて呼ばさせていただいたけども、ほんとの心では師と思ってきた。ずっと求めてきた、宗教人生その他を含んだ先生だったんだと気づく。
耳の底に残った声を毎日のように聞いている。
6月4日の朝も、ふと、思い出し、涙が出た。考えてみれば、亡くなって、ちょうど半年を経た日だったな。
いろんなことを思い出す。1995年から2000年までの初期のころのことが、しきりに思い出されている。
ランダムに、思いつくままに、中村さんの発言を書き出してみる。たった3つだけだけど。
A. ハンセン病対策について。「日本はカネが妙にあるから、(終生隔離政策を)やったんだと思います」。
浮浪しているハンセン病者が英国大使館前で死んでいて、苦情を日本政府に訴えたことが「らい予防法」制定のきっかけ。欧米諸国に対し、ええかっこをすることが起因。
その結果、どれだけの悲苦を生み出したか。そうして、どれほどの金も使ったのか。
戦争をするのと同じで、全くのムダなことをしたもんだ。差別政策や戦争を実行して、何が結局残ったのか。
B. 1995年から中村さんには真夏の蝉時雨のころに連続して来ていただいた。何を思ったのか、こんなことを司会しながら、私は言ってしまった。
「また来年の蝉時雨のころ来ていただけますか」「再来年も次の年も、そう、死んでも来ていただけますでしょうか」と。
中村さん、ほほえみながら、「はい、承知しました」「でも、そのとき(肉体から離れたとき)、どうやって、来たらよいのでしょうか」。
論楽社はやさしい笑いに包まれた。
包摂のほほえみ。
C. 中村さんがこれまたほほえみながら、「情はひとのためにあらず――というのは本当です」と。
最も貧しく低く小さくされているひとたちの痛み、苦しみ、悔しさ、さびしさ、怒りを通して伝わってくるエネルギーがすべての行動の出発点なんだ。中村さん自体がどれほどのパワーをもらっていたことか。
もっと、もっと自らのいのちの井戸水を掘っていこう。下へ掘り下げていくことが中村さんに出会った人間の、中村さんへの回向(えこう)、供養(くよう)である。
大切に生きていこう。
(6月25日)