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連載コラム「いまここを味わう」(第56回)元気の素――エン・クリスト、エン・ブッダ

 伏見の教会へ月に1回、行っている。本田哲郎さんの聖書読書会があるからである。
 私はキリスト者ではない。何度も言っているように、無教会派仏教者である。
 その読書会でも非キリスト者は私だけだ。
 ときどき思う。私の人生で圧倒的に励ましのパワーをくれたひとは故金在述(キム・ジェスル)さん、故中村哲さん、そうして本田哲郎さんの3人。それぞれがキリスト者である。「何か深い縁がある」と気づいている。私のような非キリスト者にまで流れでてくるイエスの励ましのパワーはありがたいと思っているから。
 小さく、低くされ、貧しくさせられている私にまでも元気の素を与えてくれる「神聖な何か」にいつもいつも感謝している。ユダヤ教徒のみに限定された元気の素の袋を破って、すべてのひとびとに解き放ったのであった。
 7月12日にも本田さんに会った。いつも会うたびに「虫賀さん!」と笑顔で声かけしてくれる。
 パウロの獄中からの手紙を読んでいるけども、その手紙のテーマはひとことで言えば、エン・クリスト(私はキリストの中に包摂されている)。神を認めるか、認めないかにかかわらず、包み込まれているのである(inclusion 包摂)。
 本田さんはひと通り話し終えた後、私のほうを見て、エン・ブッダ(ブッダの中に包摂)と言ってもらう。「私はブッダの光に包み込まれ、人生の中心にブッダを置く」という思いを言葉にしてもらった気がするのである。ブッダの瞑想法の恵みは、非仏教徒の欧米の人たちにも光被していっている。
 その1週間後の7月19日に鈴木君代さんと浄土真宗との近似性について、少しだけ対話した。「よく似ている」ということで一致した。
 もちろん仏教は神を想定しない。いくら神と言えども、ひとが想定したと考える。絶妙な相互依存的連係生起(ふつうは縁起と言う)の動きの全体は、神の摂理と言いたくなる。けど、あえて言わず、寸止めしている。
 でも、近似している。
 ブッダの瞑想法を以ってしても苦が滅していかない仏法たちが生身のブッダの果ての姿としてアミーダ(無量仏、測ることができないいのちの仏)を想定せざるを得ないと思ったのだ。絶対神を想定しないという禁じ手を使ったのである。きっとペルシャ(イラン)、アフガニスタンに流れ込んでいたネスリウス派キリスト教(景教)、ゾロアスター教などが想定する神の影響を受けたのであろう。そう思っている。
 イエスの働きとははるかかなたの別もののキリスト教(どうしてローマ帝国の国教となったのか、どなたか教えてくれませんか)になったのと同じように、ブッダの働きもはるかかなたの別ものの各宗派宗門となっていったのも、おもしろい類似だ。本田さんは「そういう別もののキリスト教ならキリスト教を卒業していくと肚(はら)をくくることが必要」と言う。私も全く同感。
 私は念仏者の両親に育てられたので、仏教者である。山に登るのに、二つの道で登ることはできない。一つの道しかない。辿り着く山の上はエン・クリストであり、エン・ブッダと思っている。
(7月23日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:05 | comments(0) | - | - | -









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