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連載コラム「いまここを味わう」(第60回)倒錯の関係――『はだしのゲン』を巡って

 中沢啓治さんの『はだしのゲン』全10巻(汐文社、図書館で借りて読んだのは30年前に刊行された愛蔵版、以下本書とする)を読んだ。
 45年ぶりに再読した。5巻以降は初読だ。
 17歳のときに集団(修学旅行とか)で広島へ行って心に残ったので、19歳のときに単独で再び行ってみたのである。広島駅の近くのユースホステルに泊まって、原爆資料館(広島平和記念資料館)へ通った。リュックには赤線をいっぱい引いた『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎、岩波新書;「安江良介」という名を初めて知った)を入れていた。
 本書は当時もすでに有名で、宿のひとびとが話しているのを耳にしていた。私は知らなかった。で、手に入る巻を読んでみたわけ。あまり話題にはしなかったけど、45年間ずうっと心に残っていた。
 ホームスクールで『パンプキン!』の授業を継続しているので、その流れで本書に辿り着く感じ。
 以下、本書への思いをいくつかを短く記してみる。A〜Cの3点である。
 A.フィクションのマンガといえ、ゲン(中岡元という小学生が主人公)の生命力は驚異だ。アナーキーに暴発させ、原爆という人為の極北の惨劇に立ち向かっていく。踏んでも踏んでも、踏むことによって、かえって大きく育つ麦のように――というゲンの父の遺言のように、実際にゲンは太く強くなっていく。怒りの慈悲心といえばよいのか。ありえないことをあるものとして押し付けてくるものに対し、体を震わせて怒り、大きな目玉いっぱい涙を流し、怒るゲン。「しかたがない」と絶対に言わないゲン。有縁のひととの対話で生じた知恵を頼りにひたすら立ち向かい、結果として解決し、相手をも生かす。
 マンガといえ、スゴイ。怒りの慈悲心というテーマを見出している点、本書はスゴイ。
 B. 「ピカドン」とは原爆を落とされた側の、虫ケラ扱いされ、生体実験の材料とされた側から生まれた造語である。8月6日の夜には広島で自然と湧き上がり言い始めていたんだ。1万度を超える爆発熱と時速100キロメートルを超える爆発風の全体を現出させる造語だ。
 放射能のこと、誰も知らなかった。医者もわからなかった、わからないならば、「わからない」と言えばいいのに、激しい下痢嘔吐を伴うので、「まるで赤痢のようだ」と言ってしまう。「まるで」と「のようだ」が次第に取れ、「赤痢」になってしまい、「うつる」になる。実際にヒバク者は「うつる、うつる」とさんざん言われ、差別される。米軍の報道管制下で、「わからない」は「わからない」と言い切る勇気が専門家にないのか(コロナの現下、専門家は大丈夫なのか)。
 C.米国においてなぜ原爆は悪ではないか、である。どうして原爆投下をいまでも多くのひとびとが肯定しているのか、だ。現米国大統領は「原爆投下は偉業」とまで言っていることだ。どうしてなのか。
 国家に対し無条件の忠誠を誓わずにふつうに生きればいいのに、どんな政権に対しても「オカミには従う」でやってきている日本国民多数派。戦後、天皇の上位に米軍を冠し、無条件に徹底的に追従する体制派。米国に奉公を繰り返している。
 「原爆は悪ではない」と米国が言えば、それに従ってしまっている、日本の現在(いま)。「原発はひどいではないか」と言うひとたちを「反日分子」と言って責め立てる体制保守派。ナショナリズムとは全く言えない倒錯ナショナリズム。「これがいちばんの原爆問題だ」と、なぜ言わないのか。
 戦争、勝つこともあれば、敗けることもある。
 その敗けることを「ない」とした天皇制支配の戦争。この社会科学のイロハのイを排除して迎えた敗戦。「ありえないことがあった」のである。「ありえないこと」をした米軍に対し、倒錯した関係を生んだ。日本政府が歪みに気づいて、まず言葉にし、つまり、「ピカドンはヒドイ」と抗議することから始める。でないと、こういうことすらできないと、日本の存在理由がないではないか。
(8月20日)

| 虫賀宗博 | いまここを味わう | 12:36 | comments(0) | - | - | -









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