Yさん、お手紙をいただきました。10年ぶりかな。うれしく思い、何度も読み返しています。感謝します。
昨年4月にお連れ合いが亡くなられたとのこと。非在はさみしい。悲の井戸水を汲み上げていってください。たとえ寝た切りであったとしても、生存しているだけで、いまここに在るだけで、エネルギーがかくかくと伝わり流れてくるものですから。いのちはありがたい。
お連れ合いとはもっと話したかったと思います。一度だけ「蓮如(1415〜99)以降、ダメだ」と語っておれらましたね。20年前か、15年前か。覚えておられますか。もっと私のほうから「わが意を得たりです」とか、言っていけばよかったのですけど。当時はまだまだ猫を被(かぶ)っていたのでしょう。自坊の真宗への批判の言葉を受けとめ、語りあいたかったですね。言と行とはいつも不一致です。
6月21日(日)に半年ぶりに本田哲郎さんに会いました。そこで「いまなお限界がある自力の救いを」(連載コラム「いまここを味わう」第50回2020年6月11日)で書いた旨を直接に伝え、少し対話しました。
そこで真宗の言うところの還相(げんそう)について、本田さんにふと話しました。「えっ! そうなの」と驚いていましたよ。本田さんですら、還相をご存知なかったこと。
還相は親鸞(1173〜1262)が願っていたことです。「いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まず有縁を度すべきなり」(『歎異抄』の五)。《急ぎ仏になって、まず縁ある者を救済していくんだ》です。
もういちど言います。「凡夫の私はこの世ではとうてい悟りは開くことができない。ひたすら阿弥陀の他力の導きによって、死後に初めて修行を始めることができる。修行し、仏になったら、こんどこそ、この世に還(かえ)って、ひとびとの悲苦を軽減しなくてはいけない」。
還相なんてあるのでしょうか。いま真宗ではあまり言われません。ひたすら自力の慈悲の限界を見つめ、阿弥陀の他力の慈悲にすがって、往生を為していくことのみが強調されます(往生を為すことが往相です)。往相が試合の前半。後半の還相と合さって、試合は完了するのです。
あの世の存在を信じているひとはあまりいません。いわんや、六道輪廻(りんね)も。
そのあの世において仏(ぶつ)になり(つまり凡夫ではなく)、どんどんこの世に還ってきて、そうして守護し、加護する――、という物語を信じられなくなっているひとが多く、語られることもほとんどありません。
本当かどうかもわかりません。立証できるわけでもありません。
800年前の親鸞という人物は、還相の物語を信じ切っていた。法然は実際に法然自体が還相してきたひとという自覚があったようです。その実感をもって語り切るひとがいないと思います。
宗教は人物です。人間です。大きな物語。次々と往生したひとが次々と還相しつづける。精神のバトンリレーが為されつづけていく。そんな物語を信じ切っているひとがいまいるのでしょうか。なのに、「自力はいかん」と言って、現前の政治悪に対し、何も為さない念仏者。
「弱いね」と本田さんはボソリと言っていた。
私もそう思います。
Yさんのお連れ合いはどう考えておられたのでしょうか。Yさんもどう思いますか。
蓮如以降をどう考えておられたのでしょうか。「父母(ぶも)の孝養」のためには念仏はしない、と言っていた親鸞だったですけど、蓮如以降は先祖崇拝でもある大教団になっていったんですもんねえ。ちょうどイエス自身の願いとは別のキリスト教団が生まれていったのと全く同じです。誰が白で、誰が黒。そう思っているのではありません。灰色のユーモアって、ありますから。
ひとりに戻って言うべきことは言っていきたいと思っています。
Yさん、またお会いしましょう。
そのときまで、お元気で。
(7月2日)